太陽の帝国 87年
2014年4/28ガラケー投稿 2018年12/9タブレット端末にて全面改稿開始〜12/12終了 投稿当時は1日あたりのPV数が50以下、下手すると20にすら届かない……もしかしたら誰も読んでないんじゃ(汗)という頃 本編とはまるで無関係な与太話書き連ねてますので全面改訂致します。
【 自身が恵まれているあるいは甘やかされていられる事に気付かないでいた無自覚に傲慢な少年が、生まれ故郷の破滅とドン底生活 捕虜や逃げ遅れた避難民ではなく外国人犯罪者として捕まり送り込まれた収容所で見てしまったモノは?欧米が日系移民とその子孫にやらかしたナチス顔負けの強制収容や "開戦直後のフィリピンでアメリカ軍が組織的に行った邦人絶滅収容所" と違いあくまでも民間人に対して人道的だった日本軍の姿とか、立場が変わったと容赦なく外国人居留地で略奪と放火やレイプに勤しむ中国人=内戦で英国租界に逃げ込んで来た難民の成れの果ての醜い姿とか色々考えさせる物語です。 】
★偶々知り合いの紹介で閲覧した資料に、日本人の赤ん坊殺して気勢を上げるアメリカ兵の報告が…… 案外 "恐怖劇場アンバランスに出てきた赤ん坊殺して復讐される元日本兵" の元ネタって此処から来てるのかも知れません。
原題:EMPIRE OF THE SUN
太陽の帝国=まあ要するに大日本帝国です.
アメリカ劇場公開作品.
日本公開は翌1988年.
上海租界生まれで中華人民共和国成立後に敵性外国人として両親共々故郷から追放された青年=後のイギリス人SF小説家“ジェームズ・グレアム・バラード”が1984年に出版し自身の収容所体験と(但し彼の場合家族丸ごと保護されてた様なモノ…実際に酷い思いをしたのは英国暮らしに入ってからだそうです。)当時収容所で知り合った孤児達の体験談を元にオリジナルキャラクターである少年が目の当たりする英国租界の崩壊を描いた歴史物語っぽいファンタジー。
今や大陸には存在しない青空と取り壊され高級ホテルやアパートに成り果てる前の旧市街や租界跡地 共産党政権成立後から急速に汚染が進んだゴミ塗れの港湾風景に砂漠化が進む内陸部 但し文化大革命が破綻し紅衛兵が追い払われ 多少は自由に動き回れ忌憚のない意見が言える雰囲気が明るさを醸し出す。 そんなエアポケットみたいな時代に撮影された最後の映像になります。
敢えてファンタジーにしたのは勝者の移り変わりを象徴的に見せる為 収容所隣の “陸軍基地から太平洋へ出撃する神風特攻隊のゼロ戦搭乗員達との交流” や “飛行場を破壊し尽くすP51ムスタング戦闘機” の勇姿に “ナガサキに投下された原子爆弾のキノコ雲と強烈な光が蘇州まで届き神罰にしか見えない” とか “終戦直後に蘇州や上海を開放し日本軍を捕まえる為にパラシュート降下して来たアメリカ軍空挺師団” と有り得ない描写や突っ込み所満載のエピソードが登場しますが 史実通りの体験談映画化しても誰も喜ばないのでこんな物語に成りました。 あくまでもアレは飢えと異国に置き去りにされた不安感で錯乱した主人公の頭の中で展開された妄想としてお楽しみ下さいませ。
まあ陸軍基地空爆シーンはシェンノート将軍率いる非合法義勇軍=フライング・タイガースにより宣戦布告無しで始まった日米戦争 これで日本は開戦決意固めた の裏事情を露骨にバラしたくない そんなややこしく面倒臭い理由もあったのですよ。 フライング・タイガースは開戦契機に正規軍=在中国第5航空軍に取り込まれ大戦末期に民間人狙った無差別爆撃に戦闘機による機銃掃射もやらかし上海市民に大量の犠牲者出してますから民意は一気に中共軍へ流れ込みました。 爆撃シーンと空挺師団による街の開放は過去を美化したいダメリカ軍&結局最初から最後まで民間人保護を含め何もやらなかったイギリス軍に対する皮肉めいた嫌がらせです。
