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3-22

──時間は少し遡る。


馬の蹄が荒く地を叩いていた。

遠ざかってゆく帝都の風景が、靄の向こうへ消えていく。


ヴァルツェンは、幌馬車の荷室の隙間から外を覗いて呟いた。


「帝都は抜けたようだ。」


安堵が混じった声。

それに自分でも気づいたのか苛立たしげに唇を歪め、視線を戻す。

荷室の奥では、シアトリヒがルナリアを抱き寄せていた。

投獄に脱獄という極限の状況を強いられていた彼女の恐怖は、まだ拭えていない。


「まだ気づかれてはいないと思いますが、じきに国中に檄が回るでしょうな。」


「検問が始まる前に、帝都を抜けられてよかった。」


「ですが、まだ油断はできない。

外縁の街道にも哨戒が出ている。引っ掛かると面倒なことになります。」


脱出路の道筋は、エルハルトがあらかじめ整えていたものだった。

検問や哨戒が展開されるであろう要所を正確に読み切り、馬車を安全な迂回路へと導いている。

まるで、目に見えぬ護りがこの馬車を包んでいるかのようだった。

ヴァルツェンは思うところがあるのか、鼻を鳴らす。


「殿下の犬どもは抜け目がない。気味が悪いくらい周到ですな。」


御者台から、澄ました声が返ってきた。


「昨日今日だけの準備ではありません。

エルハルト卿は、ずっとこうした局面に備えておられました。」


「初耳だ、俺は聞いていない。」


「そりゃあ、殿下の耳に入れば無駄なことはするなと一蹴されますから。

ですが卿は、主君のもしもの時をいつも考えていましたよ。

内々に志願を募り、想定訓練までしていました。」


「野良犬じゃなくて、まるで忠犬だな。気持ちが悪いくらい教育が行き届いてやがる。」


「──我々は、そういう方の下で育ちましたので。」


短くも、迷いのない返答だった。

ヴァルツェンはシアトリヒを一瞥する。


「なるほど。薫陶よろしきを得たというか、類は友を呼ぶというか。」


言い放ってから、同じ輪に括っていることに気づいたのか。

彼は苦々しげに顔を歪め、否定の言葉を吐き捨てた。


「おい、勘違いするなよ?俺は借りを返しているだけだ。

情に絆されてあんたと心中する気はない。まだ当分は文書局の長官と呼ばれていたいんでね。」


「分かっているさ。」


シアトリヒの答えは短い。

それがかえってヴァルツェンの癇に障った。


「嫌な奴だよ。人を道化にして楽しんでやがる。」


舌打ちまじりに吐いて、皮肉を重ねる。


「今からでも、弟に鞍替えしてやろうか。」


「あいつでは、貴様を上手く使えぬ。お互い不幸になるだけだ。」


「まるで、自分だから御し得たとでも言いたげだな。」


「違うのか?」


「大した自信家だ。そんなに自信があるなら、いっそ逃亡なんかせずに謀反でも起こせばよかったのに。」


「皇帝なんぞ、御免被る。」


「昔、皇太子だった人間がそれを言うのか?」


「今はそれよりも大事なものがある。」


そう言って、彼女の髪に指を滑らせた。

どこか得意げな仕草の前では、不遜な言葉も鳴りを潜める。


「見せつけてくれるよ。」


ヴァルツェンは呆れ混じりに溜息を吐いた。


「惚気は結構なんですがね。ここからは少し真面目な話をしましょう。」


声の調子が皮肉を含んだものから一転して硬くなる。


「帝都を抜けたからといって、この先、国境まで無事に辿り着けると思わない方がいい。

弟は、あんたに異様なほど執着している。無闇に歩き回れば、すぐ嗅ぎつけられる。」


「承知している。」


「で、この先どこへ向かうか、何かお考えでも?」


「エルハルトには西部のヴァイスラウを目指せと言われた。話をつけてあるらしい。」


「リューデン侯爵領か。それはおすすめしませんな。

侯爵本人は中立派ですが、一門すべてがそうだとは限らない。下手をすれば、あんたを売り払う輩だって出るかもしれん。」


「墨影」の網は、軍務院や宮廷の奥深くにまで張り巡らされている。

分家筋に皇太子派と昵懇な者がいるという話も、その筋からもたらされた情報のひとつだった。


