沙希
近づいてきた沙希が、暗闇からその姿を現した。
「おかげさまで、体はだいぶだるいけど痛みとかはないよ」
「ほっ、良かった。なら安心なのです。あ、周辺に異常はありませんでした」
どうやら、見回りから帰ってきたところだったようだ。
「沙希ちゃん、お疲れさま!」
「ありがとう、ユキさん。でもまだ起きてたんですね。沙希が言うのもなんですが、明日にひびきますので早めに寝たほうが良いですよ? 見張りは沙希がやりますから」
「……そうだね。あっくんともお話できたし、そろそろ戻ったほうがいいのかな。うん、じゃあまた明日だね、おやすみなさい!」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさいです」
すたっと立ち上がって元気に挨拶をかわすと、ユキは洞窟の奥へと戻っていった。
「不思議な女の子ですね。なんというか、沙希としては初めてお会いする種類の方かもしれません」
ユキの後ろ姿を見送ってから、そう沙希がつぶやく。
「右も左もわからない状態であんなふうに明るく振舞うなんて、沙希にはできないのです」
「僕にも難しいだろうね」
心の強さ。きっとそれが、ユキという少女の本質なのだ。
「そうだ。見張りだけど、次は僕が引き受けるよ。その次がイリスだから、沙希はこれでおしまい。本当にお疲れさま」
「えっ、そうなのですか? いいのですか?」
「明日はみんなが頼りだし、見張りくらいはやらないとね」
軽い口調でそう告げるが、真実今の自分は戦力としてはあまりあてにならないだろう。
情けない話だが、前衛などしようものならすぐに動けなくなるに違いない。
明日の戦いを見越すのならば、頼りとなりえる仲間の休息を優先すべきなのは明白だった。
「……わかったのです。ではお言葉に甘えて休ませていただきますね。もし領域内への侵入者がいたら、鈴の音が響くと思いますから覚えていてくださいです」
「了解」
こちらの意図を読み取ってもらえたのか、そう言って沙希はユキと同様におとなしく奥へと向かっていった。
沙希には言わなかったが、イリスと交代するつもりはなかった。恐らくは彼女のことだ、起こさない限りは寝ているだろう。
二人にはとにかく休んで欲しかった。
空を見上げる。ユキのいうとおり、そこは一面の星であふれていた。
「お兄さん」
急に、背後からいなくなったはずの沙希の声が聞こえた。思わず振り返る。
――チュッ。
すぐ目の前にある、目を閉じた沙希のきれいな顔。重なっている唇と唇。突然のことに頭はまったく働かず、固まったまま動けない。
やがて柔らかい熱がそっと離れていき。
「今日はありがとうございました。ユキさんだけでなく、沙希もそれにイリスさんもお兄さんに助けられたのです。……今はこれくらいしかお返しができませんけど、もうちょっとその、色々な準備ができるまで、待っていて欲しいのです」
「沙希……」
「それと、お兄さんのことだから言っても無駄かもしれませんが、本当に無理はしないでくださいね。小春さんじゃありませんけど、お兄さんがいなくなったら……沙希だって何をするか分かりませんよ?」
冗談めいた言い方で、微笑みながら沙希がそう告げる。
「それは困るね。分かった、善処するよ」
「ふふっ、期待してるのですよ」
ふぅ、と息を吐きながら沙希が後ろ歩きで離れていく。ふと沙希の顔を見つめると、再び目と目が合った。
心なしかその顔は、さきほどより赤みが増しているようだった。多分、自分も同じようになっているのだろう。
「で、では今度こそおやすみなさいなのです!」
「う、うん、おやすみ」
それ以上は語らず、挨拶をして別れる。
あとには、自分一人だけが残された。
「……はぁぁ……」
大きく息をはく。知らず識らずの内に緊張していた全身の筋肉が、ほんの少しだけ悲鳴をあげる。
こんなとき、いつもふと考えてしまう。果たして、彼女たちとの関係は許されるのだろうかと。
いや、分かってはいるのだ。どう言い繕っても、一般的には決して褒められたものではないことくらいは。
だが一方で、今の状態を維持しなければ自分の命は失われてしまう。そうなれば、きっと彼女たちを一層悲しませることになるだろう。
選択の余地など、最初からありはしないのだ。
せめてもできることといえば、彼女たちにふさわしい人物となること。しかしそれとて、どうすればよいのか分かるべくもなく――。
その場に腰を下ろし、再び空を見上げる。無数の星々は、さきほどと変わることなく天空で光り輝いていた。
自分のこと、彼女たちのこと、迷宮のこと、そしてユキのこと――。考えることはいくらでもあった。
気を抜かない程度ならば、もう少しだけ思索に沈んでも大丈夫だろう。夜は、まだ長いのだから。
源十郎の家での生活は――今考えればそれほど大したことではないのだが――それでも当時の自分にとっては波乱の毎日だった。
記憶を失っている状態での、見知らぬ場所、見知らぬ人との暮らし。源十郎からの言い付けで屋敷から出ることもできず、目に写る世界は屋敷の中だけ。
その当の源十郎といえばすぐにまたどこかへ冒険に行ってしまい、屋敷は何人かの使用人によって維持管理がなされていた。
しかし使用人たちの態度はみな腫れ物にさわるかのように余所余所しく、会話を期待できるような様子はまるでなかった。
恐らくは、漂流者であるということが忌避される要因だったのだろうと思う。
もっとも主人である源十郎から言い含められてたのだろう、不当な扱いを受けるといったことはなく、それだけは救いだったが。