日本公開の翌年に発生した89年の天安門事件を契機に、言論の自由は封殺され 当時多数の軍閥が小競り合いやらかしながら日本軍と戦闘〜占領地の治安維持に奔走する羽目になった日本軍のイメージを低下させる為に始まったのは 残虐な敵を素手で真っ二つにしゼロ戦を手榴弾投げ撃墜する超人でありながらやたら服が脱げる女性八路軍が登場しまくる愛国ドラマ(笑) 恐らくは歓待に騙された日本の経団連やダメリカやヨーロッパに繁茂するリラベル勢力の妥協の産物とも言えるODAや投資増大により調子に乗ったあの国は、昔ながらの傲慢極まる“中華主義”を復活させた事により地球環境全体を破滅させかねない拡大政策という自壊の道をひた走ってるワケですが まあ今回の映画には無関係なエピソードだし本道に戻します。
そもそも“犬と中国人は立ち入り禁止”だった筈の占領地=上海.英国人を始め先進国それぞれが暮らす箱庭である居留区.租界に何故中国人、しかも難民が貧民窟作って居座っていたのかという裏事情から 本来ならば彼等の避難は一時的な物であるべきなのですが 1853年の太平天国の乱に同調した小刀会というキリスト教系秘密結社の清王朝への反乱により始まった内戦から避難して来た連中を人道的な見地 (勿論キリスト教布教の尖兵にしたいという下心も有った) から租界へ収容。 彼等の大半が文字の読み書きすら覚束ない貧農であった為に職業訓練もままならずというかイギリス自体全国民の義務教育始まったのは1950年代後半に入ってからだから御主人様とやらも大抵がボンクラ揃い。 大抵の子供は教会で聖書の読み聞かせと自分の名前が書ける程度 マトモな教育受けられるのは貴族階級や商人の子弟まででした。
誇りばかり高い役立たずは食糧配給や衣食住支援に頼り切りな生活⇒ヤル事ないから阿片窟と売春宿に⇒結果中国人難民の出生率だけがネズミ算方式でバンバン増えるという無限ループ。 流入と人口増大は止まらず、日清戦争の敗北.第一次世界大戦と清王朝崩壊.中華民国誕生 したけど孫文死んだら各地の軍閥が再び内戦始めてソビエトの支援受けた中国共産党も山賊紛いの略奪戦争始めた事から本来なら外国人居留地を守らないといけない関東軍=日本軍までもが雰囲気に酔った挙げ句に満洲国独立なんてギャンブルやらかし 中華民国政府と全面戦争に突入 租界は“魔都=上海”と呼ばれる程の混沌状態に 勿論マカオや香港も似たようなカオスに成り果てましたがこれ以上はまた別の機会に取り上げますね。 もの凄く面倒臭いし。
取り敢えず本編あらすじ書き込む前に1941年12/9当時の上海租界=アメリカ.イギリス.日本.イタリアが協同統治する国際共同租界とフランス租界を取り囲む環境説明を、4年前1937年8/13に起きた第二次上海事変…外国人排阻.特に中国人から見ると
“元々は我々に傅く下等生物の癖に欧米に媚びへつらっていけ好かない日本人と奴等に協力する売国奴の皆殺し”
を企みナチスとソビエトの軍事支援受けて宣戦布告無しで始まった中華民国軍3万人による外国人皆殺し作戦は、学生過激派による放火や略奪等の暴動誘発に毒ガス兵器投入と薬物中毒で狂乱状態な味方兵士に銃を向け自殺戦法を強要する督戦隊まで投入したにもかかわらず僅か1000名程度の海軍上海陸戦隊に阻止され。挙げ句の果てに救援の為に送り込まれた増援部隊と空母や戦艦まで投入した日本軍の反撃に投入戦力ほぼ壊滅の大損害を被る結果に…。