「見切り発車とは、用心深い殿下にしてはずいぶん無鉄砲でしたな。」


「俺とて全てを想定できるわけではない。

今回はとにかく時間がなかった。

ルナリアがヴァルトレアに送られる前に、動くしかなかったからな。」


「出てきたはいいが、その先をどうするかまでは考えていなかったようですね。」


シアトリヒは答えず、視線を落とした。

わずかな沈黙を経て、ヴァルツェンが口を開く。


「まあ、正直に言えば全く当てがないわけでもありません。

もっとも、そこへ行くには、相応の覚悟をしていただく必要がありますが。」


「逃亡の身で贅沢など言えるはずもない。」


「それは殊勝なお心掛けです。さて、奥様はどうです?」


ルナリアに視線が注がれる。

彼女は肩を縮め、もじもじと答えた。


「わ、わたしは……働くことには慣れています。労働を求められるのは、問題ありません……」


「なるほど。最近まで女官として務めておられましたな。ならば心配はいらないと。」


ヴァルツェンは口の端を吊り上げる。


「あー、御者の君。西南のハルシュタット方面に進路を取ってもらえるか。」


「承知しました。」


馬車は軋む音を響かせながら、進路を西南へと変えた。

そうして薄闇の中をひた走ること、しばらく。

朝の光が定まりつつある頃合いで、一行はハルシュタットへ通じる街道の手前に差し掛かる。

ヴァルツェンは、馬車を森陰へと寄せるよう御者に指示を出した。


「そろそろ“面”を変えますか。お二人とも、今のままだと目立ちすぎます。」


ヴァルツェンは荷の奥を探り、包まれたままの粗末な旅装を引きずり出した。

埃を軽く払うと、無造作にシアトリヒへ放り投げる。


「あんたには似合わないでしょうが……我慢してください。」


彼は黙って受け取り、引っ掛けていた黒い外套を脱いで上から粗服を着込んだ。

上質そうな白い襯衣が覗いたが、すぐに質素な布に覆われる。

ルナリアもお仕着せの紐をほどいて、くたびれた上掛けと色褪せたスカートに袖を通した。

胸元を少し押さえて、落ち着かない様で裾を整える。


「へ、変じゃ、ないですか?」


ルナリアは気恥ずかしそうに襟元を整え、そっとシアトリヒに視線を向けた。


「大丈夫、変じゃないよ。」


シアトリヒはルナリアにだけ向けて、静かに笑う。

ヴァルツェンはそれを横目に、気味の悪いものでも見たかのように肩をすくめた。


「……ほんと人が変わるな。」


「何か言ったか?」


「いいえ、別に。」


口を濁したものの、苦笑は隠せていない。


だが二人がどれだけ粗末な衣装に身を包んでも──

銀糸のようなルナリアの髪と、深い夜を抱いたようなシアトリヒの黒髪は目を引いた。


「髪も切った方がいいですな。」


短く呟くヴァルツェン。

シアトリヒはしばらく黙していたが、短剣を抜いてルナリアの後ろへ立つ。

刃が銀の髪に置かれただけで、細い肩が小さく揺れた。

彼女はじっと前を向いていたが、しばらくしてから静かに頷く。


「本当にいいのか。」


シアトリヒの瞳が揺れた。


彼女の銀の髪は、まるで細く束ねられた月の糸のよう。

どれほどこの髪に慰められてきたか、誰よりも彼自身が知っている。

幾度となく頬を寄せ、指で梳き、唇で触れた。

荒んだ心を鎮めるように、その髪はいつでも優しく受け止めてくれた。


「髪なんか……また伸びますよ。」


朗らかに笑うルナリアは、短剣を握る彼の手を包む。

そして自ら手を導いた。


息を詰めたまま、銀の髪に刃を入れる。

柔らかな房が足元に落ちていくが、ルナリアは動かず音と感覚を受け止めていた。


「すまない。」


「謝らないでください。」


短くなった髪へ手をやる。

彼女の瞳には、一点の揺らぎもなかった。


「さあ、今度はあなたの番です。」


今度はルナリアが短剣を取り、黒髪に刃を入れた。

刃先が髪を離れるたび、束が音もなく地へ落ちてゆく。


「綺麗なのに……もったいない。」


「……」


「好きだったんです、この髪に触れるの。」


シアトリヒは目を伏せ、小さく喉を鳴らした。

朝の風が、赤く染まった耳をそっと撫でていく。


切り終えた二人は、別人のように姿を変えていた。

