4-3
ダルハルトの鉱山を飛び出したはいいものの、ふたりに行き先の宛てがあるはずもなかった。
夜の森、焚き火の前で肩を寄せ合い、震えを抱えながら話し合った結論はひとつ。
途中途中で働き口を見つけ、国境を目指すことだ。
季節は春。
種まきの時期なら、労働力を求める地もある。
そう踏んで、ふたりは南西へ──帝国でも有数の穀倉地帯、グラナート谷へと足を運んだ。
ここは大河から引かれた水路に沿って麦畑や豆畑が果てしなく続き、その実りが帝都の食卓を支えている豊穣の地である。
あれから、まだ半年。
まだほとぼりが冷めたとは言えない時期である。
できることなら人の多い宿場は避けて通りたかった。
だが鉱山で得た賃金はわずかで、路銀の心許なさを思えば、仕事を探すほかない。
そのために、ふたりは宿場に立ち寄っていた。
荷車の列が行き交う大きな街道沿い、市が立つ広場に足を踏み入れた。
歩き通しで腹を空かせていたが、食堂に入るほどのゆとりはない。
香ばしい匂いと喧噪のただ中を練り歩く。
籠に盛られた果実や香草をまぶした惣菜などに目を奪われたが、余計なものに回す余裕はなかった。
名残惜しさを胸に店の先を幾つも通り過ぎて、広場の片隅に腰を下ろす。
そして少ない銭を崩して買った黒パンを齧りながら、しばし疲れた足を休めた。
春の陽気に肩の力が抜け、瞼が落ちる。
ふたりはいつしか、うつらうつらと微睡んだ。
そのとき広場の真ん中から、腹の底に響くような呼び声が飛び込んでくる。
「峠の向こうの村じゃ種まきの働き手が足りねえ!春のあいだだけでいい、飯と寝床は用意するぞ!」
その声に、ルゥははっと顔を上げた。
ラミエルと目が合う。
敢えて話さなくとも、考えは一致しているようだ。
彼が短く頷くのを見て、彼女も頷き返す。
ふたりは立ち上がって、呼び掛けの主に歩み寄った。
簡単な遣り取りののち、春のあいだだけ働くという約束があっさりと決まる。
そして翌日から農地の広がる谷間の村に、身を寄せることとなった。
村は、山の緑に抱かれるようにして広がっている。
畑を覆う黒土は陽光を受けて光り、水路からは絶え間ないせせらぎが響いていた。
新しい季節の息吹がそこかしこに感じられる風景である。
案内役の農夫に導かれ、空き家となっていた粗末な小屋に至った。
「ちょいとボロいが、ここを寝泊まりに使ってくれ。必要なものはあとで運ばせる。」
男はそう言い残して去っていった。
確かに見た目はボロではある。
けれど十人以上が押し込められた鉱山の掘立て小屋に比べれば、雲泥の差だった。
何より、二人きりで過ごせる場所が与えられたことがありがたい。
あの鉱山では、がらくた置き場や人の寄りつかない隅を見つけて、ひそかに夫婦の時間を紡ぐしかなかったのだ。
壁の塗りはところどころ剥がれており、床板もきしんでいたが、掃除をすればどうにか寝起きはできそうだ。
ふたりは嬉々として、休む間もなく掃除に取りかかった。
鎧戸を開け放って窓を開けると山の風が一気に吹き込み、溜まっていた埃を攫っていく。
床を拭き、片隅のかまどに火を入れると、ようやく小屋が「住まい」として息を吹き返したように思えた。
その夜は、分けてもらった野菜を使って簡単なスープを煮た。
湯気とともに立ちのぼる匂いを囲みながら、ようやく胸を撫で下ろす。
昨日までは先の見えない不安しかなかったのに、今は「少し落ち着けるかもしれない」という安堵に包まれていた。
こうして、農村での最初の一日が過ぎてゆく。
明くる日から、ふたりは早速仕事に出ることになった。
男手の足りない畑ではラミエルが鍬を振るい、ルゥは女たちに混じって、種まきの準備や昼の炊き出しを手伝う。
合間の時間には、掃除や洗濯、水汲みといった家のことをする余裕も与えられていた。
