4-1
人に名を尋ねられれば、
彼は「ラム」
彼女は「ルゥ」とだけ名乗った。
農道を辿って幾つもの峠を越えた先。
馬車が辿り着いたのは、鉄と煤の匂いが風に混じる寂れた鉱山の集落だった。
ここに集うのは、行き場をなくした者ばかり。
徴兵から逃れた若者。
役人の目を恐れて潜り込んだ者。
名も素性も明かさぬ流れ者。
何のためにここにいるのか分からない、病み衰えて酒で日銭を潰すだけの影のような者もいる。
まさに掃き溜めと表現するのがふさわしい場所だった。
昼も夜も、坑口には黒煙が立ちこめ、罵声が風に散った。
宿舎は、斜面に張りつくように立ち並んだ粗末な板小屋。
雨が降れば土道はすぐに泥へと変わり、小屋の中は湿気と煤でむせ返る。
薄い寝具を並べて十人近くが身を寄せ合い、夜ごと咳やいびき、呻き声に眠りを裂かれるのが常だった。
ヴァルツェンと、この鉱山の関わりは分からない。
だが、彼の紹介というだけで二人は追い払われることなく受け入れられた。
そして、少しだけ広い部屋の隅を譲られる。
もっとも、それは優遇というより「どうせすぐ潰れる」という無言の合図にほかならない。
シアトリヒ──いや、ラミエルは早々に坑夫の列に加えられ、ルゥもまた湯気の立ちこめる炊き場や冷水の流れる洗鉱場へと追われる。
こうしてふたりは、鉄鉱山の底に身を潜める日々を始めた。
鉱山の朝は早い。
まだ空が白む前から、角笛のような合図が鳴り響く。
坑夫たちは寝ぼけ眼のまま、煤と汗の染みついた上着を肩に引っ掛け、小屋を這い出していく。
そして手に手に粗末な灯を掲げ、罵声を飛ばしながら坑口へ向かうのだ。
ラミエルも外套を羽織り、薄闇の中でその背中に続いた。
ここにきて、早二ヶ月。
どこでも生きていけるとヴァルツェンには言ったものの、彼の言葉どおり、仕事の苛酷さは半端ではなかった。
朝から晩まで延々と繰り返される掘削作業。
一日の労働は十時間、時に十二時間にも及ぶ。
坑道内は夏も冬も関係なく冷え、空気はよどみ、息を吸うだけで肺が重くなる。
さらには喧嘩が絶えず、誰かが罵声を上げ、毎日のように殴り合いが起きた。
仕事の外も、また惨憺たる有様である。
休みは指で数えるほどしかなく、食事もきわめて粗末。
配給の時間に遅れれば、口にするものさえない。
洗濯は井戸の冷水で叩き洗い、身体を流すときもその水だけ。
しかも毎日使えるわけではない。
寝床も憚りも共用。
何もかもが、皇宮で過ごした日々とは正反対のものだった。
最初のうちは、さすがに「えらいところへ来てしまった」と思った。
だが、人間というのは恐ろしいものだ。
環境に身を置けば、やがて慣れてゆく。
そして慣れてしまえば、この掃き溜めの暮らしすら、そう悲観するほどのものでもないと思えてくるのだ。
「おい、お嬢!」
煤けた顔の坑夫たちが、にやにやと笑っている。
女みたいな顔をしている──そう茶化して呼ぶそのあだ名は、いつしか名前の代わりになっていた。
「おう、昨日は嫁と一発ぶちかましたか?」
野次が帯のように広がる。
ラミエルは肩越しにちらりと顔を向け、ツルハシをひと押ししてから答えた。
「ほっとけ、はっ倒すぞ。」
「今朝は嫌に機嫌がわりいな。さては嫁に袖にされたか。」
「ばあか、もっともっとって強請られたんだろ。だから寝不足で不機嫌なのさ。」
「お盛んだな。」
「今度オメェの嫁、貸してくんない?ちっこくて弱っちいところがたまらんぜ。」
下卑た笑い声を聞き流しながら、ラミエルは鼻で笑ってやった。
