星空の下
静かに寝息を立て始めたイリスの先の言葉に従い、渡されたパンを食べて簡単に食事をすませる。
果物のジャムは偉大だ。多少硬くて味気ないパンでも、これがあればそれなりの満足を感じることができる。
さて。
視線を洞窟の入り口の方向へと向ける。それだけで、意味もなく鼓動が速くなるのが分かる。
落ち着け。何も取って食われるわけではないのだ。
ともすれば逃げ出しそうになる心を抑え付けながら、洞窟の入り口へと歩いていく。
いつもより重い足取りで歩くことわずか、果たしてそこにユキはいた。
彼女は外で腰を下ろして、空を見上げていた。月光に照らされてた白いワンピースが、夜の闇にひときわ映える。
その後姿はなんとも幻想的で、声をかけようとする行為がためらわれた。
立ち尽くしたまま、とりあえず深呼吸する。……やはり、おかしい。どうしておかしいのか自分でもよくわかっていないが、とにかくおかしい。
とはいえいつまでもこのまま背中を見つめているわけにもいかず、思い切って口を開く。
「ユキ」
「わっ、あっくん!」
声をかけられて振り向いた彼女は、こちらを確認すると満面の笑みを浮かべた。
「何をしていたの?」
「お星様を見てたんだよ」
空は、いつのまにか満天の星の輝きであふれていた。視線を戻してまわりを見渡すと、この場所だけ木々が茂っておらず拓けているようだ。
遮蔽物がなくてかえって目立つような気がしたが、イリスが指摘しなかったことを考えるに、恐らく既に沙希が結界で対処済みなのだろう。
そっと隣に腰を下ろす。
「確かにきれいだね」
「ね、そうだよね!」
平常心を意識しながら、いつもどおりの振舞いを心がける。
「ユキは星が好きなんだ」
「うん。あのきらきらした小さな光を見てると、なんだか吸い込まれそうになるの。手の届かないずっと遠くにも世界はあるんだって……そう思うと、心がふわふわするんだよ」
そう言って彼女は、星空の彼方へと手を伸ばす。
「やっぱり、うまく伝わらないかな」
「いや、なんとなくわかるよ」
彼女の言葉は、どれもまっすぐだった。きっと全部そのままの意味なのだ。
ああ、そうだ。だからもう自分も認めるべきなのだろう。
「元気をもらえるんだよね」
「ふふっ、わかってくれてありがと」
出会って間もない彼女に、どうしてか惹かれているということに。
「ユキは、さ」
「なーに?」
けど、いやだからこそ、確かめる必要があった。
「どうしてあんなところで寝ていたの?」
彼女は本当に自分のことを知っているのか……本当に漂流者なのかということを、自分の言葉で。
「うーん……」
問いかけに対し、人差し指を口元に当てて彼女が悩む。
「どうしてなんだろ?」
そういって彼女は首を傾げた。
とぼけているのだろうか。それとも、自分同様に記憶に欠落があるということなのか。
「なら、それより前のことでもどんなことでもいいよ。何か覚えてる?」
「……ううん、ごめんね分からないよ」
少し考え込んだユキは、申し訳なさそうに首を横に振った。
「もしかして、何も覚えてないの?」
「んー、それとはちょっと違うのかなぁ」
「違う?」
「多分ね、わたしは知らないんだと思う」
「知らない?」
覚えてないのではなく、知らない?
