ユキ
それは突然だった。
休憩のさなか、迷宮の雰囲気ががらりと変化したのだ。うまく表現できないが、魔力の質が変わったとでも言うべきか。
見上げれば、空の色までもが燃え上がるような赤い色に一面覆われていた。
明らかな異質。
「これが、迷宮融合……」
「確かにこれは異常じゃな」
「そうと分かれば動くのみね。さあ、行くわよ!」
イリスが気合を入れる傍らで、セシアは既に片づけを終えていた。
草原の向こうに、奥へと続く獣道がかすかに見える。
漂流者がどこに現れるかは分かっていないが、イリスの言うとおり少なくとも留まるよりは動くべきだろう。
そう考えて進みだそうとした矢先だった。
「……お兄さん。あっちから、何かを感じますです」
沙希が、先へ続く獣道とは別の方向を指差していた。しかしその先には、茂った木々があるだけで進むべき道は見えない。
「それはまことか、沙希」
だが、誰もそれを一笑に付すことはなかった。神道の系統に身を置く沙希が不自然な何かをその身に感じるということの意味を、今までの経験で分かっていたからだ。
「行ってみよう」
みなで頷き、そちらへと足を向ける。
やがて見えてくる、草原地帯の終点。そこから先は密集した木で塞がれていて、とても進めるようには思えなかった。
もしかすると沙希の間違いだったのだろうか。
そんなことを考えていると、沙希が一歩前に出て中空に手をかざした。
「……我、見えざりし其方へ言祝ぐものなり。一会が為、今一度その姿を現せ」
詠唱を終えた瞬間、目の前の空間がまるでぶるりと震えたかのようにぐらついた。目に写る景色が、波打つように揺らめいていく。
やがてそれらが一瞬で霧散するかのように消えると、あとには細い道が現れていた。
閉ざされた木々の間で、そこだけが切り取られて穴が空いたかのように別の様相を示している。奥のほうを見れば、足元に生える草花が放つ光によって薄暗い獣道が淡く浮かび上がっていた。
まず間違いなく、隠し通路だった。
「偽装、ですか。これはいかにも何かありそうでございますね」
「さすがね、沙希」
「実は、白守が教えてくれたのです」
「さて、どうする秋人?」
小春たちの視線が集まる。
「行ってみよう」
狭い路地は、挟撃の可能性を考えれば危険性は高い。だがこの先にはきっと何かがある。そんな予感が胸に渦巻いていた。
隠された道を慎重に進んでいく。
幸運にも危惧していた徘徊者に出会うことなく、進み続けること十数分。
突如として細い通路は終わりを告げ、広く開けた場所が姿を現した。
「ふわぁ……」
「これはすごいわね」
「なんとも幻想的でございますわ」
「上部が穹窿状になっておるのじゃな」
「ここは、いったい……」
そこは木々が密集して壁を為し、草や蔦が空を覆い隠して半球形の丸天井のようになった、不思議な空間だった。
緑で覆われた部屋とでもいうべき場所は大きな屋敷の庭ほどの広さがあり、空からの光はほとんど差し込まないが、通路と同様に草や蔦が発する小さな光によって淡く包まれていた。
その広場の中央には、まわりの樹木とは一線を画す太さをもつ大樹がそびえ立っている。
「あれ、何かしら」
イリスの声に従って目を凝らすと、大樹の近くに自然物とは違う何かが見えた。
まるで人のような――。
「ッ!」
すぐにアーガスから渡されていた青い石の首飾りを取り出して、中央へと向ける。
すると、石はほのかに青い光を放ち始めた。
「漂流者だ……」
「まさか、本当に現れるなんて」
「びっくりなのです」
急いで、大樹へと近づく。
「あら、かわいらしいお方ですわね」
「女の子、ですか?」
「そんな……ありえぬ……」
大樹にもたれるようにして座っていたのは、白いワンピースを着た幼い少女だった。
背丈は沙希やイリスより少し低いくらいだろうか。長く美しい、少しだけ茶のはいった黒髪が肩から背に流れている。
眠っているのか、穏やかに目をつぶったまま少女は動かない。だがその表情からは、どこか快活そうな印象を受けた。
見ていると、なんだか頭がちりちりする。まるで以前どこかで会ったことがあるような……いや、まさかそんなことあるはずないのだが。
「……どうしようか」
この子が保護対象ならば、当然のことながら迷宮の外まで連れ出さなければならない。
しかし昔ならいざ知らず、今の自分では背負うこともままならない。かといって、沙希たちに頼んでこれ以上戦力を減らすのも避けたい。