「アホか。あいつがお前らなんぞに、目をくれるわけがねえだろ。」
こうした下品なやり取りは軍隊でも日常茶飯事だったため、それなりに免疫が付いている。
軍人になりたての頃は、兵舎に放り込まれて雑多な兵卒と肩を並べて訓練を受けていた。
指揮官となってからも垣根を超えて兵たちと罵り合うのは珍しくなく、さらに戦場では誰が将軍で誰が兵卒かなど言っていられない場面も多かった。
その延長と思えば、大概のことは何を言われても平気である。
お嬢と呼ばれて揶揄われようが、棘を立てる気にもならない。
──だが。
「昨日よ、発破班のマルクがオメェの嫁にちょっかい出してたぜ。
奴ぁ、白くて華奢な女に目がねえんだ。いい目の保養になるってさ。
ありゃあ、絶対本気で狙ってるな。」
耳に入った瞬間、ラミエルの足は止まった。
背後でまた笑い声が弾む。
自分のことは、何を言われようがどうでもいい。
しかし、それだけは聞き流すことができなかった。
ルゥに直接劣情を向けられる──そのことだけは、どうしても我慢ならない。
「……ちょっかいね。」
笑っていたが、その目は氷の刃のように冷たく光っていた。
その夜。
小屋の同宿たちが眠りに落ちた後、ラミエルとルゥは静かに抜け出す。
向かったのは、鉱石を選り分けた残骸や錆びた工具が積み上げられたガラクタ置き場。
この鉱山に於いて、唯一ふたりきりになれる場所だった。
冷え込みは一段と厳しくなり、吐く息が白く漂う。
晩秋の夜気に肩を竦めながら、彼は外套を広げてルゥを腕の中に抱き寄せた。
身を寄せ合い、互いに体温を分け合う。
「今日はどうだった?」
「洗鉱場の水が、もう冷たくて……ラムは?」
「俺の方も相変わらず。掘って、担いで、殴り合いだった。」
「み、皆さん、血の気が多いですね。殴られたりはしていませんか?」
「意外と上手くやっているから大丈夫だよ。それよりもルゥ……手を出してみて。」
ルゥは少しためらいながらも、両手を差し出した。
指の節は赤く裂け、ひび割れの隙間にはうっすらと血が浮いている。
「昨日よりひどくなってる。」
「このくらいは大丈夫です。」
「軽く見たら駄目だよ。明日、膏薬を手に入れてくるから。」
「た、高いし、いいです。勿体ないわ。」
「勿体なくなんかない。傷が膿んだら、もっと大変だ。」
そう言って彼女の小さな手を包み込み、自分の頬にあかぎれだらけの手を当てた。
「君は、いつも我慢ばかりだね。」
「だ、だって。お給金が……」
「必要なものにお金を惜しんではいけないよ。」
ルゥは伏し目がちに、ぽつりと零す。
「ラムの上着を買いたかったのに……」
ラミエルは自分の肩を見下ろした。
着込んだ上着は煤で黒ずみ、ところどころに色の違う継ぎが当てられている。
「まだ使えるさ。当分先でいい。」
「でも…… 継ぎだらけになっちゃう。」
「そんなの、みんな同じだ。誰も気にしやしないよ。」
気持ちはありがたい。
だが彼にとっては自分の上着よりも、彼女の荒れた手の方がずっと気がかりだった。
「他に必要なものはある?一緒に手に入れてくるけど。」
「……膏薬だけで十分です。」
「分かった。じゃあ何か甘いものでも探してくる。
こんな何もないところにいるんだ。ささやかだけど、そのくらいの楽しみはないとね。」
「だめです、わたしばっかり。ここに来てからラムは自分のものをほとんど買ってないじゃないですか。」
「君を甘やかすことに使ってるだろ。」
「で、でも……本当に甘いものは大丈夫なんです。」
そう言いながらルゥは、外套のポケットを探った。