蒋介石軍追撃の過程で中国北部はほぼ日本軍に占領され翌年6月、時間稼ぎの為に徐州で行われた黄河決壊作戦と焦土作戦で100万人の民間人を溺死させ600万人を被災させた中華民国軍は南部へ逃走。周辺地域は泥濘と水死体や斬殺死体の海に…で、ただでさえも貧民窟が増えまくりな租界や占領地、果ては満州族と亡命ロシア人やユダヤ人に開拓者として送り込まれた日本人が暮らす満州国にまで数十万の避難民が雪崩込むという悲惨な状況になってます。既にパヨクの宣伝機関と化していたダメリカやフランス、イギリスのマスゴミは洪水の原因を日本軍の攻撃と宣伝した為、欧米の世論は反日一色に染め上がります。
日本軍は人海戦術による農地や住居復旧を行いながら終わらない戦争に巻き込まれます。そこに利権を見出したアメリカによる蒋介石政権への武器輸出に密かに始められた軍事支援。上海経由で南京へそして重慶へと拡大を続ける終わりの見えない戦闘から来る日本側の欧米への不信感&マスゴミが捏造し世論に誘導された欧米諸国の日本軍への警戒感は調子こいた要求やらかしたハルノートと日本人嫌いなルーズベルト大統領の暴走により世界大戦への道をひた走る最悪のルートへと突き進む訳ですが…
勿論そんなややこしい政治状況理解出来る年でも無いこの物語の主人公ジェイミーには関係ない事でした。
【 上海の港にゴミの様に漂うのは黄浦江上流から棄てられあるいは黄河決壊で沈められた村や街から流されて海へと辿り着いた無数の棺桶 日章旗が掲げられた連絡船がそれにぶつかり次々と沈めてゆく異様な光景を無心に眺めながら能天気にも賛美歌を歌い踊るのはこの物語主人公で未だ自身が傍若無人で我が儘な存在である事に気付かないジェイミー 彼の目線に映る中国人は生きている者も死んでいる者も公平に卑屈で見るに耐えない存在だった。 】
合唱団に所属し週末は教会で賛美歌を歌い、大勢の中国人召使いに傅かれながら屋敷へパッカードの高級車で快適な送り迎え……まあ俗に言う箸より重いモノは持った事が無い生活 大抵の我が儘はかなえられ恐ろしいモノなど何1つ無いジェイミーのお気に入りはアメリカ製の自転車とゼロ戦を模した飛行機の玩具 大人になったら僕は日本軍に入り僕はあの美しい戦闘機のパイロットになるんだ。
✳バラードは後年空軍に入隊しカナダで訓練受けますが……
世の中の流れ等何も知らないジェイミーの人生が激変したのは、1941年12月8日の事。アメリカ.イギリス.オランダに公式に宣戦布告をおこなった日本に対し“今迄現地軍閥が勝手にやらかした戦闘だから俺達は無関係”とそれまで今で言うとISISみたいな戦争続けてきた中華民国も翌日9日に日本へ宣戦布告。外国人租界は4年前の様な戦闘に巻き込まれるのを恐れた緊急避難で大混乱に陥る…なにせ今度は日本軍も彼等の敵に回るのだ。
混乱の最中両親とはぐれたジェイミーは困り果て、自宅に戻り迎えが来るのを待とうとするのだが彼が目の当たりにしたのは嬉々として略奪に励む中国人召使い達の醜い姿。メイドに殴り飛ばされ屋敷を追い立てられた彼は更に逃げ遅れた外国人を狙う暴徒に襲われ、偶々知り合ったアメリカ人窃盗グループのリーダー格のベイシーとフランクに助け出される。廃墟と化した自宅に寝泊まりし空き巣や略奪で身を立てる生活を続けるベイシーの下働きをする事で食事の面倒を見て貰っていたジェイミーは、ある日遠出の仕事を手伝った後、金目の物を探して再び自分の屋敷に戻った所を近隣の暴徒を追い払い屋敷を接収した日本軍に見つかり仲間達諸共捕まってしまう。
既にイギリスやアメリカへ向かう脱出船は1隻も残っていない事から、彼等は他の逃げ遅れた民間人共々臨時に設置された収容所へ…租界の恵まれた生活からホームレス、更には捕虜と余りに落差の激しい不衛生な環境と慣れない集団での避難所生活で人々が流行り病や心労によりバタバタと死んでゆく中をベイシーの子分として便宜を図ってもらい生き延びたジェイミーはその後、居住環境や食糧事情がマシな蘇州収容所へと送られた。大人達と違い幼い頃から日本軍に憧れすら抱いていた彼は看守達とも友好関係を構築しており紆余曲折を経て収容所のリーダー格になってゆくベイシー(書き忘れたけどマルコヴィッチ)やお調子者のディンティー(無名時代のベン・スティラー)に体よく利用されながらも厳しい時代を生き残る。
