1-6
「ルゥ、手紙を重ねるうちに……いつの間にか、あなたをお慕いするようになっていました。」
抱く腕に力が込められる。
「迷いながらも、こうして来てくださいましたね。
そして、今もこうして触れることを許してくださる。
あなたも、わたしと同じ気持ちを抱いていると……自惚れてもよいのでしょうか。」
ルナリアは唇を震わせた。
「わた、わたしは……あなたの……ような、素敵なかたと……お、お会いできただけで………」
言い切れず、言葉が迷子のように彷徨う。
それを追うように、ラミエルは言葉を重ねてきた。
「会えるだけで、満ち足りる──お会いするまでは、わたしもそう思っていました。
ですが、あなたを、手紙の向こうではなくこの腕の中に在る『現実』にできたらと。いまはそう願っています。
どうか時々で結構です、こうしてあなたを訪ねる口実を、わたしに与えてはいただけませんか。」
突然の申し出に、ルナリアは言葉を探すことしかできない。
「単なる文通相手から、交際を求められるなど……迷惑に感じられるかもしれません。」
ラミエルはひと息置いて、夜気ごと深く息を吸った。
「でも……ひとのあたたかさを知ってしまった今、
文を交わす以前の、あの寒々しい世界にはもう戻れそうにないのです。」
その一言が、ルナリアの胸を強く揺らす。
自分もまさに、同じ状況だったから。
親戚の家でも、皇宮の片隅でも、彼女は誰にとっても意味を持たない存在でしかなかった。
それが人生なのだと受け入れ、温度を失った世界に身を留めてきた。
ぬくもりを感じられる場所などある筈がない──そう信じていたのだ、手紙を交わすまでは。
気付かぬうちに、遠いところまで来てしまっていたのだと思わずにはいられない。
思い返せば──
最初の一通からずっと、自分たちはどこか似ていたのだと思う。
幼い頃から抱え続けてきた、人には言えない苦悩。
罪人の娘という十字架を、骨の髄にまで沁み込ませ──幸福になってはならないのだと、幾度となく言い聞かせてきた。
彼もまた、同じように何か深い翳りをその身に宿していた。
手紙は決してそれを語らなかったのに、言葉の端々にはいつも静かな痛みが滲んでいたからだ。
だからこそ。
ささやかな言葉であっても、この胸を満たしてくれていたのだろう。
あたたかさに飢えている者同士が不器用に手を伸ばして、互いを温め合うように文を交わしていた。
それが三年という歳月になり、気づけば簡単にはほどけない絆を編んでいた。
(状況は……後からついてくるものだ。)
胸に手を当てながら、目を伏せる。
目の前に、同じ寒々しい世界の中で生きている人がいる。
その人が口にした「戻りたくない」という言葉があまりに自分と重なって、胸に深く刻まれた。
こんなふうに心を揺さぶる人に、この先また出会えるだろうか。
そう思ってしまっても、今だけは許されるような気がする。
だから願ってしまってもいいのかもしれない。
この先も、このひとと心を重ねていくことを。
「……わたしの手紙、あなたの心を……あたためることが、できていましたか?」
ルナリアは息を詰めながらも、真っ直ぐに問いかけた。
ラミエルは口角を引き上げ、淡い笑みを浮かべる。
「わたしの方こそ、同じことを問いたい。
わたしの言葉は、あなたをあたためられていたのだろうか。」
「そうでなければ……三年も続いていません。」
声を震わせて、胸の内に浮かんだ言葉を紡ぐ。
「あなたのお手紙は、本当に優しくて……どれほど慰められたことでしょう。
もしわたしの世界が氷の世界だとするなら、あなたの言葉は確かに――わたしの凍えた心を、あたためてくださいました。」
「わたしも同じです。
死ぬまで凍えたままだと諦めていた心を……あなたの優しさは、たやすく溶かしてしまった。」