小さな包みを取り出して、恥ずかしそうに差し出してくる。
「実は、もらったんです。ラムと一緒に食べようと思って、持ってきちゃいました。」
包みを開くと、中から固焼きのビスケットが顔を出した。
この煤けた場所には似つかわしくない、ほのかな甘い香りが漂う。
「これ……誰から?」
ラミエルは、思わず眉を顰めてしまった。
「親切な方がくださったんです。たくさんあるからよかったらどうぞ、って。」
「名前は?」
「たしか……マルクさん、って。」
胸に冷たいものが走る。
今朝、耳にしたばかりだった──発破班のマルク。
「へえ、随分と気前がいいね。」
笑顔を繕いながらも、ざらついた気分になった。
「ときどき仕事を手伝ってくださったりもしますし…親切な人なんです。」
ルゥは無邪気に言い添える。
警戒の色はどこにもない。
一呼吸置いてから、ラミエルは穏やかな声で諭した。
「ねえ、ルゥ。ありがたいことだけれど、次は理由なく貰ったりしてはいけないよ。
この場所にはいろんな人間がいる。もし見返りに何かを求められたりしたら、大変だ。
いい人そうに見えても、腹の中では何を考えているのか分からないこともある。」
「……そうですね。」
彼女は少し俯く。
「心配だよ、君はお人好しだから。騙されるのは、俺だけにしてくれ。」
「そういえば、なんとかっていう名前の皇子様がいましたね。」
「そう。騙されるのは、そのなんとかっていう名前の皇子で懲りているはずだから。」
小さな笑い声が、冷えた空気の中で膨らんだ。
ラミエルは彼女の髪を撫で、そっと口付ける。
「まったく、この小鳥は危なっかしくて俺を心配させてばかりだよ。」
ルゥはラミエルの袖を握りしめ、小さな声で尋ねてきた。
「……怒った?」
「いいや、怒ってなんかないよ。ただ、心配しただけ。」
外套の縁に顔を埋め、互いの温もりを確かめるように寄り添う。
灯火も風も遠のき、世界が静寂の色に沈んだ。
鉱山の夜は冷たく、遠くで風が木箱を揺らす音が断続的に響く。
けれども今は、ふたりだけの小さな暖かさがあった。
──夜はそうして静かに過ぎてゆく。
明くる日も、ラミエルは角笛の合図が鳴り響くと同時に坑口へ向かった。
そしていつものように、掘って、担いでの繰り返し。
だが、しばらくすると坑内に慌ただしい空気が漂い始めた。
何事かと思い覗いてみると、発破班の作業場が騒然としている。
発破をかけるかどうかで揉めているらしい。
「落盤」──そんな声が耳に届き、ラミエルは足を止めた。
「神経質な奴だな。」
「でも……音が──」
「黙って火を入れろ、ヒヨッコが。ぐずぐずしてると日が暮れちまうぞ。」
狭い坑道には怒鳴り声が響いている。
彼は近づくと、言い争っている坑夫たちの脇に立った。
「なんだ、オメェは?」
「親方、ひとまず若いのの話を聞いてやれ。」
「なんだと?」
訝しげな視線を向けられながらも、彼は岩肌の一部を指し示す。
「よく見てくれ。これは落盤の兆候じゃないのか。」
灯火に照らされた壁面から、水がじわじわと染み出していた。
煤にまみれた坑夫が鼻で笑う。
「こんなのはよくあることなんだよ。いいからとっとと──」
その声を、ラミエルが叩き切った。
「静かにしろ!」
耳を澄ませば、岩盤や支柱が軋む不吉な音が坑道を伝っていた。
次の瞬間、岩片が崩れ落ち、砂塵が一帯を覆う。
「下がれっ!」
誰かが叫ぶ。
支柱が悲鳴のような音を立て、さらに上方から岩が崩れ落ちてきた。
作業どころではない。
坑道はあっという間に混乱の渦に呑まれる。