ルゥにとって、農家の仕事は何もかもが初めてである。
屋敷や宮殿での雑務には慣れていたが、土や作物を扱う仕事は勝手が違った。
何をすればよいのか分からず立ち尽くしていると、すぐに都会から来たことを見抜かれ、女たちに一から教わることになる。
できないことはできないと正直に伝えれば、誰も嫌な顔はせず、根気よくやり方を示してくれるのだった。
一方のラミエルは、何をやらせても器用だった。
荒地での塹壕掘りや訓練の記憶が染みついているせいか、畑を耕す手つきにも無駄がない。
その整った風貌のまま土を扱う姿は、最初こそ奇異の目を向けられた。
しかし黙々と作業を続け、雇われてきた誰よりも多く鍬を振るううちに余計な視線は消えてゆく。
やがて種まきの時期となり、村じゅうが畑に出る日がきた。
畝に沿って縄が張られ、男たちは鍬で溝を切り、女や子どもたちがそのあとに続いて種を落としていく。
ルゥも腰に袋を提げ、教わったとおりに一粒ずつ黒土へと種を落とした。
初めての作業に指先はぎこちなかったが、皆がいい調子だと声を掛けてくれたので、拙くも懸命に働く。
そうして種まきが終わり、畑が芽吹きを待つばかりとなった頃。
臨時の働き手たちが村を去る時期がやってきた。
皆、次々と荷をまとめ、峠を越えて次の仕事場へ向かってゆく。
ラミエルとルゥもまた、多くはないがしばらく食いつなぐだけのお金を手にして、腰を上げる準備をしていた。
そんな折、村の年長の男──皆が自然と「親父」と呼ぶ人物に声を掛けられる。
「働き者だし、嫌な顔ひとつ見せん。行くあてもないなら、このまま残ればいい。」
ふたりの人柄と働きぶりを認めての言葉だった。
渡りに船の申し出に、拒む理由などあるはずがない。
こうしてふたりは、谷あいの村の一員として迎え入れられることになった。
留まると決まってからは、ただ畑を手伝うだけでは済まなくなった。
ふたりには、前の年に収穫を蓄えた倉もなければ、当座の蓄えもない。
明日の糧を得るには、その日その日の働きと引き換えにするほかなかった。
ルゥは野菜を分けてもらう代わりに、畑の草抜きや水遣りを手伝った。
空いた時間には保存食などを作り、夜になると針と糸を手に小袋や刺繍飾りを拵え、市に出す荷に加えてもらう。
そうして得た品々が、ふたりの暮らしの足しとなった。
子どもを背負ったまま畑に出る女の多い村だったから、いつのまにか幼子を託されることも増えていった。
世話が得意というわけではなく一緒になって遊ぶばかりだったが、子どもたちの笑い声が絶えなかったので、それが彼女の役目のように定まっていった。
ラミエルは力仕事の呼びかけがあれば、どこへでも駆けつけた。
水路の石を積み直し、傾いた柵を起こし、畑の杭を打ち直す。
農耕馬の手綱を取ればすぐに従わせ、出産の近い牝牛などの世話もいとわなかった。
落ち着いた手際は、言葉よりも早く信頼を呼ぶ。
時には古い猟銃を肩に若者たちと山に入り、獲物を撃ち落とすこともあった。
粉煙と轟音のあと、正確に獲物が倒れるさまは、彼の過去を知らない者にとっては不思議でしかなかった。
得られた肉は村の食卓に上がり、毛皮は冬支度に回される。
獲れたものは皆で分ける、それもこの村の決まりだった。
そうして分け合う営みのひとつひとつが、ふたりに生きる糧と居場所を与えてくれる。
暮らしは汗と引き換えに成り立っていたが、重さは感じない。
働けば食卓が満ち、笑顔が返ってくる──その循環の中には、鉱山にも帝都にもなかったあたたかさが息付いていた。
でも。
周囲に馴染めば馴染むほど、ルゥの胸には影が落ちる。
畑に立つラミエルの姿は、かつて軍服に身を包んでいた頃とはまるで違って見えた。
あのときの彼は、剣を帯び、背筋をまっすぐにして歩いていた。