「起こすしかないわね」
「そうですね」
「では不肖ながら私めにお任せください」
セシアが、そっと少女に近づく。
「名も知らぬお嬢様。起きてくださいませ、起きてくださいませ」
呼びかけながら、セシアが優しく肩を揺らす。だが少女は一向に目覚める様子がない。
「あらあら、これは困りましたわ。致し方ありませんね。……ふぅー」
「……ん……ふわ……」
セシアが耳元にそっと息を吹きかけていた。
「さわさわー、さわさわさわー」
「あぅ……やぁぁ……」
続けて、首元を指先がかすかに触れるようになで上げた。
されるがままの少女は、身もだえしながら徐々に顔を紅潮させていく。なんというか、変な背徳感がある。
「セシア……あんた相変わらず悪趣味ね」
「あら、叩き起こすなどという野蛮な方法よりよほど優雅ですわ」
「普通に起こす選択肢をもちなさいよ!」
そんなふうに騒いでいると、やがて。
「ふぇ……?」
少女が目を覚ました。寝ぼけて虚ろな瞳が、心許無さげに仲間たちの間を行き来する。
そういえば、もし言葉が通じなかったらどうしようか。身振り手振りで何とかなるのだろうか。あまり細かなところまでは想定していなかった。
そんなことを考えてると、ふっと少女と視線が重なる。
少女が首をかしげた。
「……あっくん?」
「……えっ?」
「やっぱり、あっくんだ!」
「うわっと」
彼女はすっと立ち上がると、まるで家族に出会ったとでも言わんばかりに飛びついてきた。
といっても、こちらにはまるで身に覚えがない。いったい、何が起きているというのか。
「秋人様、もしやお知り合いなのでございますか?」
「いや、そんなことはないと思うけど……」
「えー、ひどいよう」
胸元に密着しながら、見上げるようにして拗ねる少女。
いやちょっと待って欲しい。自分は、この子と知り合いだったのか?
確かにもし彼女が漂流者ならば、他の世界で知り合いだった可能性はありえる。
とはいえ、自分は彼女に見覚えがない。……ああそうか、記憶を失ってるのだから当然なのか。
ならば、やはり可能性は否定できない……? いやいやまさか。
ダメだ、どうにも動揺して考えが上手くまとまらない。
「やはり来おったか……。すまぬが話はそこまでじゃ。まわりを見よ」
先ほどから一言も発していなかった小春が急に真剣な声で注意を促したのは、ちょうどそのときだった。
いつのまにか自分たちが通ってきた道以外にもいくつかの入り口が新しく出現しており、そこから何かがなだれ込んできていた。
「あれは……徘徊者!」
「もう、本っ当に空気読まないわね!」
すぐに沙希たちが周囲へと展開する。
「なんだか怖い……。ねえあっくん、何が起こってるの?」
「後で詳しく説明するよ、色々ね。だから今はそのまま大人しくしていて、きっと大丈夫だから」
「うん……分かった。あっくんがそう言うなら、そうするね」
抱きついている彼女にそう伝えると、彼女は素直に言葉に従いその身を離す。
疑問だらけだが、それを解消するためにもまずはここを切り抜けなければならない。
少女を保護するべく前に立つ。小春も、隣に並んだ。
敵は獣型の徘徊者ばかりだ。それほどの脅威はないが……しかし、あまりに数が多すぎる。
三方から詰め寄せてくるその数は、ゆうに百を超えていた。
こうして、名も知らぬ少女を守るべく大樹を背にした防衛戦という名の戦いが始まった。
「お願い白守ッ! 冷徹なる雨よ。此に集い疾く貫け――『氷雨』ッ!」
「第五元素練成、『撃ち抜く双銃』。……いくわよッ! 弾頭術式――『速破弾』!」
「猛りなさい――『奔放なる焦熱の軍勢』」
白守の鋭利な切っ先が、敏速の風の魔弾が、群れ為す炎の術式が、敵をなぎ払う。
狼型の敵が貫かれ、鹿型の敵が吹き飛ばされ、馬型の敵が焼き尽くされていく。
だがその屍を乗り越えるかのように、獣たちは後ろから怒涛のごとく押し寄せてきた。
魔石による影響だろうか、体はまるで闇を纏っているかのように黒一色に覆われており、赤くぎらつく眼だけが唯一の色彩を放ち不気味に浮かび上がっていた。
「なによこの数ッ! これ全部、あの子狙いだっていうの? 冗談じゃないわ!」
「『同調』を発動すれば何とかなるかもしれませんが、この状況では時間がありませんです」