「でも、僕のことは覚えてるんだよね?」
「あっくんのこと? そうだよ」
「それはどうして?」
「きっと、そうする必要があったんだよ」
「必要があった?」
いったいそれは、何に対しての必要なのだろうか。よく意味がわからなかった。
「……なんとなくそんな気がするだけなんだけどね。ごめんね、うまく説明できなくて」
「いや、こっちこそぶしつけな聞き方ばかりだったよ、ごめん」
少しだけしゅんとしてしまったユキを見て、慌ててこちらも謝る。
気が付けば、先ほどからオウム返しばかりだった。少し冷静さを欠いているのかもしれない。
「じゃあさ、僕についてはどんなことを覚えているの?」
雰囲気を変えようと、何気なくそんな質問をする。
今の自分では確かめようもない、今とは違う自分の姿。興味がないといえば嘘になった。
「そっか、あっくんは記憶を失っているんだったね」
「ま、そんな感じだね」
大方、沙希かイリスから聞いたのだろう。厳密に言えばちょっとだけ違うのだが、ややこしくなるので口には出さないでおく。
「うんとね、例えばわたしとあっくんの関係についてだけど……」
彼女は悩むそぶりを少し見せたあと。
「実は、"しょーらいをちかいあったなか"なんだよ」
「ぶはっ」
いきなりそんな爆弾を投下してきた。
「ちょ、ちょっと待って、それ本当?」
そんな幼い頃から他人様を甘言で篭絡するような人間だったなんて、あまり信じたくない。
「そもそもさ、ユキが知っている人と僕が同一人物だって証拠はないんじゃないかな?」
苦し紛れに、そんな言葉が口をついて出る。
「えー、言い逃れするのー? 名前だって同じなんだし、往生際が悪いよー?」
「それはほら、同姓同名の別人だって可能性もあるわけだし」
「ふーん、意地でも約束をなかったことにしたいんだ。……いいよいいよ、あっくんがそういう態度を取るなら、とっておきを出してあげるんだから」
「とっておき?」
ユキがニヤリとした意地の悪い笑みを浮かべながら、すっと口元をこちらの耳元に近づけてきた。
「……お尻に、ハート型の痣があるよね?」
「――なッ!」
「別に恥ずかしがらなくてもいいと思うんだけどなぁ。わたしはかわいいと思うよ?」
それは、小春しか知らないはずの情報だった。そしてまさか彼女がこんなことを他言するとは到底思えず。
「どうして、そのことを……」
「だから、わたしはあっくんのことよく知ってるってさっきから言ってるのになー」
こんなたちの悪い証拠を出されてしまっては、お手上げである。
「はぁ……分かった。信じる、信じるよ」
少なくとも彼女が自分のことをよく知っている、というのは間違いないようだった。
「じゃあその"あっくん"っていうのも、やっぱり昔の呼び方なんだ」
「うん、そうだよ」
確かに、不思議だったのだ。初めてこの変な呼び方をされたとき、なぜか違和感を覚えなかったということに。
……むしろ、馴染んでいるような気さえしていたことに。
もしかすると、自分でも知覚し得ない記憶の奥底に、ユキとの思い出がまだ残っているのかもしれない。彼女に対してなぜか警戒心を抱かないのも、あるいはそのせいなのだろうか。
なんの確証もないが、今ならそんなことさえも信じられる気がした。
とはいえ、婚姻の約束をしていたというのは想定外のことだったが。もっともどうやら結構昔のことらしいし、今は無効に違いない。そういうことにしよう。
「それにしても、わたしはあっくんのこと覚えてたのに、あっくんの方は忘れてるなんてひどい話だと思わない?」
「それを言われると弱いね」
事実だけに、何も言い返せない。
「なんてね。わたしにとっては悲しいことだけど、でも許してあげるのです。だってしょうがないことだし。うん、しょうがない」
冗談だよとでもいった口ぶりで、ユキは全く怒っていなかった。
「そのかわりにね、ひとつだけお願いがあるの」
「お願い?」
「そのね、はっきり言って今のわたしは怪しさ満点だってことはわかってるんだけど」
「えっと、まあ、うん、そうだね」
否定はできない。
