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三年目。
この頃になると、書き手はわずかに筆を崩し、時折冗談を交えるようにもなった。
「焚火から離れられずにいて、揶揄われました。これでは軍人としての威厳も形無しです。」
「修練場で派手に転んでしまいました。誰にも見られていないと思ったのですが、無駄な望みだったようです。」
「いつもは口数が少なく厳格な人間が、緩んだ顔で干菓子を摘んでいました。
こちらに気づくと途端に怖い顔に戻りましたが、その指先に残った粉が可笑しくて……笑いを堪えるのが大変でした。」
ふっと声が漏れ、笑みがこぼれてしまう。
書き手の人となりが愛おしく思えるような筆致のあたたかさ。
そんな手紙が、幾度も届いた。
またある時は、こんな内容の手紙も。
「人はどんなものに心を慰められるのか、不思議に思います。
わたしにとっては、雪の朝の静けさがそうでした。
子どもの頃、目を覚ますと庭一面が白に覆われていたことがあります。
まだ誰も足を踏み入れていない雪は、音という音を呑み込み、息遣いだけを世界に残す。
その中で立ち尽くしていると、孤独でさえ温もりのように思えるのです。
そして、最初の一歩を踏み出すときの楽しみ。
白一面の世界に、自分だけの足跡が伸びていくのを見るのが、なぜだか誇らしくて──
あの感覚はいまだに忘れられません。
今でも雪が降ると、あの雪の日の朝を思い出します。
あなたには、そうしたひとときがありますか。」
ルナリアは、返事にこう記した。
「わたしは、庭に咲く白い花の香りです。
それに触れると、幼い日の母の声を思い出します。
花そのものはその季節でしか見ることができませんが、香りの記憶だけは消えることなく、いつまでも残っています。」
数日後に届いた手紙は、温かい言葉で満ちていた。
「白い花の香りを、わたしも一度感じてみたいものです。
記憶を運ぶのは不思議ですね。
それがなければ今の自分はなかったのだと思うと、花の香りや雪の感触でさえ、人生の一部になるのです。」
目を通したルナリアは、しばし瞬きを忘れてしまう。
胸の奥に、じんわりと温もりが広がっていた。
誰にも語らなかった小さな思い出を、丁寧に受け止めてくれる人がいる──
そのことが、切なさを帯びた甘やかさとなって胸を満たす。
言葉はただ紙に記されているだけなのに、まるで心の深みに手を差し入れられたかのようだった。
息を呑むと、頬に静かな熱が差す。
胸の奥で、名前を持たぬ芽がそっと顔を出していた。
恋と呼ぶにはなお淡い──それでも、燃え始めた小さな火。
手紙を重ねるごとに、その火は静かに広がっていった。
やり取りはますます親密さを帯び、互いの言葉が重なるたびに、胸の奥に新しい響きが刻まれてゆく。
そうして外気に春の香りが混じる頃、ルナリアはもう自分が手紙の向こうのその人に惹かれているのを疑えなくなっていた。
不思議なことに、相手の筆致にも同じような熱量が宿っているのを感じるようにも。
「この頃、想像してしまうのです。
あなたはどんなことで喜び、どんな顔で笑っておられるのか。
思えばこうして筆を交わした年月の中で、お会いしたいと願わなかった日はなかったかもしれません。」
色を帯びた手紙に少し戸惑ったが、反面嬉しいと思う自分も感じていた。
胸の奥に熱が広がり、筆を持つ指先が震えてしまう。
それでも逃げずに、その思いを正面から受け止め、静かに筆を執った。
「わたしも……少しだけ、想像してしまうのです。
もし本当にお目にかかれたら──でもわたしなんかを見たら、がっかりなさるかもしれません。」
花の蕾が綻び始めた頃。
詩集に挟まれた紙には、はっきりと記されていた。
「あなたにお目にかかれたらと、そう思っています。
この先どれほど日々を重ねても、わたしはきっと同じことを願い続けるでしょう。」
会いたい。
一瞬、読み間違えたのかと思ったルナリア。
けれど何度読み返しても、そう記されている。
