感情も感覚も一つ
そして、精霊王は、ゆっくりと口を開いた。
『名を』
「……リシアです」
彼女から出た声は思いのほか落ち着いており、緊張も怯えもなかった。
『恐れはあるか』
精霊王からの問いは簡潔だった。
それは確認であり、同時に試金石でもある。
リシアは、すぐには答えず、ほんの一瞬、内側を探るように間を置き、静かに口を開いた。
「……ありません」
その言葉が落ちた瞬間——精霊王の視線が、すっと横へ流れた。
向けられた先は、ラーナだ。
そして、言葉を介さない念話が始まった。
念話とは、精霊同士だけが脳内で直接話せる、魔術による意思の更新のことだ。
空気が低く震え、光がわずかに揺らぐ。
『――そこの上級精霊』
ラーナの精霊核に、精霊王の問いが直接触れた。
『この人間は……神経開花という加護を持っているようだが、なぜ壊れていない』
ラーナは一瞬呼吸を整え、すぐに魔術で応えた。
『……それは、感覚がすでに麻痺しているからです。感じすぎたがゆえに、感情を閉ざしてしまったのです』
精霊王の莫大な魔力が、わずかに揺れた。
『閉ざす、だと?』
『はい』
ラーナの応答は静かだが、確信に満ちていた。
『拒絶でも抑圧でもありません。感じすぎた結果、無意識に距離を取るようになっただけです』
その言葉に、精霊王は眉をわずかにひそめた。
『奇跡に奇跡が重なったというわけか……』
精霊王の声は、先ほどまでの厳かな響きとは異なり、どこか柔らかさを帯びていた。
その変化に、ラーナは思わず目を見開いた。
先程から目線だけを合わせて何か会話をしているような状態にリシアは少しだけ不思議に思った。
それを察したのか、精霊王はリシアの方をちらりと見て、口を開いた。
『……リシア、といったな。かつて我らと人間の間に、何があったか知っているか』
「……存じています」
リシアは一歩も退かず、精霊王を真っ直ぐに見据えた。
その視線を受け止め、精霊王はわずかに口角を上げる。
『そうか。ならば話は早い。本来、人間が精霊界――ルミナリア国に住まうことは許されぬ』
玉座に座したまま、精霊王は淡々と続ける。
『だが、三つの加護を宿し、なおかつ失われた月光魔法を操る人間が、精霊界に足を踏み入れる……。実に興味深い』
「……それは、どういう意味でしょうか」
ラーナの問いに、精霊王はゆっくりと視線を落とした。
『条件がある、ということだ』
声には揺らぎがなく、感情を測ることはできなかった。
『人間リシア。お前が精霊界ルミナリア国に住むことを許可しよう。ただし――今より三十年間』
精霊王は明確に告げた。
『その間、一切の人間との接触を禁ずる。人間界への立ち入りも認めぬ』
ラーナは思わず顔を上げた。
「精霊王、それは――」
『それは、人間にとっては、長い年月であろう』
ラーナの言葉を遮るように、精霊王は言葉を継いだ。
『だが、精霊にとって三十年は一瞬に等しい』
再び、その視線がリシアへと向けられる。
『お前が持つ三つの加護と月光魔法――それは、精霊界にとっても看過できぬ力だ』
広間は、息を潜めたように静まり返っていた。
『ゆえに、その三十年を精霊界で過ごせ。学び、鍛え、月光魔法を完成させよ』
それは庇護の言葉であると同時に、拒むことを許さぬ命だった。
『我ら精霊と人間の関係は、いまだ脆い。再び争いが起こらぬと、誰が断言できよう』
沈黙を破ったのは、これまで口を閉ざしていたリシアだった。
「……要するに、精霊界に住まわせる代わりに、人間との戦争が起きた際には、その月光魔法で精霊側に与せよ――そういうことですか?」
リシアの顔に、微かな動きはなかった。
瞳は静かに精霊王を射抜き、何を思っているのか、誰にも読み取れなかった。
玉座の精霊王は一瞬、眉根をわずかに寄せた。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように、威厳に満ちた表情へと戻っていた。
『…あぁ。そういうことだ』
精霊王は深く頷いた。
『拒む自由は与えよう。だが、その先に待つものまで、我らは保証せぬ』
精霊王の視線が、広間をゆっくりと巡る。
誰一人として、精霊王から目をそらすことはできなかった。
『選べ、リシア。三十年を精霊界で生きるか――人間としてここを去るか』
言葉に感情はなく、ただ静かに、しかし重く落ちてくる。
『覚悟ができぬ者に、未来は与えぬ』
玉座の影が、広間をさらに深く沈ませた。
沈黙が訪れ、時間だけが重く積もった。
しばらくした後、精霊王の声が、再び広間に静かに響く。
『答えは、我らが決めるものではない。お前自身が選ぶのだ、リシア』
その一言が、広間の空気を張り詰めさせた。
だがリシアは、精霊王の視線をまっすぐに受け止めた。
呼吸の音さえ、広間の静寂にかき消された。
「……わかりました」
その短い返答に、広間の緊張が一瞬、わずかに揺らぐ。
精霊王はわずかに頷いた。
『ならば、精霊界で生きると決めたのだな』
沈黙の中で、玉座の王と一人の人間――双方の決意が、確かに交わった瞬間だった。




