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2-1

琥珀の光が溢れる大広間は、華やかな音楽と人々の談笑の声で満ちていた。

だが、その賑わいのどこにも、第一皇子シアトリヒの居場所はない。


春の公式宴。

名目は先の北辺の戦勝を祝うものであり、帝の御前にて戦功の報告と功労者の顕彰がなされる。

形式としては栄誉の場だが、それは建前でしかない。

誰もが知っている。

称えられるのは“皇太子”であり、かつてその座にあった者には関心すらなかった。


この場に出ること自体が苦痛だった。

任を言い渡されれば戦場へ駆り出され、不要となれば帝都の片隅へ戻される。

主導権も栄誉も与えられぬまま、ただ命令だけを受けて動く日々。

その繰り返しに、どれほど心が摩耗したことか。

立場上、避けられぬものだということは理解している。

だが、もはや理解の先にあるのは慣れではなく、倦みと諦めだった。


一歩進むたびに貴族たちは会釈を返しながらも、身を退ける。

笑みを浮かべながら、距離を測っているのが分かった。

それらにいちいち心を乱すほど未熟ではないつもりだったが、時折その無言の拒絶が苦しくなる時がある。


背後から声を掛けられた。


「おや、兄上。」


聞きたくなかった声だ。

やはり来たか、と溜息をひとつ腹の奥に落とす。


「ご無事のお帰り、何よりです。」


皇太子ナイジェル。

弟であり──かつて、自分から皇太子の地位を剥ぎ取った男。

取り巻きに囲まれた彼は、わざわざこちらへ歩み寄ってくる。

言葉を交わさねばならぬ相手として、最も面倒な人間であることは身に染みていた。


「皇太子殿下。御壮健の由、何よりに存じます。」


努めて平静を装い、礼を崩さぬ様子で応じる。


「任務、誠にお疲れ様でした。ご活躍耳にしております。

……ただ、少しばかり犠牲が大きかったとも聞いておりますが。」


誰の差し金かなど、察しがつく。

良い方向に向かいそうな時に限って妙な命令が届き、補給が遅れたり地元の協力者が急に姿を消す。

勝ちすぎることが危ういと学んだのは、もう随分と前のことだった。

だが、それを言葉にしてはならない。


「兵の士気は保てております。補給線の再整備も既に終えました。」


淡々と、事実だけを返した。

そこに感情を乗せることは、許されていない。

中身を削ぎ落とした答えに、ナイジェルは肩を揺らして笑った。


「頼もしい限りです。ですが陛下は先ほど、こんなふうに零しておられましたよ。」


口元の笑みはそのままに、声だけがわずかに沈む。


「“戻ったのは良いが、これぞという決定打を打てぬとは。やはりあれは所詮、学者気質なのだ”──と。」


またか──と、うんざりした。

慣れているはずなのに、心はどうにも反応してしまう。

ましてや、父帝の言葉を告げるのがこの男であるということに苛立ちが滲む。

本来なら直接聞くべきものを弟という媒介を通して突きつけられる、その構図が何より厭だった。

それでも、表情ひとつ動かせば思う壺だと分かっている。

だから、ただ逸らす。

視線を感情ごと。


「陛下のお言葉、ありがたく受け止めましょう。」


短く返すと、ナイジェルの口元はさらに弧を描いた。


「まぁ、兄上はそう仰るしかありませんよね。」


どこまでも軽やかで、どこまでも愉快そうな声音。


「わたくしは心から感謝しているのです。兄上が国境で尽くしてくださるおかげで、わたくしはこうして政に専心できますから。」


声音には、労わりも敬意もなかった。

むしろ兄が血と泥に沈むことで、自らがいかに安泰で優位な場所にいるか──それを確認しているような響きだった。

言葉こそ柔らかだが、内実は冷笑そのものだ。