一緒に来た小春はといえば、彼女は彼女でなぜか気が沈んでいることが多く、当初はなかなか話しかけづらい雰囲気であり。
結果として、部屋に一人でいることがほとんどという毎日になっていた。
――彼女が尋ねてきたのは、そんな状況下でのある日のことだった。
与えられた部屋でいつものように一人で本を読んでいると、急に背後から視線を感じたような気がした。
振り向く。
「……」
誰もいない。目に写っているのは、いつもと何もかわらない自分と小春の部屋だ。……しかし、よく見れば違和感に気が付く。
引き戸に、若干の隙間があった。
そっと立ち上がって静かにふすまに近づき、勢いよく開ける。
「……」
廊下には、やはり誰もいない。気のせいだったのだろうか。
ふすまをあけたままにして部屋の中央へと戻り、再び畳に座りなおして本を手に取る。
小春はどこかへ外出していた。といっても、敷地内に入るはずだけれども。
いつものごとくすることのない自分は、せめて今の状況を把握するべく今日もまた知識の吸収に勤しんでいた。
平和で味気なく、変わらない日常。
「……」
そこへ、また視線を感じた。
すばやく振り返ってみるが、あるのは開けっ放しのふすまだけだ。気のせいだろうか……いや、多分違う。そんな確信があった。
このままでは埒が明かないでの、少しばかり強攻策をとることにした。
本へと視線を戻し、同じ姿勢でしばらくそのまま過ごす。そしてそろそろ頃合かと見計らったところで、すっと息を深く吸い込んだ。
「動くなッ!」
「――ッ!」
するどい声で静止を命令しながら、三度振りかえる。
そこには、小さな女の子が立っていた。
突然の大声に驚いたのか泣きそうになりながら、ふすまから顔を半分だけ出してこちらをうかがっている、巫女装束姿の幼い少女。
源十郎から紹介を受けていた彼の二人目の娘、沙希だった。
まずい、泣かせるのは非常にまずい。
「ご、ごめん! 驚かせたかったわけじゃないんだ!」
近づいたら泣きながら走り去って行きそうな雰囲気を感じ取ったため、慌ててその場で釈明を始める。
沙希は、相変わらず顔を半分隠しながら何も言わずにこちらを見ていた。とりあえず泣きだすのは止めてくれたようで、少しだけ安心する。
「沙希ちゃん、だったよね。僕に何か用かな?」
「……」
「ああ、本当にさっきはごめん。もう大声を出したりしないから、ね」
「……」
無言。
そういえば、ひどい人見知りだと源十郎が言っていたのを思い出す。確かに今まで屋敷で見かけたことはあっても、話をしたことはほとんどなかった。
さて、どうしたものか。こちらの声に応えてくれることもなく、さりとてどこかに行ってしまうわけでもない。
どうにも困っていると、彼女が小さい口を開くのが見えた。
「……ですか?」
「ん?」
「……何を、しているのですか?」
「ああ」
細く小さな、しかし透き通るような声だった。
本を片手で掲げて、沙希に見せる。
「読書をしていたんだよ」
「……楽しいのですか?」
「うーん」
楽しい、か。
読書は楽しいのだろうか、わからない。他にすることがなかったのだ。
というより、果たして今の自分は何をすれば楽しいのだろうか。そもそも、趣味が何だったのかすら覚えていないというのに。
などという無駄な愚痴を年下の女の子にぶつけるわけにもいかず。
「何か楽しいことはないかなって、本を読んで探しているってところかな」
半分は本当、半分は嘘のような回答をする。
「……ひとりで、さびしくないですか?」
返しの問いは、なんとも手厳しいものだった。彼女の目には、自分はそんなふうに見えていたのだろうか。
「寂しくないって言ったら、嘘になるかもしれないね」
別に耐えられないほどではない、という言外の意味をさりげなく込めてそう返した。
「……沙希と、いっしょです」
「えっ?」
思わず、言葉が漏れる。
「父さまも、母さまもいません。沙希も、ひとりです」
源十郎は長旅が多く、ほとんど家にいることがない。そして沙希の母親は、彼女が幼い頃に既に亡くなったと聞いていた。
沙希は一人だった。
「沙希ちゃんは、寂しい?」
「さびしい、です……」
「そっか」
源十郎には大きな恩がある。まだ未熟な自分でも、そのくらいは分かっていた。
「なら、僕と遊ぼうか?」
今の自分にできるのは、この程度のことしかない。
「あき、ひとさんと、ですか?」
「そうだよ」
「ご本は、いいのですか?」
「読書なんて、しようと思えばいつでもできるからね」
「本当に……?」
「本当だよ。それとも、沙希ちゃんは嫌?」
「――ッ!」
そんなことないとばかりに、ぶんぶんと首を横に振る。
「なら、問題ないよ」
「ありがとう、です」
そうして、ようやく彼女は笑みを浮かべた。
「いいんだよ、僕たちは家族なんだから」
ほとんど形式上に等しいが、自分と小春は源十郎の養子ということになっていた。
ならば沙希は妹、ということになる。
「かぞく……家族、ですか。なら……」
沙希がほんのりと顔を赤らめる。
「……さん、と……いいですか?」
「うん?」
「お兄さん、と呼んでいいですか?」
なるほど。
「うん、いいよ」
それで彼女が喜ぶのなら、特に拒む必要はなかった。
「なら、沙希のことは、沙希、と呼んでくださいです」
「……それでいいの?」
「父さまと、いっしょです」
きっと彼女は自分でも気が付かない内に父親を求めていたのだろうと、そう思った。
別に、それでも良かった。
「――沙希」
「はい、お兄さん!」
そして彼女は、恐らく出会ってから一番の、とびきりの笑顔を見せた。