胸が早鐘を打ち、紙を握る手が震えた。
どうしよう。
息を整えようとしても、ドキドキが止まらない。
だが同じ夜、帳簿室で古い戸籍簿を束ねながら思い返していると、胸の内に重たいものが沈んでくる。
あの反乱でどれだけの名が塗り潰され、いくつの家が絶えたのか。
帝に刃を向けた者たちの中に、彼女の家も並んでいた。
名を奪われ、屋敷を追われ──本来なら一族と共にこの世を去っていたはずだった。
なのに、どういうわけか自分だけが残ったのだ。
ぽろりと取りこぼされてしまったもののように。
それが時に、ひどく後ろ暗く感じられた。
灯下で手紙を広げる。
文字はいつも通り、静かな呼吸のように綴られていた。
けれど、その行間には、普段よりも熱い言葉が並んでいる。
「どんなひとでも、失望などしないと思います。
人は姿や境遇ではなく、その人そのものに価値があるのだと、私は信じています。
たとえ過去にどんな影があろうとも、いま生きてここに在るというだけで、十分に尊い。
思い悩まないでください。
あなたがどんな姿であっても、わたしはそのままのあなたを、まっすぐに受け止めます。」
この人はどんな声で笑い、どんなふうに困るのだろう。
会ってみたい。
だけど、その資格が自分にあるのか。
彼は「そのままのあなたを」と言ってくれるが、予想の上をゆくほどの事情──罪人の娘であるという烙印を、自分は抱えている。
会ったところで、何が変わるというのか。
本当のことを語れぬ以上、会わずにいるべきなのだ。
逡巡を抱えたまま、眠ることもできずに夜は更けていった。
しかし書き手はやはり、背を押してくれる。
「もしよろしければ、三日後の夜、西の宮殿の回廊へいらしてください。
時々そこでぼんやりとしています。」
結局その日も深く迷ったまま。
それでも諦められず、真夜中になって足を運んでみた。
こんな時間だ。
普通なら誰もいるはずがない。
そう思っていたのに。
月光に照らされた石畳の先には、人影があった。
目を凝らすと、その輪郭がゆっくりと形を結ぶ。
長い黒髪の男性が回廊脇の石造りの階段に腰掛け、静かに空を仰いでいた。
ルナリアの気配に気づくと視線をこちらに振り向け、少しだけ驚いた顔を見せる。
「どうされました?」
穏やかな声だった。
驚くほどやわらかく、品の良さを感じさせる。
横に流した黒髪は、夜に沈むような印象を与えていた。
月光を受けて肩先でわずかに揺れ、顔の輪郭を優美に縁取っている。
瞳は夜空を映したような深い藍。
ふとした拍子に光を拾うと、そこに星が浮かんでいるようにも見えた。
それがあまりに静謐で、美しくて。
このまま引き寄せられてしまいそうになるのが怖くなる。
しなやかな体躯はどこか艶を帯びていて、ただそこに腰掛けているだけなのにまるで人を誘うような気配があった。
纏った空気が胸の奥に小さく疼くものを残していくようで、ひどく落ち着かない気持ちが訪れる。
それでも、その姿にはどこかもの悲しげな影が落ちていて、それが胸を静かに締め付けてきた。
胸が詰まりそうになり、思わず手を当てる。
あまりに整ったひと──とびきりの美丈夫で、眩暈を覚えていた。
「空気が澄んでいるので、今日は月が綺麗に見えますよ。」
逡巡を表に出せば、彼は笑いながら言葉を続ける。
「……ああ、わたしですか? 待ち人をしているんです。」
じゃあ、やっぱりこの人が。
手紙をくれていた、あの。
「は、はじ、はじ、めまして…………」
胸が忙しなく脈を打った。
声が震え、視線が揺れる。
それでも彼は優しく見つめ返してきた。
「そう、あなたがお手紙をくださっていた………」
願いを強く押し出すような声音ではない。
ただ、思いがけずこの場で出会えたことを静かに祝福するような、淡い喜びが滲んでいた。
来なければそれも運命、けれど来てくれたなら、この瞬間を宝物にしよう──そんな穏やかさ。
そこには、手紙と同じ空気が流れていた。
それが謎めいた男、ラミエル・ウィスタリアとの邂逅だった。