記憶はあやふやで、しかしごく限られたことについては随分と詳しく、結局のところ漂流者かどうかも自らでは分からない、まだ幼い少女。
これで素性が怪しくないとするならば、世界のほとんどの人が当てはまるだろう。
……性別を除けば、思わず苦笑いが出そうになるほどにまるでどこかの誰かとそっくりな話だった。
「でも、それでも」
彼女は少しだけ言葉を切ると。
「わたしもあっくんの仲間に入れて欲しい」
ほわっとしていたさっきまでとは違う、凛々しいとでもいうべき表情を浮かべながら、彼女はそう答えた。
「それは、どうして?」
「――あっくんのそばにいたいから」
ユキが、澄んだ瞳をこちらに向けている。訊いた自分が気恥ずかしくなるくらい、迷いのない答えだった。
「ずうずうしいなって、わたしも思う。でもきっとこの機会を逃したらもう二度と会えないような、そんな気がするの」
「そっか……」
自分たちの当初の目的は、彼女の保護と協会への引渡しだ。彼女を仲間にするということは、依頼を達成できないことに等しい。
だが、ユキをこのまま引き渡して本当にそれでいいのだろうか。
自分には小春が、そして沙希たちが――手を取り合う仲間がいた。でもユキは? 彼女は、きっと一人だ。
「やっぱりだめ、かな?」
答えは出ていた。
あとは彼女たちが許してくれるかどうかだが、きっと理解してくれるはずだ。
「いいよ」
そう告げた。
「……ほんとに? ほんとにいいの? わたし、この世界のこととか全然分からないから、きっとすっごい迷惑かけるよ?」
「僕もその経験者だからね。大丈夫、なんとかなるよ」
彼女の顔が、ぱあっと明るく輝いていく。
「あっくん!」
「うわぁっ!」
ユキが飛びついてきた。頭に抱きつかれ、そのまま地面に押し倒される。
「ありがと! ありがと! すごくうれしい!」
「わかった、わかったから落ち着いて」
胸元に顔を押し付けられて、呼吸が苦しい。わずかに柔らかい膨らみを感じるが、それを気にするほどの余裕がなかった。
なんとかユキを引き剥がし、再び二人で座りなおす。
「ごめんなさい。なんだか気持ちが湧き上がっちゃって」
「まあ、分からなくもないけどね」
「どうしよう、何かすごくお礼をしなきゃいけない気がするの。あっくん、どうすればいいかな?」
「いいよ、別にそんなこと気にしなくて」
「そうだ。さっき、イリスちゃんから聞いたんだけど」
ちゃん付けで呼ぶのは基本らしい。イリスが聞いたら、イメージにそぐわないとか何とか言って訂正を要求したに違いない。そして、それでも直してもらえず泣く泣く諦めるところまでが想像できた。
「あっくん、みんなとお付き合いしてるんだって?」
こういうことに限ってきちんと話すイリスに、軽い怨嗟の念を飛ばしたくなる。
「……まあ、そうだね」
理由があるとはいえ否定できないことなので、肯定せざるをえない。だがこうも直球で表現されると、なんとも居心地の悪さがたまらなかった。
「あ、別に責めてるわけじゃないんだよ? 事情も教えてもらったしね」
なんとか軽蔑されずには済んだようだ、なんてことを思ってほっとしていると。
「そこで、お礼にぜひわたしもそこに加えてください!」
続けて彼女は、意思のこもった口調でそうのたまった。
いやいやいやいや。
「あー、気持ちはありがたいんだけど、ほら、既に術式を閉じてるから、ね」
体調のことを考えれば増やしたほうがいいのかもしれないが、これ以上は他の負担が色々と大変なことになると勘が告げていた。
術式の事情にかこつけて断る。
「術式かぁ……え? なになに、ふんふん、なるほど、そうすればいいの? わかった。あっくん、ちょっと右腕を出して?」
「え、うん」
しかし、ユキはまったく取り合っていなかった。自信満々の彼女に気おされ、言われるがままに右腕をさし出す。
すると彼女は、印のあった箇所に右手をかざして目をすっと細めた。その手が、まるで術式を施したあのときのように白く光りだす。
「――探査、認識、介入、確認、修正、復元、終了――はい、完了っと」
「えっ?」
今、何が起こった?
