後日談1:境界線の消失
黒岩流道場に、春の陽気とは異なる種類の熱が満ちていた。
それは武道の修練による熱気ではない。
もっと甘く、むず痒く、そして俺の心拍数を危険域まで跳ね上げる種類の熱だ。
「哲治さん、ここ、埃が残っていますよ」
「……あ、ああ。すまない」
障子の桟を拭いていた俺の二の腕に、ふわりと温かい感触が触れた。
須藤さん……いや、帆乃花さんが、背後から覗き込むようにして指差したのだ。
距離が近い。あまりにも近い。
ほんの数ヶ月前までは、彼女との間には「家元と公民館職員」という、万里の長城のごとき堅牢な境界線が存在した。
だが今、その壁は跡形もなく消え去り、彼女は事あるごとに俺のパーソナルスペースへと侵攻してくる。
「ふふ、哲治さん。耳が赤いです」
「……気温のせいだ。今日は夏日を記録すると天気予報で言っていた」
「まだ三月ですよ?」
帆乃花さんは楽しげにクスクスと笑い、俺の腕に自分の手を重ねてきた。
その手は小さく、恐ろしいほどに柔らかい。
俺の全身の筋肉が、敵襲に備えるかのように硬直する。
(……しっかりしろ、黒岩哲治。我々は正式に交際を始めたのだ。手と手が触れ合う程度で動揺してどうする。これでは中学生の初恋ではないか)
俺は努めて冷静を装い、雑巾を絞る動作に逃げた。
だが、彼女の追撃は止まらない。
「ねえ、哲治さん。今度のデート、私もお着物を着てこようかしら」
「着物? ……ああ、そういえばご実家は『須藤呉服店』だったな」
「はい。小さい頃から和服にはよく触れていましたから」
「先週ご挨拶に伺った時、店先に立派な反物が飾られているのを拝見したよ。お父上もお母上も、着物がよく似合う素敵な方々だった」
俺が感慨深げに頷くと、帆乃花さんは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、ありがとうございます。……あ、兄はあの時、たまたま配達に出ていて会えませんでしたけど」
「そうだったな。若旦那が店を継いでいると聞いていたが」
俺が記憶の糸を辿ろうとした、まさにその時である。 玄関の方から、聞き覚えのある、しかし少々荒っぽい声が響いた。
「ごめんくださーい! 須藤呉服店でーす!」
なんと間の良いことか。 噂をすれば影が差す。
俺は居住まいを正し、玄関へと向かった。
「ああ、須藤さん。こんにちは。ちょうど今、帆乃花さんと話を……」
「おう、毎度! 注文の品をお持ちし……って、あ?」
店の若旦那である須藤洋一氏は、上がり框に揃えられた女性物の靴と、その奥に立つ妹の姿を見て、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「えっ! なんで帆乃花がここにいるんだよ!?」
「あれ、お兄ちゃん。もしかして、お父さんたちから聞いてない?」
帆乃花さんは洋一氏の慌てふためく様子など気にも留めず、俺の隣に並んで幸せそうに微笑んだ。
「私、哲治さんと正式にお付き合いすることになりました。なので今日は、道場のお掃除を手伝いに来ているの」
道場の空気が、一瞬にして凍りついた。
洋一氏の目が、限界まで見開かれる。
「…………」
長い沈黙。
やがて、彼の口から魂が抜けたような声が漏れた。
「つ、つ、つつつつ、付き合ってるぅ!?」
彼は持っていた風呂敷包みを落としそうになりながら、俺と帆乃花さんを交互に指差した。
「じ、冗談はよしてくれ! 騙されてるんじゃないか!? だってこの人、あの『生ける彫像』だぞ!? 笑わないし、怖いし、中学生の俺を竹刀持って追いかけてきた鬼だぞ!?」
「人聞きが悪いことを言わないで。哲治さんは優しいわよ」
「優しい!? この顔でか!?」
失礼な男だ。
だが、彼の動揺も無理はない。
かつて彼が悪友と共に道場の塀に落書きをした際、俺が現行犯で捕らえ、正座させて二時間説教をしたことがあった。
