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4-2

半年も経てば、戸惑いがちに人の背中に隠れていたルゥも、いくらかは鉱山の暮らしに馴染んでくる。

少なくとも、ラミエルの目にはそう映った。

洗鉱場では冷たい水に手を晒しながらも黙々と作業をこなし、炊事場でも小柄な体を忙しなく動かしている。

当初のように周囲をうかがって尻込みする姿は減り、代わりに一生懸命さが前に出てきていた。

そうなると、変化は別のものまで引き寄せてくる。


鉱山には、多くはないが女性もいた。

ルゥと同じく、洗鉱や炊事場などで働いている。

しかし荒んだ環境に生きる女たちは殆どが擦り切れており、男や酒などに身を寄せることで日々をやり過ごしていることが多かった。

そんな中で、清らかさを残しているルゥは嫌でも目立つ。


ふたりきりのときにラミエルが呼び掛けていた「小鳥」という愛称を、誰かが聞き付けたのだろう。

いつの間にか彼女はその名で呼ばれるようになり、坑夫たちのあいだで親しまれるようになっていた。

親しまれるくらいならまだいい。

しかしその好意が境を越えはじめると、気が気でなくなってしまう。


煤にまみれていても眩しい笑顔が男たちの目を奪っていくのを、ラミエルは幾度も見てきた。

そういうとき彼は番犬のように睨みを効かせて余計な視線を追い払っているのだが、中には諦めの悪い連中もいて、しつこく彼女の周りを彷徨いている。

その影のような付きまといに、ラミエルは近ごろ苛立ちを募らせていた。


諦めの悪い連中の中でも、ひときわ目に余るのが発破班のマルクという男だった。

何かと理由をこじつけては、ルゥの周囲を彷徨いているらしい。

しかも決まって、ラミエルが傍を離れている時にである。


マルクはこの鉱山での勤めが長く、腕の確かさには定評があった。

荒っぽいが手際がよく、仲間からの信頼もそれなりに厚い。

ラミエルも発破班に移った当初、何度か肩を並べて作業をしたことがある。

岩質や爆薬の癖をよく理解しており、現場の勘は確かだと感心させられたりもした。


表向きは気風もよく、面倒見のいい兄貴分のように振る舞うため、若い労働者たちには慕われている。

しかし、裏には影がつきまとっていた。

そして仕事を離れれば、影は顔を覗かせる。

物陰で女と情事に耽る姿を目にしたことも、一度や二度ではない。

さらに噂では、彼に関わったせいで鉱山を後にした娘が何人もいるという。

一見すれば陽気で頼れる男だが、笑顔の底にはどこか薄暗いものが潜んでいた。


ラミエルは影に気付いているからこそ、不快感が拭えない。

とりわけ、その視線がルゥへと向けられるとき、嫌悪が牙を剥く。

しかし当の本人は、そのような気配に気づいていない。

笑顔を奪おうとしている影がすぐ背後に忍び寄っていることも知らず、無邪気に微笑みを返してしまうのだ。


どうしたものか。

睨み一つで追い払えるうちはいい。

だが、それで済まなくなった時にどう立ち回るべきかと、彼は頭を抱えていた。


そして、気がかりなことに──最近ではルゥの口から、マルクの名を耳にすることが増えていた。

重い桶を運んでもらったとか、破れた網を直してもらったとか。

小さな出来事を無邪気な調子で語り、感謝の色を隠さない。

もちろん、そのどこにも責め立てる理由はないのだ。

炊き場の女たちのあいだでもマルクの評判は悪くないようで、気さくで頼りになる男として受け止められている。

だから努めてラミエルも、気に留めないようにしていた。

それでも同じ名を繰り返し耳にするたび、胸の奥に小さな棘のようなものが残る。


そのうえ、彼女の周囲をうろついているのはマルクだけではなかった。


「小鳥、可愛くていい子だよな」

「隙あらばついばみてえって奴が、多いんだとよ」

「ボルフやエッカートまで目をつけてるらしいぜ」


笑い半分に囁かれる言葉でも、内心は穏やかでいられない。

他人の手が彼女に触れている──それを笑って受け流せるほど、彼は寛容な性質ではなかった。


実際、目にしたこともある。

洗鉱場の隅、ルゥの肩に置かれた男の手。

冗談めかしてすぐに離したものの、その指先はほんの一拍、長く彼女の肌に留まっていた。

礼を装いながら欲望の色を隠そうともしない仕草に、彼の表情は固まる。


そんな光景を幾度も見せつけられた末に、とうとうラミエルは彼女に告げた。


「思ったことを言葉にするのが苦手なのは分かっている。

けれど、意に反することを強いられたり、無遠慮に触れられたりしたら、はっきり“やめろ”と言うんだ。

君は黙って耐える癖がある。黙れば人は勘違いして、増長するだけだ。」


数日後、ルゥは口を濁しながら「手伝いは大丈夫だと断りました」と報告してきた。

そのときの表情は、少し怯えの色を含んでいた。

マルクは笑顔のまま引き下がったらしいが、どうにも様子が違っていたと彼女は言う。

ラミエルは短く頷き、「自分がいない時はひとりになるな」と注意を促した。


良からぬことにならなければいい。