「こんな場所に火を仕掛けるつもりだったのか。」
ラミエルは砂塵の向こうを睨み据え、冷たい声で言い放った。
しん、と場が固まる。
灯火に揺らめく岩肌から、さらさらと砂が落ち続けていた。
「まずは支柱を固めろ。発破はその後だ。」
「新入りのくせに、勝手に決めるな!」
罵声が飛ぶ。
だがラミエルは一歩前へ出て、相手を射抜くように見据えた。
「死にたいのか?今、火を入れれば、ここ一帯が落盤で埋まるぞ。」
言葉には、幾度も死地をくぐり抜けた者の確信がある。
煤にまみれた顔々が互いに視線を交わし、ためらいながらも道具を下ろした。
「そこだ、梁を寄せろ。」
砂塵がおさまると、材木が運び込まれてくる。
支柱を立てる場所を指示するラミエルに従うように皆が動き、木槌の音が坑道に響いた。
先ほどまで反発していた者も加わり、崩れかけた壁を支えている。
彼自身も袖をまくり、両腕で梁を押さえた。
「新入り。オメェ、よく分かったな。」
「地下水ってやつは、高い圧力で閉じ込められていることがある。
掘削で抜けば、その圧力が一気に解放される。
水と一緒に岩が崩れ出せば、壁が緩んで自重に耐えられなくなり、潰れるんだ。」
「やけに詳しいじゃねえか。」
「まあ、そんな仕事をすることが多かったとだけ言っておくよ。」
感心と疑念の入り混じった視線が集まり、煤にまみれた面々がラミエルを一様に見つめていた。
しかしそれらに思うことはことなく、彼はいつものように淡々としている。
そんな様子を、少し離れた場所で黙って見ている男がいた。
作業班を束ねる男である。
彼は腕を組んだまま、ラミエルをじっと観察していた。
翌朝。
角笛の合図が鳴り響くと同時に坑口へ向かうと、背後から荒っぽい声が飛んでくる。
「新入り。オメェは今日から発破班だ。」
発破班は、坑夫の中でも実入りがいい。
それだけ危険ということだが、旅の資金を貯めるには都合がよかった。
何より、膏薬ひとつで恐縮してしまうルゥに、無理をさせずに済む。
ラミエルは、二つ返事で発破班に加わることになった。
加わるとすぐに、班頭に連れられて他の坑夫たちと並ぶ。
まずは岩盤に穴を穿つ作業からだ。
鉄の棒を打ち込み、槌で叩いては回す──気の遠くなるような単純作業。
一打ちごとに火花が散り、腕の奥にずしりと響く衝撃は、ただの力仕事では済まされない緊張を伴っていた。
「次は装薬だ。」
穴に紙で巻いた火薬が押し込まれ、粘土で口が詰められていく。
見ていると、慣れた者でも手元が雑になる瞬間があった。
粘土の隙間から火薬が覗けば、爆風は外へ逃げ、逆流して人を焼く。
ラミエルは手を伸ばして、粘土をしっかりと押し固めた。
「おう、やけに張り切ってんな。」
「阿呆、丸焦げになりたくなかったら手間を惜しむな。」
仕込まれた導火線に火が点けられると、坑道の空気が緊張に包まれる。
暗がりを走って退避。
しばらくののち、轟音が響いた。
坑道が震え、支柱が悲鳴を上げる。
砂塵が渦巻き、黒い煙が肺に突き刺さるように入り込んできた。
「よし、片付けろ!」
叫び声を合図に、岩を砕いて積み出す作業が始まる。
爆破の熱気がまだ残る坑道の中、煤にまみれた男たちが動き回った。
その中で、ラミエルは崩れた岩の一角を指差す。
「支えが甘い。梁を一本回せ。」
短く告げる声に、誰も逆らえなかった。
その判断が正しいと分かっていたからだ。
こうして彼の発破班での最初の日は、煤と粉塵に塗れて終わった。
終業の合図が鳴るころには、誰もが彼を新入りとは見なくなっていた。