昔からそうだった。

この弟は、棘を綿で包んだような皮肉の術に長けている。

それを知っていても、受けるたびに心のどこかが鈍く軋むのは、きっとまだ自分に“期待する心”が残っているからなのだろう。

それが、何より厄介だ。


そこへ、紅のドレスの女性がゆったりとした足取りで近づいてきた。

扇で口元を隠して優雅に歩み寄ってくるのは、寵姫アーデルヒェン。


「まぁナイジェル、あまりお兄様を困らせてはなりませんわよ。」


軽やかで、よく通る声だ。


「シアトリヒ殿下は野営や遠征が続いてお疲れでしょうに。帝都の繊細な空気は、さぞお堪えになることでしょう?」


「……お気遣い、痛み入ります。」


礼儀を崩さぬように、深く頭を垂れた。


「ふふ……まぁ、わたくしは、これ以上北辺に緊張が走らぬことを祈るばかりですわ。

デル・アルタの安寧は、今や皇太子殿下のお力あってこそですものね。」


そう言って、彼女は我が子の腕に誇らしげに手を添えた。

その仕草に、悪意は微塵も感じられない。

むしろ慈愛に満ちていた。

──だからこそ、堪える。

「自分など眼中にない」かのような扱い。


怒りは湧かない。

その感情すら、擦り切れてしまっている。

ただ、思い知らされるだけだ。

何度繰り返しても変わらない現実に。

そして、果てしない繰り返しに疲れていた。


ふと気づけば、ナイジェルの周りには人々が再び集まり始めていた。

貴族院の上席、外交官、帝室高官──色とりどりの礼服と勲章を身に付けた人間達が、彼に彩を添えて取り囲んでいる。

賛辞とほめ言葉が飛び交い、杯の音が祝辞に混ざって響いた。


この場において誰が注目され、誰が中心に据えられているか──力の流れは、あまりに明白だった。

賓客も貴族も、目を向ける先は一つ。

祝辞も賛辞も、“皇太子殿下”のもとへと集まっていく。


その一方で遠巻きに肩を寄せ合い、耳打ちし合う者達。

笑いながら視線を逸らす者。

会釈を返しつつ、通り過ぎる足音。

彼とのあまりの違いに、笑いが込み上げてきそうだった。


やがて、針のような声が降り注ぐ。


「シアトリヒ殿下のお戻りの早さには驚かされます。その類まれなる武略には、改めて感服いたしますぞ。」

「ただ、先日の戦では多少過剰な動きがあったとの噂も耳にしております。兵たちが思わぬ局面に晒されたとの話もちらほらと……」

「陰に潜む戦は有効とは申せ、あまりに徹底しすぎるのは味方の士気に影響が出るのでは、と心配する声もございます。学識の深い殿下ならではの策かと存じますが。」


そして極め付けに──


「殿下ほどの戦才であれば、やはり軍陣の緊張感こそ映えるかと拝察いたします。この宮廷ではいささか退屈されていらっしゃるのでは?」


笑みを帯びた皮肉に、固めた拳が思わず震える。


──そのとき、腹心のエルハルトが静かに近づいてきた。


「殿下、北衛隊の副隊長より急ぎ拝謁を願いたいと申し入れがございます。」


一拍置いて、エルハルトはひそひそと耳元で続ける。


「お顔の色がすぐれません。どうかこの場はわたくしめに任せて、少しお休みになられるとよろしいかと存じます。」


シアトリヒはわずかに眉を持ち上げたが、静かに頷いた。


「承知した。」


そしてナイジェルに向き直り、丁重に頭を下げる。


「皇太子殿下、お話の途中で失礼いたします。急ぎの用務がございますゆえ。」


ああ、早くルゥに会いたい──

その思いだけが、この場にあってもなお彼をかろうじて人間らしさを留めてくれる。

返事も聞かぬ間に踵を返し、揺るがぬ足取りでシアトリヒは大広間を後にした。

※内容を少しだけ修正しました。

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