彼にとって俺はトラウマの具現化なのだろう。
「えええええ!? 親父たちは知ってて、俺にだけ黙ってたのかよ!?」
「だって、お父さんもお母さんも、お義姉さんも了承済みよ。哲治さんが『ご挨拶しないとダメだ』って聞かなくて、先週ご挨拶に行ったもの」
「マジかよ……親父たち、正気か……?」
洋一氏は頭を抱え、よろよろと後ずさった。
だが、すぐに何かに気づいたように顔を上げ、俺を睨みつけた。
その瞳には、恐怖と、それ以上の「兄としての怒り」が燃えていた。
「お、おい! あんたもだよ!」
「……私か?」
「そ、そうだ! あんた、自分がいくつだと思ってんだ! 帆乃花とは一回り違うんだぞ! 帆乃花はまだ二十代だ。もっと若くて、話が合う男がいるはずだろ!」
「お兄ちゃん!」
帆乃花さんが声を荒らげようとしたが、俺はそれを手で制した。
洋一氏の言葉は、俺の胸の最も痛い部分を正確に射抜いていたからだ。
彼は震える声で、必死に言葉を紡いだ。
「こんな……こんな堅物で、見た目も怖くて、時代錯誤なおっさんに……大事な妹を任せられるかよ! きっと使い潰されて捨てられるだけだ! 俺は認めねぇぞ!」
その言葉は、彼なりの精一杯の愛情表現だった。
恐怖対象である俺に対して、ここまで声を荒らげることができる。
それは彼が、妹の幸福を何よりも願っている証拠だ。
俺は静かに息を吐き、彼を真っ直ぐに見据えた。
「……お兄さんの仰る通りだ」
「え……?」
洋一氏が拍子抜けしたような声を出す。
「私は若くもないし、気の利いた流行り言葉も知らん。見た目もこの通り、武骨なだけの男だ。彼女がもっと相応しい若者を選べば、もっと平穏で、普通の幸せがあったかもしれない」
俺は隣にいる帆乃花さんを一瞥し、再び洋一氏に向き直った。
「だが、私を選んでくれたのは彼女だ。ならば私は、この命が尽きるその瞬間まで、彼女が『選んでよかった』と思える男であり続ける努力をするだけだ。……それが、私なりの『責任』の取り方です」
道場に静寂が満ちた。
洋一氏は口を半開きにしたまま、言葉を失っていた。
何か反論しようと口をパクパクさせたが、やがて顔を真っ赤にして叫んだ。
「……っ、かーっ! 口だけは達者だな!」
彼は落ちていた風呂敷包みをひったくるように拾い上げた。
「その『努力』とやらがいつまで続くか、俺が監視してやるからな! 泣かせたら承知しねえぞ! 覚悟しとけよ、この野郎!」
最後だけ少しヤンキー口調に戻り、彼は脱兎のごとく逃げ帰っていった。
嵐のような訪問者だった。
「………はぁ。哲治さん、ごめんなさい。昔からあんな感じで……。結婚してからはわりと大人しかったのですけど」
帆乃花さんが申し訳なさそうに眉を下げる。
俺は彼女の肩に、そっと手を置いた。
「謝る必要はない。むしろ、羨ましいくらいだ。……あんな風に、なりふり構わず誰かのために怒れる家族がいるということがな」
「哲治さん……」
彼女の瞳が潤む。
俺は咳払いを一つして、照れ隠しに視線を庭へと逸らした。
その夜、俺は独り、道場の真ん中で正座していた。
静寂の中、昼間の洋一氏の言葉がリフレインする。
『あんた、自分がいくつだと思ってんだ』
彼女の肌は、吸い付くように瑞々しい。対して俺の手は、剣タコだらけの無骨な革のようだ。 干支が一巡りするほど歳の離れた我々が、こうして手を繋いでいることの「歪さ」を、俺は誰よりも理解している。
だが、あの温もりだけは……すまないが、もう手放せそうにない。
老いらくの恋とは、かくも強欲なものなのか。
俺は未熟な自分を戒めるように、深く息を吸い込んだ。
「……まずは、洋服だ」
まずは外見から歩み寄らねばならん。
俺は押し入れの奥にある、二十年前の「勝負服」を思い出し、身震いした。
あれを出す時が来たようだ。




