完読という名の快挙
彼女がこの世界へ渡ってから、まもなく六年が過ぎようとしていた。
精霊の国ルミナリアにも、いよいよ*白哭季が訪れる。
北の空からは、ひらひらと白い雪が舞い落ちていた。
彼女――いや、リシアは、窓越しにひらひらと舞う白雪を見つめていた。
この六年間、リシアには一日も欠かさず続けてきたことがある。
それは、冥域で出会った案内人ポラリスから授かった、あの分厚い本を読み切ることだった。
その本は、分厚いなどという言葉では生ぬるい代物で、もはや本というより、鈍器である。
その分厚い本をリシアは6年もの月日をかけて完読した。
無論、ラーナやルーナに尋ねることもできただろう。
だが、光の精霊である彼女たちも多忙の身だ。
しかも二人が暮らしているのは、ルミナリアの南方。
対してリシアの住まいは、北の端にある。
縦に長く伸びたこのルミナリア国では、その距離は決して短くなかった。
さすがに用もなく押しかけるほど、リシアは無遠慮ではない。
この世界や人間界について、本を読むだけで知ることができたのは幸運だった。
リシアは、当分人間界へ赴くつもりはない。
他の精霊にあれこれ尋ねる気もなかった。
人間とも、精霊とも、わざわざ自分から深く関わりたいとは思えなかったのだ。
――そのことを、おそらくポラリスは見抜いていたのだろう。
あの本を完読したことで、リシアは膨大な知識を手に入れた。
災いの等級、その出没時期や発生地点。
この世界の法と礼儀、貴族や王族の名。
数えきれない情報が、すでに彼女の中に蓄えられている。
加えて、リシアはこの六年間、魔法と魔術の鍛錬を積み重ねてきた。
その成果もあり、実力は着実に向上している。
いまやラーナから教わることも、以前ほど多くはなかった。
それでもなお、問題や課題が見えてきた。
一つ目の課題は、魔術と魔力の均衡が取れていないことだ。
リシアの扱える魔術は、水属性の基本攻撃魔術。
本来であれば、魔力消費はそれほど大きくない。
水を矢のように鋭く変形させる、あるいは火を鎮める――その程度であれば、負担は軽いはず。
だが、リシアは違った。
彼女が生み出すのは、水の大蛇、水馬といった巨大な具象。
扱う水量は、基礎魔術の枠を明らかに逸脱していた。
結果として、保有する魔力量が多くとも、消耗は激しい。
才能はあるが、制御と効率が追いついていないのだ。
二つ目は、食料の問題である。
精霊王と対面したのち、リシアは家に残されていた備蓄でどうにか生活していた。
だが、それにも限りがある。
精霊たちに頼ろうとしたこともあった。
しかし精霊は、本来食事を必要としない。
彼らにとって食とは娯楽に過ぎず、常備されるものではなかった。
家にもない。精霊側にもない…。
そこでリシアは、近隣の森に潜む魔物を狩り、調理して食いつないだ。
当初はラーナが難色を示したものの、ルーナが徹夜で考案した調理法のおかげで、その料理はいつしか精霊界で評判を呼ぶことになった。
だが、それも永遠ではない。
森の魔物は徐々に減少し、食料は再び不足しはじめている。
三つ目の問題は、月食の日である。
彼女の住むこの星は惑星であり、恒星の光によって常温を保っている。
そして、この惑星には二つの衛星が存在した。
一つは水色をした球形の衛星。
空の色と溶け合うため、肉眼で捉えることは稀だ。
その名を―澄星という。
もう一つもまた球形で、こちらは白色。
表面には無数の窪みが刻まれ、どこか“月”を思わせる姿をしている。
リシアの魔法の源となる月光は、実のところこの白き衛星から降り注ぐ光を指しているらしい。
この白き衛星の名は月と呼ぶらしい。
その月が隠れる日——すなわち月食の日、リシアは魔法を使うことができなかった。
月光の見えない朝であっても、彼女は月光魔法を扱える。
光そのものではなく、満ちている“力”を引き出しているからだ。
だが、月食の日だけは違った。
必ず、魔法が発動しない。
さらに皆既月食となれば、現象はより深刻だった。
彼女の全身は徐々に麻痺し、やがて動かなくなる。
最初の数分は走ることも歩くこともできた。
だが、唐突に足から力が抜け、そのまま地に倒れ伏すのだ。
理由は分からなかったが、リシアは、月食と推測される日には外へ出ず、ひっそりと家に籠もることにしていた。
以上の三つが、リシアの抱える問題だった。
魔術の不均衡と月食の影響は、すぐに解決できる類のものではない。
だが、食料の問題は違う。
それは、いずれ必ず限界を迎える。
もっとも、リシアは小食だ。
消費は少なく、あと二年ほどは持ちこたえられるだろう。
しかし――二年は、永遠ではない。
だからこそ彼女は考えはじめていた。
精霊王に事情を説明し、人間界へ赴いて食料を調達する――そんな選択肢が、彼女の中で現実味を帯びはじめていた。
*白哭季=セレスティアにおける四季の一つ。地球でいう「冬」に相当する季節。
――物語の幕開けまで、残り24年。