毛先の不揃いなざんばら頭に、くたびれた旅装をまとっている。

そこに、もはや皇子と女官の面影はない。

どこにでもいるような、平凡な夫婦にしか見えなかった。

──夫の方の所作だけが、少々上品すぎるのを除けば。


「まあ、ぱっと見は気づかれますまい。」


ヴァルツェンは冷ややかに笑って目配せをした。

それを合図に、馬車に乗っていた護衛たちが次々と降り立つ。

彼らは整列すると一斉に剣を地面に伏せ、膝をついた。


「顔を上げてくれ……もう、わたしは皇子ではない。」


制する声に、彼らは視線を上げる。

誰もが別れを惜しむ色を隠さず、まっすぐに彼を見据えていた。


「感謝する。危険を顧みず、よくここまで運んでくれた。」


「恐悦至極に存じます。」


「おそらく近日中に、皇太子から詮議の召喚があるだろう。だが、くれぐれも無理はするな。」


「恐れながら、殿下。

我らを“犬”と呼ぶのは伊達ではございません。

犬は群れを守るもの。残った者たちが不在を取り繕っておりますゆえ、ご心配には及びません。

エルハルト卿を含め、我ら全員──昨日から兵舎に詰めていることになっております。」


「そうか。」


残してゆく立場だ。

何も言うまい。

シアトリヒは言葉を飲み込み、唇を引き結ぶ。


「どうか末永くお健やかに。

シュトロイナーは、この先もシアトリヒ・ラミエル・ロエル殿下に変わらぬ忠誠を捧げることでしょう。」


「……大義であった。」


深く頷くと、護衛たちは馬車に乗り込んだ。

鼻先を返した馬車は軋む音を残して来た道を戻り、やがて朝靄の向こうへと遠ざかってゆく。


シアトリヒは気配が完全に消えるまで、黙然と視線を送り続けていた。


「さて、殿下。少し歩いた先にうちの者がいます。しばしご足労願えますか。」


是非も無いことだと、ヴァルツェンの背を追った。

やがて彼らは石造りの小屋に至り、そこからまた新たな馬車へと乗り込む。


それは今にも分解しそうなオンボロ馬車だった。

逃亡者が身を潜めるには、お誂え向きの代物である。

三人は荷台に揺られ、朝靄の残る農道をゆっくり進んでいった。

手綱を操るのは、農夫の風貌をした男。

一見すれば人畜無害にしか見えない。

しかしシアトリヒには分かっている。

瞳に宿る光は、農夫ではあり得ぬ鋭さ──修羅場を潜り抜けた者にしか持ち得ない眼差しだ。

彼は自然と背筋を伸ばしていた。


「こいつはなかなか便利でね。誰にでも化けられるし、口も堅い。」


「なるほど、俺に化けるつもりか。」


不敵に笑うヴァルツェン。


「さっき奥様の髪を拾わせてもらった。それで鬘を作り、別の者に被せて走らせよう。

あんたたちは、ひとまず労働者になって現場に潜り込んでもらうことになる。」


「現場、というのは?」


「そう。これから向かってもらうのは、ダルハルトの鉄鉱山だ。」


「鉱山……」


「そんな劣悪な環境に送られるとは思わなかっただろう?」


ヴァルツェンの唇に皮肉げな笑みが浮かぶ。


「だがこれほど“隠れ蓑”に適した場所もない。

昨日まで人に傅かれるのが常だった男が、坑道に潜り込んでいるなど、流石の皇太子殿下も夢にも思うまいよ。

まあ、無理だと思うなら他も斡旋する。」


シアトリヒは苦く笑った。


「いや、確かにうってつけの潜伏先だ。贅沢は言わないとも言ったしな。」


「言っておくが、鉱山は生半可な覚悟で務まる場所じゃない。

不潔で、危険極まりない労働環境だ。

その上、得られる労賃は雀の涙。病に倒れても誰も助けちゃくれん。

それを聞いても行く気はあるか?」


「俺をぬるま湯育ちだと思うな。

生憎、どんな場所でも生きていけるように訓練されている。」


シアトリヒの眼差しが鋭くなる。


「十年以上軍人として戦場を渡り歩いてきたが、貴様が想像もつかないような日々を送っていた。

泥濘の中だろうが血に塗れた野営地だろうが眠れるし、死臭に満ちた陣中でメシだって食える。

泥水を啜っていたこともあるし、食うや食わずで彷徨ったことも一度や二度ではない。

着替えも風呂もなく、汗と血の臭いを纏ったまま眠る夜もあった。