勘が警鐘を鳴らしていたが、ずっと傍にいてやれるわけでもない。

結局、彼女に注意を重ねることしかできず、不安が残った。

しかし、それから幾日も経たないうちに、危惧は現実のものとなる。


休憩の合図が鳴り、炊き場へ戻ったときのことだ。

ちょうど水桶を運んでいた女が、ラミエルに気づいて声をかけてきた。


「あら、あんた。もう平気なのかい?」


「何がだ。」


「腕を怪我したんだろう?さっき呼んでたじゃないか。嫁さんが慌てて出ていったよ。」


「……怪我、だと?」


問い返すと、女は怪訝そうに首を傾げる。


「搬出班のゴルトがそう言ってたんだよ。あんたが呼んでるって。」


ラミエルの顔から血の気が引いていった。

怪我などしていない。

誰かが、自分の名を騙って彼女を呼び出した。

それを瞬時に理解した。


「どこだ、ルゥ……!ルナリア!!」


声が作業場に響く。

捨てた名前を呼んでしまったことに気付く余裕もない。

頭の中は、彼女を見失った焦りでいっぱいだった。


そのとき、脇で鉱石を運んでいた男が声をかけてくる。


「小鳥ちゃんなら……さっき、資材置き場の方に行くのを見たぜ。」


ラミエルは、返事もそこそこに駆け出した。

靴裏が石を蹴り、煤けた風景が一気に後ろへ流れていく。

彼の異様な様子に坑夫たちの視線が集まったが、構っている暇などなかった。

ただひたすら前を見据えて、力の限り走る。


そうして資材置き場に飛び込んだ瞬間、理性が弾け飛んだ。


木箱の陰で、ルゥは地面に押し倒されている。

口を塞がれ、必死で身を捩っていた。

手首を押さえつけているのはマルク。

上からのしかかる体重に、細い肩が押し潰されていた。

傍には同じ班の男たちが二人、彼女の声を封じながら薄笑いを浮かべている。


──思考が途切れ、怒りが視界を染め上げた。


「殺してやる!!」


咆哮とともに踏み込み、一人の顔面に拳を叩き込む。

骨が砕ける音と同時に男の体が吹き飛び、背後にあった木箱ごと崩れ落ちた。

もう一人が慌てて手近の角材を振り上げるが、その腕を掴んで無理矢理奪い取る。

そして喉元へと横薙ぎに叩きつけて、呻き声ごと黙らせた。

血を吐いて地面に転がる男を一瞥。

そして次の瞬間には、マルクの頭を鷲掴みにしていた。


「貴様……よくも。」


「すまねえ。た、助けてくれ……」


「助けて、か。

ルナリアも、そう言ったことだろう。三人掛かりで、よってたかって……この屑どもが…………」


言葉はそこで途切れた。

怒りが牙を剥き、顔を打ち据える。

鼻が潰れて、血と唾が飛び散った。

もがくたびに打撃は増し、拳は重く沈む。


一人が這うように逃げ去ったところで、彼はようやく止まった。


資材置き場は見る影もない。

木箱は崩れ、角材や鉄具が無秩序に散乱している。

煤けた空気には血の臭気が混ざり、重く淀んでいた。

その真ん中で、マルクともう一人は打ち捨てられた肉人形のように転がっている。


ラミエルは荒く息を吐きながらルゥを抱き起こし、震える身体を外套で覆った。

しがみつく腕が異様なほどに強い。

彼女の恐怖が痛いほど伝わってきて、胸の奥を軋ませた。


「……すまぬ、ルナリア。」


「シアトリヒ……様……」


「怖かったな、遅くなってすまぬ……」


しばしの間、ふたりは皇子と女官に戻っていた。

しかし周りを気にしている余裕などなく、互いに捨てた名前を呼び合う。


小さな肩が嗚咽に震え、外套越しに頼りない体温が伝わってきた。

彼は静かに目を閉じ、その重さを受け止める。

自分が許せなかった。

この掃き溜めに、彼女を連れてきてしまったことを強く悔いていた。


──これ以上、ここに彼女を留め置くわけにはいかない。


決意は一瞬で胸に刻まれる。

顔を上げ、決然とした声で告げた。


「すぐに荷をまとめるぞ。」


ルゥは頬を濡らしたまま、呆然とラミエルを見上げる。


「ど……どこへ?」


「どこでもいい。もうこんなところにはいられぬ。」


考える間もなく小屋に戻り、急いで荷をまとめた。

といっても、持ち物は乏しい。

ほころびの多い数枚の衣服、粗末な食料袋、そして半年働きづめで得たわずかな賃金を懐に忍ばせるのみだった。

来たときと同じく粗布のローブを羽織り、荷を詰めた背嚢を肩に背負う。

そして鉱山の出口へと向かった。


騒ぎを聞きつけた坑夫たちが、広場に群れて集まっている。

煤に汚れた顔を突き合わせ、何事かと口々に話しながら道を塞いでいた。

それでもラミエルは怯むことなく、まっすぐ前を見据える。


「世話になった。」


短い言葉で、場が一瞬にして静まり返った。

ざわめきは波のように引き、道が左右に割れてゆく。

ラミエルはルゥを伴い、その裂け目を堂々と歩み抜けた。


かつて皇子と呼ばれた者の矜持が、歩みには確かに宿っている。

誰も声を掛けることができず、ただ彼らを見送るしかない。

無言のままに示された皇族の威厳が、そこにいた全ての者を沈黙させていた。

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