いまは粗末な服に袖を通して、土にまみれながら鍬を振るっている。
そればかりか、傍らに立つ自分をいつでも気遣っていて。
それが彼女の目には、痛ましく映る。
ラミエルが眠りについた後。
寝息を立てるのを見届けてから、ルゥは卓に身を伏せて肩を震わせることがあった。
(ごめんなさい……わたしのせいで……)
自分がいたから。
自分さえいなければ、彼はこんな暮らしをせずに済んだのだと思ってしまう。
けれど、今さら離れることなどできなかった。
彼と共に生きると決めたのなら、この痛みとも向き合っていくしかない。
それもまた、自分が選んだ愛のかたちなのだ。
そうして涙をこぼした夜の翌日は、不思議なことにラミエルが少しだけ甘やかすように優しくなる。
何かの弾みに後ろから抱きしめてくるのだ。
「ルゥ……今日の煮込み、すごく美味しかった。」
「緑の屋根の家の奥さんが……お肉を、分けてくれたの。」
「毎日何が出てくるか、楽しみにしてるんだ。」
「昔は、自分で……ごはんの用意をすることもあったので……」
「そっか。料理上手な奥さんをもらえて、俺は果報者だよ。」
穏やかな声が鼓膜を震わせた。
その声が優しすぎて──だからまた胸がしくしくと痛む。
──君のせいじゃない。
この暮らしが惨めだなんて思わない。
きっと彼はそう言いたいのだろう。
けれど多くは語らず、静かに微笑んでルゥを抱き寄せる。
そんなふうに、優しく小さな幸せを育む日々が少しずつ積み重なっていった。
時は流れてゆき、晩春から初夏、そして盛夏へ。
麦畑は日ごとに色を変えてゆき、若葉の緑から淡い黄へと移ろっていた。
風にそよぐ黄金の波が、遠くまで揺れ広がる。
その眺めに、ルゥは静かな安らぎを見出していた。
帝都では決して目にすることのなかった田舎ならではの豊かな景色が、言葉よりも心に沁みていく。
水辺では子どもたちが歓声を上げ、裸足で跳ねては水しぶきを散らした。
湿った草の匂いが立ちのぼり、野には虫の声が満ちている。
夕暮れには黒雲が湧き、夕立が畑を打ち据えた。
けれども雨が過ぎれば空は澄み渡り、夜には星々が群れを成して瞬く。
星のきらめきを追っていれば、日中の気配も疲れも、いつのまにか遠のいてゆくのだった。
ある日の余暇の午後、川へ出かける。
石伝いに歩き、澄んだ流れを覗き込んでは魚影に目を細めるルゥに、ラミエルが悪戯っぽく告げた。
「どっちが多く釣れるか、勝負しようか。負けた方が今夜、勝った方の願いをひとつ聞くんだ。」
挑戦的な彼の表情に、彼女は笑って受けて立つ。
川岸に並んで釣り糸を垂らすと、日常の雑事が遠ざかっていった。
水面に広がる波紋は、ふたりだけの時間をゆっくりと刻んでゆく。
竿先に立つ小さな振動に、競うように二人は反応した。
最初は互角だったが、いつのまにかルゥが優勢となり、勝負はあっけなく決まる。
その夜、ルゥはお腹いっぱいになるほどに甘やかされることになる。
ひとつだけのはずだった願いは、気付けば幾つも叶えられていた。
ラミエルは、次の余暇も、その次の余暇も川へ誘い続ける。
何でもそつなくこなす人間でありながら、負けたままではいられないという──意外な負けず嫌いの一面を、彼女は知ることになった。
ふたりの時間は途切れることなく続いていく。
夏の日々は忙しくも満ちていた。
ルゥは女たちと並んで野菜を塩に漬けたり、縄に吊るして乾かしたりして秋冬に備える保存食づくりに追われる。
ラミエルは男たちとともに水路の泥をさらい、流れを確かめた。
暑気に汗を流す姿は頼もしく映り、いまや村の働き手として欠かせない存在になっていた。
そんな暮らしの中で、村人たちの目に映るのは、いつも寄り添うふたりの姿だった。
ラミエルは人前でも構わず、甲斐甲斐しくルゥの世話を焼く。