久しぶりに充足感を覚えていた。
しかし身体は鉛のように重い。
軍人は体力が資本ゆえ多少の自負があったが、発破という一瞬の判断を誤れば命取りになる仕事は、肉体以上に神経をすり減らす。
疲労が全身にのしかかっていた。
ラミエルは重い足を引きずり、ルゥと並んで食堂へ向かう。
食堂は相変わらずの荒れ模様だ。
「もっとよそえ」「こいつの方が多い」と怒号が飛び交い、あちこちで手が伸び、時には拳が振るわれる。
食うか食われるか、生き延びるための奪い合いが日常の風景になっていた。
配られる食事もまた、悲しいほどにみすぼらしい。
歯を立てるたび顎が痛むほど固い黒パン、腹には溜まるが味気ない雑穀の粥、具らしい具のない薄いスープ。
副食といえば塩気の強い豆の煮込みくらい。
ごく稀に肉の切れ端などが出れば、それだけで祭り騒ぎになる。
それでも、食えるだけでまだましだと二人は黙々と口に運んだ。
飢えを知る者は、こういうときに余計な言葉を吐いたりはしない。
黙って噛みしめ、腹を満たせることそのものを受け入れるのだ。
だが、発破班に加わったことで一つだけ変わったことがあった。
配給が、わずかに増えたのである。
どうやら危険作業のための優遇ということらしかった。
まあ、確かにこんな待遇でもなければ志願する者などいない仕事内容だ。
とはいえ、くれるものは素直に受け取ればいい。
なにより、ルゥに少しでも栄養を与えられるのは有難いことだった。
初日から塩漬け肉の切れ端にありつけた。
ここではこれまで、ほとんど回ってこなかった肉である。
ラミエルはそれをすくい取ると、迷わずルゥの碗に移した。
味気ない雑穀の粥に浮かべてやると、彼女は目を丸くして顔を上げる。
「ラム……?」
浮かんだ肉片を見つめる瞳に、驚きの色が差していた。
「いいからお食べ。」
「で、でも……」
ルゥは文句を言うことなく粥を口にしているが、どうにも苦手なようで喉を詰まらせながら無理に流し込んでいるのは知っている。
少しでも食べやすくなればいい。
ラミエルはそれを見るのが辛かったのだ。
「ありがと……」
「ちびっこよ、大きくおなり。」
「せ、成長期はとっくの前に終わってますけど。」
「おや、そうだったっけ。」
むくれ顔になるルゥ。
ラミエルは、そんな彼女が可愛くてたまらない。
けれど同時に、腹いっぱい食べさせてやれない現実が胸に刺さる。
ルゥは、こんな切れ端一つで目を輝かせている。
もっと上手く立ち回れていれば、こんな苦労をさせることもなかっただろう。
果たして、こんな場所へ連れてきたことは正しかったのか。
その問いは、いつも心の中で繰り返されていた。
皇族の妃のような贅沢な暮らしは無理でも、せめて衣服や食べ物に困ることなく、ときどきはささやかな楽しみが許される──そんな程度の生活くらいは与えてやりたかった。
申し訳ない。
その思いがあるからこそ、彼はいつだって自分を後回しにしてでも、ルゥを優先させたいと思っていた。
それからも、増えた配給分はすべて彼女に回した。
外套が擦り切れても、先に彼女の肩掛けを手に入れる。
自分は穴の空いた靴下を使っても、彼女には新しいものを探し与えた。
何もかもにおいてラミエルはルゥを先に考え、己よりも大切にした。
かつて「皇子」と呼ばれていた男が、いまや煤にまみれ、ボロを纏い、ただ一人の女を生かすためだけに日々を削っている。
落差はあまりに大きかったが──彼にとっては、失った誇りよりも守るべき存在の方が重かった。
そしてまた、少しの時間が過ぎてゆく。