「あとは……うぅぅ。さすがにちょっとこれは、恥ずかしいね」
混乱するこちらに構うことなく突然すっとユキが赤くなった顔を近づけてきたと思うと、さらにそれが近くなり、やがて零になった。
唇から感じる自分のものではない他人の熱と、そして柔らかさ。それらはすぐに離され、あとにはわずかな寂しい涼しさが残されていた。
「えへへ、これでわたしもはーれむ?、の一員になったよね。よろしくね、あっくん!」
あっけに取られているうちに、彼女は一連の全てをこなしていたらしい。
「待って、どういうこと? 何をしたの?」
「もう、あえて言わせるなんてちょっと意地悪だよ?」
「いやそうじゃなくて、その、それをした意味だよ」
口づけをかわしたことくらい、言われなくても分かっている。というか、顔に出さないためにあえてそちらは考えないようにしていたというのに。
「ああそういうことね。よくわからないけど、なんだか術式を上書きしたみたいだよ」
「いや、そこでなぜ疑問形なのか分からないんだけどさ。ユキがやったんだよね?」
「んと実はね、わたしのそばにはわたしにしか見えない、なんていうのかな、光の玉みたいな姿の精霊さんがいてね、色々と教えてくれるの。さっきのも教えられたとおりにやっただけだから、わたしにもよく分からないんだよ、えっへん」
ユキが、ワンピース越しの平らな胸を自慢げに張って見せていた。またもや新たな情報である。もはや何がなんだか。
「……もう面倒だから全部信じるけどね。でもそれなら、その精霊さんにいろんな分からないことを聞けばいいんじゃないのかな?」
「うーんなんだかね、"わたしができること"しかわからないみたいなの」
なるほど、"説明書"であって"辞典"ではないということか。どうやら彼女も、なんらかの"異能"持ちのようだ。
自分のものほど危険ではなさそうのが、救いといえば救いだろう。
それにしても、本当に自分はユキのことを覚えていないのだろうか。
なんだかさっきから、彼女のシルエットが妙に頭でちらつくのだ。まるで記憶の片鱗に引っかかっているかのように。
少しだけ集中して、彼女の姿を心に深く重ねてみる。だが変化はない。もしかすると何か切っ掛けが必要なのだろうか。
ふと、先の掃討者との戦闘が頭に思い浮かんだ。怒号と、振るう刃と、飛び散る血。
瞬間、頭の中を別の情景が嵐のごとく埋め尽くした。
――誰かの悲鳴、鮮血の海、散らばりひしゃげた手足、光が失われていく瞳、目前にそびえたつ不気味な巨体、そこへ疾駆する桜色の小柄な姿。
「――――ッッ!!」
激しく頭を振り払う。
こんなものは知らない。いや、知っているはずがない。
――瞬時に一切の痕跡の消去が開始される。これは今はまだ不要なものだ。
「あ、あっくん大丈夫?」
頭を手で押さえていると、ユキから心配そうに声をかけられた。その頃にはよくわからない症状は治まっていた。一体なんだったのだろう。
「悪い、ちょっとめまいがしてね。まだ少し疲れてるのかもしれないな」
「ごめんね。わたしを助けに来てくれたせいなんだよね」
「いや、こっちだって見返りのために行動しただけだから、ユキが謝るようなことじゃないよ」
「そっか、ありがとう。あっくんもだけど、あっくんの仲間の人たちもみんな良い人ばかりだね。さすがはあっくんだよ、うりうりー」
「はいはい。どちらかというと、僕が悪いんだけどね。でも確かにみんなには随分と助けられてるよ」
小突いてこようとするユキをあしらいながら、そう答える。
彼女たちには彼女たち自身の様々な事情があるであろうことはなんとなく察しているが、それを差し引いてもとても感謝していた。
「あ、お兄さん! 起きていたんですね。お体の調子はどうですか?」
沙希の声が外から聞こえてきたのは、そんなときだった。