大人も子どもも口を揃えて「どっちが嫁なんだか」と笑った。
けれど彼はそんな囃しにどこ吹く風で、肩に回した手を緩めることはない。
周囲の視線など気にも留めず──眼差しの先には、いつもルゥがいた。
夕暮れには、ふたりで歩幅を合わせて村の外れを散歩する。
風に揺れる麦の穂が、さらさらと優しい音を立てていた。
ラミエルは立ち止まり、無言のまま彼女の手を握る。
その掌には、疲れではなく、安らぎが息付いていた。
そして夜になれば、よく並んで星を見上げた。
一年前、ふたりで見上げたあの空とは違う。
あの時は未来の不透明さに揺れており、星々は遠く冷たい灯火に映った。
けれど今は違う。
星はまだ遠いが、隣の温もりがその光を身近なものに変えていく。
言葉はなくても、空の下に広がる沈黙がふたりの間を満たしていた。
流れ星がひとつ、またひとつと弧を描くたび、ルゥはかつての悲しみといまの穏やかさが同じ胸の中に並んでいるのを感じる。
消えゆく光に手を伸ばす代わりに、彼女はただラミエルの手に力を込めた。
そしてこれからも共に歩む未来を思い描きながら、夜空の星を数え続ける。
夜が明ければ、またいつもの暮らしが待っていた。
畑に立ち、額に汗して、笑い合いながら一日を繋いでいく。
その日々の中で、ルゥは折に触れて彼を目で追った。
暑気の中で黙々と働く姿は、見慣れているはずなのにいつも新鮮で、つい目を奪われてしまう。
分かってはいても、目が合うたびに「やっぱり、かっこいい」と思わずにはいられなかった。
誰かのために汗を流す背中も、道具を丁寧に手入れする横顔も、ルゥには眩しく映った。
そして、その魅力に気づいているのは自分だけではなかった。
通りすがりに布を落としては振り返る娘。
市の帰り道に「届けましょうか」と微笑む女。
さりげないふりをしながら注がれる視線の数々に、ルゥは苦笑を覚える。
魅力ある男を夫にすると、世の中にはこういう苦労もあるのだろう。
情けなさよりも、むしろ可笑しさのほうが先に立った。
けれども彼は、どんなときでも変わらない。
村人に囲まれても、娘たちに声をかけられても、視線が逸れることはない。
ただひたすらに、自分をまっすぐに見てくれる。
そう思えるだけで、胸の奥が温かく満たされた。
そんなわけだから、意識せずにはいられない。
抱き合うたびに、いずれは子どもも授かって──そんな未来を描いてしまう自分がいる。
彼の子どもが欲しい。
農夫とその妻として根を下ろし、この村の景色の中で子を育てられたら、どんなに幸せだろう。
ラミエルも、同じ夢を見ているのだろうか。
子どもを見る眼差しはやさしく、温かい。
背が高く表情に乏しいせいで、初めは怖がられることもあるようだが、
木に縄をかけてブランコを作ったり、器用に削った木の玩具を渡したりすると、たちまち子どもたちに囲まれてしまう。
そういう日の夜は、決まって遅くまで新しい細工に向かっていた。
きっと彼も、自分たちの未来を意識しているに違いない。
子どもが生まれたら──
そんな思いを抱きながら、彼と寄り添う夜を過ごした。
だが、世の流れはふたりを赦そうとはしなかった。
北の国境で再び戦の気配があると、小声で囁かれ始める。
作業の合間に耳に入るのは、あまり明るい話題ではない。
隣村では徴兵の知らせがあったとか、この谷にもやがて及ぶのではないかとか……そんな噂ばかりだ。
日を追うごとにルゥの胸には不安が広がってゆき、ラミエルの顔つきにも、いつしか険しさが影を落とすようになっていった。
そんな中で、収穫の季節を迎える。
乾いた土に鍬を入れ、男たちは黙々と手を動かした。
栗や芋、豆に小麦──陽射しを浴びて刈り取られた実りが、山のように積まれていった。