「……余力を考慮している状況ではなさそうでございますね。やむを得ません、アレを使いますわ」
「ならばわしも支援に回るのじゃ。秋人、しばらく堪えておれ」
「僕は大丈夫、小春こそ気をつけて!」
小春がそばを離れると同時に、貯蔵していた気を少しずつ解放する。
自立して耐えられるのは、動かなければもって十数分くらい。だが激しい戦闘となれば、節約しても数分程度だろう。
「ギアをあげるわ!」
イリスが踊るよう動きながら、さらに高速で二丁拳銃から風の魔弾を放つ。
雨のごとき連射によって一瞬で撃ちつくされた弾は、すぐに再び拳銃ごと彼女の手の中に精製され、決して銃撃が途切れることはない。
放たれる高速の攻撃は敵に吸い込まれるように次々と命中し、その体を遠くへと吹き飛ばす。
沙希もまた通常以上の数の白守を呼び出し、応戦していた。
「無理を通せば道理もなんとかなるそうなのです! ――冷徹にして慈悲無き雨よ。疾く貫き檻と為せ――『篠突氷雨』!」
沙希の声に応えるように無数の白守が敵目掛けて飛翔し、肩や脚、胴に突き刺さる。それでもなお突き進もうとする獣たちの周囲に、まるで全身を覆うかのごとく新たな白守がいくつも現れた。
「散!」
刃先を中心に向けて殺到する白守が、獣たちを針ねずみへと変えていく。体を無数に刺し貫かれて力尽きた獣たちがばたばたと倒れ、そのまま動かなくなった。
奮迅する二人が足止めをしている間に、セシアは強大な術式を行使するべく精神を集中していた。
無防備となっているそんなセシアのもとへ、その身軽さをもって沙希とイリスの脇を抜けてきた狼が襲い掛かる。
「ゆかせぬよ」
だがそこへ、いつの間にか割って入っていた小春が右の手を差し向ける。
「『風払』」
小春が手のひらから放った暴力とも呼べる風の力を受けて、狼は彼方へと吹き飛んだ。
しかし敵は一体ではない。その素早さをもって二人の迎撃をすり抜けるべく、狼の群れは虎視眈々とセシアへの攻撃を狙っている。
「これは時間稼ぎが必要なようじゃな。……はぁぁッ!」
気迫を全身に纏った小春が、力強く両手を広げる。
「吹き荒れよ――『風嘯』!」
直後、自分たちを中心とした円から外の敵に向けて全方位に突風が吹き荒んだ。
その威力たるや、軽量型の狼は前進することができなくなり、他の重量型の獣も大幅に動きが鈍るほどだ。
"疾風守陣"である小春は、素早い行動とともに支援と防御の術式にも優れる小隊の守りの要だった。
敵の進撃の足が止まる。
その間のわずかな、だが貴重な時間を利用して。
「天空遥か、万物の祖、悲哀を奏、惨禍へ導く――」
セシアの詠唱が完成した。
「――『降り降れし災厄』!」
セシアが、手に持つ箒を上空へと掲げる。
するとその先の空中に、太陽を模したかのような光り輝く巨大な火球が生成された。
火球はその身から、無数の炎の弾を雨のごとく敵軍目掛けて降り注がせる。
射出、着弾、そして爆裂。灼熱の驟雨により、あたり一面は瞬く間に火の海と化した。敵意あるものだけを焼き尽くす泡沫の炎が、黒き獣たちをまとめて屠ってゆく。
その後、今までの惨状がまるで嘘だったかのように炎がすっと消えると、塵となって消えゆく徘徊者の骸だけが一帯に残されていた。
「ふぅ……少々、疲れましたわ」
疲労を色濃く顔に残しながら、セシアが深く息をついた。
「よくやったわ、セシア」
「助かったよ、ありがとう」
「流石はセシアさんです!」
「……」
みなが勝利を喜ぶ中、小春だけがひとり難しい顔をしていた。
肝心の少女へと声をかける。
「大丈夫? 怪我はなかった?」
「うん、大丈夫。でも、みんなすごいんだね。なんだかゲームみたいだったよ」
やはり、この子は。
「遊戯なんかと比べられても困るわ。というか、言葉は通じるのね」
「年は沙希たちと同じくらいに見えますね。お兄さん……秋人さんとはお知り合いなんですか?」
「あっくんのこと? あっくんは、あっくんだよ!」
「あのねぇ、それじゃ訳わかんないわよ……」
「お名前は何とおっしゃるのですか?」
少女が、きょとんとした顔を浮かべた。
「なまえ? 名前……? んんーー?」
少しだけ悩む素振りを見せると。
「えっとね。わたしの名前は、ユキっていうんだよ」
きれいな瞳を向けながら、彼女――ユキはそう答えた。
――わたしはね、ユキっていうんだよ。雪の日に生まれたから、雪なんだって――。
一瞬、そんな幻聴が聞こえた気がした。