ルナリアは胸元を強く押さえ、震えながらも視線を上げた。
「で、でしたら……望んでも、いいのでしょうか。これからも……あなたと心を共有していくということを。」
その声音は儚くも、確かな熱を宿していた。
ラミエルはわずかに眉を動かし、問い返す。
「それは……友として? それとも──」
「う、うまく言えませんが……もっと、近い存在として。友人で終わるには、あまりに物足りない、です……」
途切れがちに紡がれたその言葉。
だが言い終えるころには、どこか晴れやかな決意が宿っていた。
その瞬間、ラミエルの瞳が輝きを帯びる。
「喜んで。」
弾けるような笑顔が顔いっぱいに広がった。
しばらく見つめ合う。
彼の容姿のあまりの美しさにルナリアはまた息を詰めた。
浮世離れした顔立ちは、見ているだけで胸が苦しくなるほどだ。
長い黒髪が肩先に落ち、どこか人を惑わせるような艶やかな空気を纏っている。
でも決して女性的なものではなく、美しさの中に強さを感じさせる男性の輪郭があった。
──多くの女性を惹きつけてきたのだろうに。
なぜ自分など、と卑屈になりかける。
「夢にまで見ていました。こうして現実に、あなたと向き合える日を。」
「さ、さぞがっかりなさったことでしょう。このような冴えない女で……」
「ええ、がっかりしましたよ。」
そうよね。
釣り合わないものと、ルナリアは寂しげに笑った。
そんな彼女にラミエルは片目を瞑ってみせる。
「自分の勇気のなさに、です。もっと早くこうしていればよかった。
そうしたら、あなたの笑顔をもっと早くに知れたというのに。
筆を絶たれたらと思うと……言い出せずにいました。」
「そ……そうでしたか?その割には、随分と情熱的なお手紙をいただいていたと、思っていましたが。」
「あれでも、書き直したのですよ。それこそ何枚も。
気が付けば“好きだ”と綴りかけ、慌てて書き直す羽目になっていました。
顔も見ないうちからそんなことを言う男など、信用ならないでしょう?
どうすれば会っていただけるのかと……独りで滑稽なほど悩み続けていたものです。」
「まあ。」
吐息とともに驚きが零れる。
勇気がないなどとは夢にも思わなかった。
あの熱のこもった言葉の裏に、そんな逡巡が隠されていたとは──意外で、そして愛しくもある。
「それにしても、わたしは本当に幸運に恵まれている。
まさか文通相手が、こんなにも可愛らしい女性だったとは。」
「か、可愛らしいだなんて……」
ルナリアは慌てて顔を覆い、耳まで赤く染めた。
「本当のことですよ。
だってあなたは、妖精のように愛らしいお姿をしていらっしゃるではありませんか。」
「よ、妖精は……さすがに、い、言い過ぎかと……」
「そんなことはありません。」
ラミエルはさらに言い募る。
「お見えになったとき、あまりに眩しくて──月の精が降りてきたのかと思いました。
一度ならず二度までも、あなたに恋をしてしまったようです。」
──恋。
胸に矢が突き刺さったかのような心地だった。
恐ろしく甘い言葉に反則級の笑顔。
耳どころか、首まで赤くなっているのが自分でも分かる。
「文は人なり、とはよく言ったものだ。
本当にお手紙の通りの人です。穏やかな眼差しも、柔らかい物腰も、恥ずかしがり屋なところも。」
「あ、あなたは……少し違う印象かも。」
「おや、違いますか?例えばどのようなところでそう思われたのかな?」
ルナリアは恥ずかしそうに視線を落とす。
「想像していた以上に……凛々しくて。む、胸が……落ち着かないです……」
ラミエルは虚をつかれたような顔をしたが、すぐに笑顔になる。
「ルゥ。そんなことを言って、わたしを調子に乗らせてはいけませんよ。」