女たちはそれを選り分け、籠に詰め、冬を越す備えを整えていく。
その日も、ふたりは呼び出されて村外れの小麦畑の収穫に加わっていた。
迷いのない手つきで刈り、束ね、運ぶ姿は、もはや村の誰とも遜色がない。
誰の目にも、ふたりはすでに“よそ者”ではなく、この村の一員そのものになっていた。
作業の最中だった。
近くで交わされている話し声が、風に乗って耳に届く。
「そういやこの前、郡役所に行ったらな。都から来た人間が寄ってきて……」
「へえ、何の用だ?」
「なんでも、えらく身分の高い男がとんでもないことをしでかして、逃げてるんだと。」
「なんだそりゃ」
「さあな。皇帝様の身内らしい。詳しくは聞けなかったけど、たいそうな騒ぎになってるみたいでな。女をひとり連れてるとか言ってたぞ。」
「すげえな、女連れで逃げてるのかよ。」
「役所の連中もぴりぴりしてた。徴兵で手一杯だってのに、その行方不明の奴のせいで余計に忙しいらしい。なんとしても見付けたいらしくてな。高い懸賞金がかけられてるんだとか。」
「へえ……幾ら貰えるんだろ。」
ルゥはごくりと息を呑み、隣にいるラミエルを見やった。
彼の表情は、石像のように固まっている。
しかし、すぐに気遣わしく微笑みを浮かべて首を振った。
「あんたも都のほうから来たんだろ? 知ってるかい、その話。」
いきなり話を向けられたが、ラミエルは調子を崩さずに答える。
「いえ。俺が都を出たのは、もうずいぶん前なので。」
そう言って作業に戻ったが、顔を上げることはなかった。
秋の陽はやわらかく差していたが、その瞳の奥には冷たい光が沈んでいる。
遅れて震えがやってきて、ルゥは鎌を握る手を強くした。
血の気が引いていくのが、自分でも分かる。
立っているのも辛かった。
ラミエルはすぐに彼女の異変に気づき、近くの人間に声をかける。
「女房の具合が悪いようだ。忙しいところ申し訳ないが、家に戻らせて貰ってもいいですか。」
村人たちは快く頷いてくれた。
おめでたかと呑気に笑う者までいる。
噂話に胸を突かれて倒れそうになっているとは、誰ひとり思っていないようだ。
小屋へ戻ったあと、ラミエルはかまどの火に手をかざして、しばらくぼんやりとしていた。
やがて深く息を吐き、ルゥのほうへ向き直る。
「徴兵が始まれば、役人が名簿で家を当たる。そこで詰む。」
淡々とした口調ではあったが、そこに宿る覚悟は明白だった。
ルゥは胸元で拳を握りしめる。
「……そう、ですか。」
「早々に立つしかないだろう。予定通り、国境の方角へ進もう。」
「ずっといられないことは分かっていたけれど……」
重々しい気持ちで、彼女は荷をまとめ始めた。
「市の立つ宿場へ行くと伝えよう。そうすれば、しばらくは騒ぎにもならない。」
「……うん。」
言葉少なに頷いたルゥの胸に、罪悪感と痛みを帯びた寂しさが残る。
この村が自分たちに与えてくれたものの大きさを思えば思うほど、未練は重くのしかかってきた。
翌朝、ふたりは「宿場町まで買い出しに行く」とだけ告げて、村を後にする。
それきり村に戻ることはなく、再び行き先も定めぬ旅路へと踏み出した。
平穏の地を離れ、暗がりを進む道へ。
苦しくても、ふたりが選んだ道である。
「ラム……」
歩きながら名前を呼ぶと、彼はしっかりと手を握り返してくれた。
「心配要らない。君となら、どこまでも行ける。」
それがどれほど頼もしく、どれほど切なく胸に響いたことか。
朝の光はまだ淡く、夜の気配が残っていたせいか、彼の一言が一層深く胸に沁みた。
山の稜線が白む空に溶け、道の先にはまだ薄い霧が漂っている。
それでも、いつかきっと。
追われることのない世界で笑い合える日を夢見て。
ふたりは、また歩き出した。
※少し内容を修正しました。




