4-5
それはある日のことだった。
積み込みの仕事を終えて宿へ戻るラミエルを、宿屋の主人が呼び止めた。
「街外れの宿仲間から、あんたたちに渡してくれって頼まれててな。」
帳簿から視線を上げ、彼は少しだけ首を捻る。
「あんたたち夫婦がこの街に来る、だいぶ前のことだ。妙な男がやってきて寄越したらしい。
小汚い旅装で、道具商を騙っていたみたいだが……知り合いかい?」
そう言って示されたのは、古びた麻袋だった。
その縁の裏側には、白い糸で薔薇のような意匠がひっそりと刺繍されている。
何も知らなければ、見過ごしてしまうほどの慎ましさだった。
ラミエルは、じっとその刺繍を見つめる。
そして、ひと目でそれが誰の手によるものかを悟った。
(──エストレアの。)
「“銀髪の娘と黒髪の男の若い夫婦が来たら渡せ”とだけ言い置いて、勝手にどこかへ行っちまったそうだ。
何もなけりゃ捨ててくれって話だったが……さて、どうする?。」
主人はラミエルの様子を見て、麻袋を差し出した。
「まあ、巡り合わせってやつだろうな。」
ラミエルは笑ってしまう。
これが天の采配のような贈り物であることは、すぐに分かった。
几帳面で厳しく、それでいて痛いほど情に敏い──エストレア伯の娘らしいやり方。
彼女は行き先を読み、仕掛けだけを置き、あとは風に預けただけなのだろう。
麻袋の底には、古びた銀の匙がふたつ入っていた。
鈍く黒ずんだ表面には、極めて繊細な葡萄の唐草が浮かんでいる。
一見すれば、ただの古道具にしか見えない。
だが、それは帝都でもごく限られた銀細工師の手による品だった。
価値を知る目利きの商人なら、惜しげもなく金を払うことだろう。
さらに袋の中には、見た目よりもずっと上質な薄手の毛布が数枚入っていた。
軽やかで、しっとりと柔らかい。
織りには選び抜かれた羊毛が使われているのが、手触りだけで分かる。
ささやかなものでありながら、胸に沁みる贈り物だった。
部屋へ戻る。
そのときルゥは暖炉に薪をくべ直して、手をかざしていた。
隣に腰を下ろして麻袋の中身を見せると、彼女は目を丸くする。
「どうしたのですか?」
問いかけに、ラミエルは袋の縁の裏側を示した。
「これ、見て。」
白糸で刺繍された、控えめな意匠。
それに目を留めたルゥは、首を傾げる。
「模様……にも見えますけれど、どこか紋章のようでもありますね。」
「そのとおり。これは東部の門閥、エストレア伯爵家の家紋だ。伯爵家の領地に広がる丘陵地では、白薔薇が特産でね。」
「エストレア……」
その名を繰り返したルゥが、はっとして口元を押さえる。
「まさか……あの……?」
ラミエルはくすりと笑った。
「アマリエ・エストレア、懐かしい名前だろう?」
「女官長が……こんなところに、どうして……」
「さあ、どうしてだろうね。」
袋の刺繍を指先でなぞりながら、ふっと息を吐く。
「たぶん──彼女は俺たちがアルセナ方面に向かうと読んでいたんだろう。
アルセナへ抜けるには、この宿場を通るしかない。ここが最後の都市だから。」
「でも……南の回廊から出たかもしれないし、東側に逃げていたら、まったくの逆方向だったはずなのに……」
「それでも、彼女はここに置いた。」
薪の爆ぜる音を聞きながら、彼は目を細めた。
「あの人のことだ。俺たちが考えている以上に、俺たちのことを理解していたのかもしれないね。
アルセナに出るという確信でもあったんだろう。」
アルセナ自由領は、帝国の影が届かない中立の共和国だ。
身分も出自も問われず、誰もが等しく市民として生きられる場所。
一人の意志がすべてを決める帝国とは異なり、人々の声が国の形をつくるという。
子供の頃、書物でその仕組みを知ったときは驚いた。
すべての国には王がいて、民はその意志に従うものだと、当然のように思っていたからだ。
思想犯への取り締まりが苛烈な帝国にあって、共和制など口にすることすら許されなかった。
けれど皇太子として統治を学ぶ中で、シアトリヒは帝国の在り方に疑問を抱くようになった。
「誰かが命じ、誰かが従う」
その仕組みの中では、ルナリアのような者はいつまでも赦されず、傷つけられる。
──この国でなければ、彼女はもっと幸せだったはずだ。
その思いは、ずっと胸の奥にあった。
だからこそ、逃げると決めたときに真っ先に浮かんだのだ。
彼女が自由に生きられる場所に向かおう、と。
そして女官長は、自分の性分をよく知っていた。
逃げ場を選ぶならどこかなんて、きっと誰よりも正確に予想していたに違いない。
ラミエルはもう一度、麻袋の刺繍を見やる。
風まかせの贈り物。
けれど、確かな意志がそこにあった。
厳しく、小煩く、よく叱られた。
それでも、あの人のことは嫌いではなかった。
人によって態度を変える人ではなかったから。
その在り方が、あのヴァルディスの後にはどれほどありがたかったか。
「……お母さん、みたいな人ですね。」