ルナリアの手を取り、そのまま自らの胸へと導いた。
涼やかな顔をしているのに、掌越しに伝わる鼓動は驚くほど早い。
「ラム……?」
「笑わないでくださいね。あなたが予想外のことを仰るから、動悸が止まらないのです。」
ああ、どうしてこんなにもこの人は自分の心を動かすのが上手いのだろう。
堪えきれず繋いだ手に力を込めると、彼も応じるように握り返してきた。
互いの笑顔が重なり合い、胸の奥で喜びが弾ける。
「こんな気持ちになるなんて……思ってもいませんでした。ただ隣にいてくださるだけで、満たされてしまうなんて。」
「わ、わたしも……あなたと同じ気持ちでいます……」
「罪作りな人だ。そんなことを言われたら、舞い上がってしまう。」
そう呟いたラミエルは、静かに顔を寄せてくる。
ルナリアの胸が大きく跳ねた。
逃げるべきか、それとも身を任せるべきか──迷いが過ぎる。
睫毛を落としたその顔に、どうしようもなく心が騒いだ。
けれども。
一度唇が触れてしまえば、もう止められなかった。
甘やかな衝動はすぐに理性を押し流していく。
触れるたびに心がほどけてゆき、抗えぬ熱が胸の奥で広がっていった。
いけない──そう分かっていながら、離れたくないと願ってしまう。
夜風が髪を撫で、静かな空気がその余韻を深く刻む。
春の夜は、ただ二人のために在るかのように佇んでいた。
澄み渡る空には月が輝き、星々が静かに瞬いている。
その光は寄り添う二人を淡く照らし、足元の影をひとつに結んでいた。
この日を境に、二人は密やかな逢瀬を重ねるようになる。
長いあいだ凍える場所を彷徨ってきた心が図らずも手紙を通して触れ合い、ついに温もりを分け合うようにまでなったのだ。
逢瀬のひとときはひどく甘美で、交わした言葉も、沈黙さえも、静かな喜びとして夜の深みに降り積もっていった。
けれど同時に、それは長い冬のあとに訪れた儚さを抱く春のようでもあり、どこか頼りなくて壊れやすいものにも思えた。
抱き寄せた温もりが、いつか音もなく消えてしまうのではないか。
そんな不安が、いつも暗闇の底で息を潜めていた。
それでも二人は夜ごと互いに手を伸ばして、寄り添い続けた。
やがて訪れる破滅を、終わりを予感しながらも、不安と背中合わせの幸福の中へと沈んでゆく。
*
それは五年前。
北東の地ヴァルディスで起きたこと。
大量の捕虜を抱えた中で疫病が発生。
混乱に乗じて一部が暴動を起こしたゆえ、鎮圧のためにやむなく武力行使を許可した。
自分はただ鎮めることを命じただけだった。
だが現場は暴走。
降るはずのない火砲が空を裂き、無辜の命を巻き込んだ。
収容所も当然無事ではなく、捕虜を別の地へ移送することに。
さらに移送においても命令がねじ曲げられ、飢えた捕虜は飲まず食わずの行軍を強いられる。
結果、多くを死へ追いやった。
出すはずもない命令。
それが、いつの間にか自分の署名と印璽をもって「事実」とされた。
随所で蒔かれた悪意の種が芽吹き、やがて揺るぎない虚構を作り上げていったのだ。
虚構は自分を虐殺者に仕立て上げた。
ヴァルティスで数千の捕虜を虐殺した男。
真実がどうであれ、人々の口に上るのはその名である。
宮廷では冷笑と侮蔑が降りかかり、市井では恐怖と憎悪が囁かれる。
そのどれもを否定する術は、もはや残されてはいなかった。
もし「狂犬」が自分だと彼女が知ったなら、どう思うだろうか。
抱き寄せたこの腕を、恐れて振りほどくのか。
それとも、軽蔑の眼差しを向けるのか。
あるいは──哀れな人間だと同情するのか。
とてもではないが言えない。
言葉にする時は、おそらく別れを告げる時だろう。
それでも、この嘘にすがるしかない。
彼女を、やっとこの手に抱いたのだから。