鉱山は違った類いの地獄かもしれんが──それでも命を脅かされる危険がないだけ、幾分易しいように思える。」


「はあ……噂には聞いてたが、実際はもっと酷い扱いだったようだな。」


「そういう場数を踏んだから、しぶとくなるしかなかったのさ。」


「なるほど。あんたなら──乞食でもそれなりにやっていけそうだ。」


シアトリヒは傍のルナリアを見やった。


「……ああ、でもルナリアはな。どうだろうか。働くといっても、皇宮とはまるで環境が違う。」


傍で口を挟まず黙っていたが、彼女は自分に話題が及ぶと、ためらいがちに口を開く。


「あ、あの……心配しないでください。

下働きをしていたことはご存知ですよね。重労働にも慣れている方だと思います。」


「貴族のお嬢さんだったのに、下働きか。」


ヴァルツェンが片眉を上げると、シアトリヒは言い添えた。


「境遇なら俺と大差ない。彼女も碌でもない環境で苦労している。」


「……ふたりとも、俺が気にかけるまでもなさそうだ。」


皮肉を残しながらも安堵したように笑い、手を打った。


「まあ鉱山は過酷な労働環境だが、永住するわけじゃない。

ほとぼりが冷めるまで身を潜めるつもりでいれば十分だろう。」


話はそれで決した。

馬車の軋む音が、朝の静けさに溶けていく。


「潜伏先が決まったところで。もうひとつ、聞いておくことがある。」


ヴァルツェンがちらりとシアトリヒへ視線を投げた。


「例の件──いつ頃がお望みです?」


「そうだな。」


シアトリヒは一拍置く。

濃藍の瞳が差し込む光を映して、どこか愉しげに光った。


「国境を越える頃がいい。大体……来年の初冬あたりか。」


「来年、ねぇ。」


ヴァルツェンは鼻で笑う。


「少なくとも一年は見ている。慌てて国境へ急げば捕まるだけだしな。

貴様もそれだけ時間があれば、準備できるだろう?」


「へえ、こちらの都合までお考えくださるとは。」


「やるからには徹底的にやるべきだと思わぬか?」


「さっさと終わらせて、あんたと縁を切りたいのが本音だよ。」


「まあ、そう言うな。これが最後の仕事だと思って、存分に励め。」


白けたような視線がシアトリヒを刺した。


「それにしても一年か。ずいぶん気の長い話だな。来年の冬まで腐らず待てと?」


「そうだ。貴様にはまだ借りを返してもらっていない。返すためなら──少しくらい堪えろ。」


「あんたって奴は、涼しい顔してろくでもないことばかり言いやがる。」


そう毒づきながらも、彼は笑っていた。


「……いいさ。しっかり花火を上げてやりますよ、殿下。」


「頼んだ。」


シアトリヒはそれだけ答え、ルナリアを腕の中に抱き寄せた。

彼女は目を瞬かせて、不安そうに尋ねてくる。


「な、何のお話でしょう?」


「秘密。」


口の端を持ち上げるシアトリヒの瞳には、得体の知れない冷たさが宿っていた。

ルナリアはそれ以上問わず、手を強く握り返す。

ヴァルツェンはふたりに視線を寄越して、嫌そうに眉を顰めた。


「まったく、純愛主義なんざ虫唾が走る。

精々彼女と仲良く暮らしてくれ。

ここまで派手に引っ掻き回したんだ、責任を持って添い遂げるんだな。」


ぶっきらぼうながらも、憂いを含んだ短い呟きだった。

嘲弄なのか、同情なのか、判じ難い。

しかし、乗り掛かった舟を途中で投げ出すことができないところは自分も彼も同類なのだと理解する。


やがて馬車は山裾の鉱山へと至り、ヴァルツェンとその下僕も去った。

残されたのはシアトリヒとルナリア、ふたりだけ。


空は茜に沈み、山裾の稜線を覆う雲が冷たい光を帯びていた。

渡り鳥の群れが遠くの空を横切ってゆく。

秋の始まりの景色は、落ちてゆく自分たちの境遇を映し出すようでもあった。

誇りも地位も剥ぎ取られ、辿り着いたのは鉱山という劣悪な隠れ家。

胸に去来するのは、痛烈な喪失の思いにほかならない。


それでも──

どんな惨めな生活が待っていようとも、皇宮に戻るよりは遥かにマシだ。

ふたりは互いに手を取り合い、最初の一歩を踏み出した。

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