隣にいたルゥがぽつりと囁く。
「母と言えば、そうかもしれない。散々小言を言われてきたしね。
“それは皇子の所作ではございません”って眉一つ動かさずに叱られるのは、子供心にけっこう堪えたよ。」
「ふふ……あの方、殿下にもそんな感じだったのですね。」
「まあでも、それが今となっては懐かしいけれど。」
ルゥと顔を見合わせ、ラミエルは笑った。
脳裏には、仮面のような無表情な女性の面影が浮かんでいる。
話すなら、今をおいて他はない。
ラミエルは胸裏でそう思い、静かに口を開いた。
「あの人はね、ずっと君に謝りたかったんだよ。」
「え?」
ラミエルは、視線を火に落としたまま言葉を続ける。
「詳しいことは話せないけど……彼女は、かつて帝都で起きたある粛清の端にいた。
それをずっと悔やんでいたのさ。
自分の報告が、思いもよらぬ事態を引き起こしてしまったってね。」
ルゥはしばらく何も言わなかった。
薪が弾ける音だけが、二人のあいだを満たす。
「最初に君の戸籍を改竄したのは、彼女だった。
入宮のときに、君がジグバルトの生き残りだと気付いたんだろう。
どうやって繋がりを知ったのかはわからないけど、俺が操作したときには、彼女の手が入った痕跡が残っていた。」
「どうして……女官長が、わたしの戸籍を……?」
黙って耳を傾けていたルゥがぽつりと呟いたので、言い添えた。
「……たぶん、贖罪のつもりだったんだと思う。
もし君と俺がこうならなければ、自分の手元で守るつもりだったのかもしれないね。
まあ、これは本人に確かめたわけじゃないから、憶測でしかないけれど。」
沈黙が流れた。
ラミエルは息を詰める。
自分が触れたのは、彼女の最も深い傷──それを知っていたからだ。
どんな言葉でも受け止めよう。
その覚悟で身構える。
けれど、返ってきた反応は予想していたものとは違っていた。
ルゥは小さく息を吐いて、静かに微笑んだのだ。
「……正しいこと、間違っていること。それは、一体誰が決めるのでしょうね。
あなたはわたしを救ってくださいました。
法や掟で見れば、あなたのしたことは“間違い”だったのかもしれません。でも、わたしにとっては違います。」
火の粉が音を立てて舞い上がった。
彼女はそれを目で追いながら、穏やかに続けてゆく。
「女官長の行いを、わたしが正しい、正しくないと判断することはできません。
人は皆、それぞれの理を生きているだけですから。」
彼女の声は不思議なほど穏やかで、静かな水面のようだった。
「正しさなんて、立つ場所によって形を変えるものなのでしょう。
誰かの行いが、別の誰かの絶望になることもある。
だけど、それを正しい、正しくないで分けてしまえば、きっと終わりがなくなってしまう。
誰かが誰かを断じるたびに、また新しい悲しみが生まれてしまうのだと思います。
あの人には、あの人の理がありました。
そしてそれは、わたしたちにも言えること。
物事に白黒をつけようとするほど、大切なものを見失ってしまう。
今のわたしは、そう思うんです。
だから……わたしには彼女を恨むことができません。」
ラミエルの胸の奥に、温かいものが満ちていく。
自分の生きてきた道の中では、理も信念も人を切るための言葉でしかなかった。
けれど今、それが違う形で息をしていると気が付いた。
──君に会えて、本当によかった。
君は、いつだって自分の見えていなかったことを教えてくれる。
自分の取った選択が母を殺してしまった。
そんな自分には、生きる資格がないと長い間思っていた。
だから息をしていることさえ、罰のように感じていた。
あの出来事は、きっと一生消えない。
忘れるつもりもない。
けれど、自分には自分の想いがあった。
決してそれは、傷付けようとしていたわけじゃない。
守りたかった。
誰にも、自分の選択の巻き添えになってほしくなかった。
それだけだった。
それが思った方向に働かず、結果としていろいろなものを失ってしまったけれど。
すべてを正しいか間違いかで測らなくてもいいのではないか。
そうやって答えを出そうと急がなくてもいいのではないか。
守りたかったと思っていた自分まで、罰してしまわなくてもいいのではないか。
あの日の選択を、すべて間違いだと決めつけなくてもいいのではないか。
──そう、思えていた。
そして同時に、こうも思っていた。
君がいてくれたからこそ、繋がってゆけた。
壊れかけた自分を案じてくれていた人たちとも。
この旅で出会った誰かとも。
君に出会っていなければ、今も自分の世界は凍てついたままだった。
でも今は、違う。
世界は、思っていたほど悪くない。
そんなふうに思える心を持てたこと──それだけでこの人生はもう充分報われていた。
暖炉の灯りがゆらめく部屋で、ふたりは寄り添う。
国境を越えるその日は、もう遠くない。
追われることもなく、ただふたりで生きてゆける場所へ。
ささやかな願いが、冬の底で胸をあたためていた。