だが過酷なサバイバル生活…少しずつ悪化する食糧事情に絶え間ないストレスが重なる集団生活は徐々にジェイミーの心と身体を蝕み始めていた。
1945年、悪化する戦況は蘇州収容所に隣接する“陸軍航空隊基地(子供の脳内ファンタジーだから並ぶのは憧れのゼロ戦。パイロットは子供の頃から基地で育てられ大人になったらゼロ戦乗りに…と突っ込み所満載ですがスルーして下さいな。)”からも太平洋の彼方に君臨するアメリカ軍艦隊を撃滅する為に神風特攻隊を出撃させる事に…その中には主人公と友達になった大泉洋そっくりな少年兵も居た。
賛美歌を歌うジェイミーが見守る中、夜明けと共に離陸した爆装ゼロ戦に襲い掛かり飛行場を壊滅させたのは懐かしいロールスロイスのエンジン音を響かせる(スルー宜しくね)銀色の美しい戦闘機=アメリカ軍のP51ムスタングだった。錯乱した主人公は医者やベイシーの腕を振り払い収容所の屋根の上へ駆け上り米軍機に満面の笑顔で手を振り続けながらも同時に日本軍を叩きのめす恐ろしい彼等を目茶苦茶に罵り続ける。廃墟と化した航空基地…みんなに取り押さえられようやく正気に戻った主人公は何故そんな行為に及んだのか自分で自分を理解出来ず、まるで4年前の子供に戻ったかの様にさめざめと泣き出した。気が付けば母や父の顔を思い出せなくなっていたのだと。
航空基地と外国人収容所は放棄される事が決まり日本軍は姿を消した。僅かな看守達と共に空襲の無い安全な南島収容所を探し大陸を彷徨う。迂闊に立ち止まったり仲間とはぐれたり眠り込んだりしたら追い剥ぎ狙いの中国人達に容赦無く全てを奪われる。炎天下次々と収容者も看守達も疲れ果てバタバタと倒れ命を落としていった。死にかけたビクター夫人を見捨てられず共に廃墟に置き去りにされたジェイミーは夫人の最後を看取る際に東の空に広がる閃光を目撃するのだがそれは長崎に投下された原爆の光だった。故郷へ戻ろう…そう思い立った彼は上海を目指し歩き始める。
寝泊まりする場所を探し蘇州の収容所隣の航空基地へ辿り着いたジェイミーが目撃したのはパラシュートで降下して来る大勢のアメリカ軍と大量の救援物資。甘い練乳缶(Nestleのコンデンスミルク…沖縄では復帰前迄牛乳よりメジャーだった。つーか牛乳飲めたの給食だけだったかと聞いてます。ブルーシールの保存料入りミルク・もち販売中止は目茶苦茶不味かったし。)を貪る様に啜り薬臭いHershey'sチョコレートやクラッカーを頬張る。日本軍が基地に残していた自転車に久し振りに跨り焼け落ちた収容所や倉庫群を散策中に偶然ボロボロになったゼロ戦の前で終戦の玉音放送を聞き絶望のあまり命を絶とうとする少年兵と再会……相変わらず言葉は通じないけど何とか自決を思い留まらせた少年は偶々そこを通りかかったアメリカ兵に射殺された。
数ヶ月後、他の戦災孤児と共に教会に保護された主人公を探し両親が訪れた。余りに変わり果てたジェイミーを父は見つける事が出来なかったが母は彼を探し当てた…だが彼自身は既に両親の顔を忘れかけていた。その後何があったのかはあまり話したくない。
★なお両親と共に捕虜収容所から解放されたJ・G・バラードは戦後すぐ1946年にイギリスの祖父母の元に預けられ割と悲惨な学生時代を体験します。上海から追放された両親と再会したのは1949年の事です。故郷を失いその後の人生を根無し草同然に生きて老境を迎えた彼が再び上海に戻れたのは映画に特別出演する為…既に両親は無く半世紀以上の年月が過ぎ去った後の事です。




