3-17
独房の中は、静まり返っていた。
鉄扉の隙間から細く光が差し込んでいる。
それが部屋を照らす、唯一の灯りだった。
何も心配することはない、と。
会議へ向かう直前、そう言った。
微笑みすら浮かんでいたように思う。
その一瞬の光景が、今も胸の奥で脈を打っている。
背を見送ったすぐ後に現れたのは、腹心エルハルト卿だった。
告げられたのは、帝都を脱するための手立て。
「この数日、殿下はプレセア嬢を逃がすための備えを重ねておられました。
御母堂の縁を辿り、西部にあるセラフィナ修道院に身柄を託すというものです。
同院を統べる大修道院長は、殿下の外戚にあたる御方。
教会は、俗権すらも退かせる聖域にございます。
その庇護のもとに入れば、たとえ皇帝陛下といえども容易には手を伸ばせぬはず。
加えて、しばしの庇護を約束する密書も取りつけました。
しかるのち巡礼団に交じり、国外へと送り出す算段にございます。」
言葉を失った。
修道院。
たしかに、教会の庇護下に入れば軽々しく手出しはできないだろう。
考えられた手立てであることは理解できた。
けれど修道院という名前が示すのは、女性たちの集う聖域。
胸の奥に疑念が浮かぶ。
「……殿下は?」
卿は口を閉ざした。
その沈黙がすべてを語っている。
あの人は、帝都に留まるつもりなのだ。
すべてを背負い、断罪を受け入れる覚悟で。
「あり得ない。」
「プレセア嬢!?」
「そんなこと、出来る訳がないでしょう?」
逃げてはならない。
彼ひとりを犠牲にして自分だけが助かるなど──どうしてそんなことができようか。
「プレセア嬢。殿下の御為にも、どうか聞き入れていただけませぬか?」
「参りません。ここを動くつもりはありません。」
繰り返し説得されても、彼女は首を横に振り続けた。
そして離宮に残ることを選び、待機していたところを捕らえられたのである。
残ることを選んだがゆえの、当然の結末だった。
──後悔はない。
胸の奥には、交わした誓いの熱が今も残っている。
それが火種になって、彼女の決意を支えていた。
弱かった自分のどこに、こんな情熱が潜んでいたのか。
自分でも驚くほどだった。
けれど、これもすべて彼を想うがゆえの力なのだろう。
であればこそ、なおのこと譲れない。
だからこれでいいのだと、心は凪いでいた。
扉の向こうで控えていた看守が告げる。
「女官長が面会に来ています。」
驚く間もなく重い扉が開き、ランタンを下げた壮年の女官が入ってくる。
ゆっくりと歩み寄り、彼女はルナリアの前に立った。
表情はいつも通り硬く、何を思っているのか読み取れない。
背筋を伸ばし、顎を引いた。
どんな目的でここまで来たのかは分からないが、見苦しい姿だけは見せるまいと胸の奥で固く誓う。
「少しだけ、席を外していただけませんか?」
「申し訳ございませんが、それはできかねます。」
「御子を──彼女は、第一皇子殿下の御子を宿しているやもしれぬ身にございます。
おなごの身の上に関わる事柄ゆえ、どうかご配慮を。」
看守は一瞬何かを言いかけたが、結局は折れて口を閉ざした。
扉を閉じて、外で控える。
二人きりになった独房。
女官長と顔を突き合わせた。
仮面のような表情と思いきや、彼女は眉尻を下げる。
ルナリアは戸惑った。
厳しい言葉を覚悟していたのに、向けられたのは切迫した眼差し。
彼の処遇を伝えにきたのだと、理解した。
「謹慎を命じられました。」
覚悟していたことだった。
それでも胸の奥が冷えてゆく。
「……そうですか。」
項垂れたルナリアの肩に、女官長の手が置かれた。
続けざまに、看守の耳には届かぬ声で耳打ちをする。
「いいですか。手短に話しますから、よくお聞きなさい。伝言を預かっております。」
一語一語に力がこもっていた。
「逃げよと仰せです。エルハルト卿が手引きをするゆえ、彼に従って脱出せよ、と。」
固唾を呑む。
まさかその話を、彼女の口からも聞くことになるとは思わなかった。
「会議の前にお立ち寄りいただいたのです。
その折、あなたが卿の話を拒むようなら、わたくしが代わって説得するようにと仰せつかりました。」
ルナリアは首を横に振る。
「せっかくですが、わたくしは参りません。」
目を逸らさず、きっぱりと言い切った。
「逃げて、どうするというのですか。
仮にここからわたくしが逃げたら、あの方が代わって全てを負うことになるのでしょう?
そんなことは、絶対にあってはならない。
罪を負うのはわたくしです。
手を汚したのはあの方であっても、そうさせたのはこの身なのです。」
胸に宿した決意には、一点の曇りもなかった。
たとえ、彼の言葉であっても変わらない。
誰に何を言われても譲らないと決めたのだ。
死んでも自分は逃げたりはしない。
「わたくしのせいですか。」
自らを咎めるような言葉が落ちる。
「以前、あなたに“一人にしないで”などと余計なことを言いました。
あの言葉が、あなたを縛ってしまったのだとしたら。」
「いいえ。あのお言葉は、むしろ背中を押してくださいました。
あの時、殿下のお傍にいると決めたからこそ、今のわたくしがあります。
その選択は、決して間違いなどではありませんでした。」
言葉の底に確かな意思を宿して、否定した。
「あの方、シアトリヒ殿下は、わたくしに救いを与えてくださいました。
それは苦しかったこれまでが、すべて昇華されてしまうほどのものだったのです。
この上ない想いを掛けてくださって、わたくしははじめて心からの喜びを知ることができました。
ひとりで逃げるということは、殿下からいただいた救いを自ら手放すのと同じことなのです。」
不意に、彼の姿が脳裏に浮かぶ。
涙腺が緩んだが、泣くことはしなかった。
手のひらに爪を立て、弱気になりかけた心を叱りつける。
「それに……殿下はもう、十分に苦しまれました。
あの方の人生が極刑のような形で終わることなど、あってはなりません。
もし逃げて命を繋げたとしても、後悔に苛まれて生きるくらいならば、わたくしは殿下にすべてを捧げる道を選びます。」
女官長は何も返さず、目を閉じる。
沈黙が二人の間に落ちた。
「伝えておきたいことはありますか?」
彼女の問いかけに、ルナリアは俯く。
少しの間、胸の内で言葉を探す。
「どうか……御身を大切に、と。」
納まりきらない思いがあるのか、女官長はもう一度問いかけてきた。
「それだけでよろしいのですか?」
「はい。いつの日もお健やかに過ごしていただくことが、わたくしの最後の願いです。」
釈然としない気配が、再び表情に現れる。
「気持ちを伝えなくていいの?」
驚くほど優しい声音だった。
けれど、彼女は首を振るだけに留める。
(わたしのことなど引きずってほしくない。)
二度と会うことはないのだ。
自分の言葉が彼の心に残れば、重荷になるだけである。
これでいい。
そう自分に言い聞かせて、唇を結ぶ。
「これは、そうですね。わたくしのわがままなので、ただの独り言かもしれません。」
女官長は、娘を諭すような口調で告げた。
眼差しは、職務を超えたあたたかさで満ちており、虚を突かれる。
「殿下は、この先ますます孤独を深めてしまわれるでしょう。
これまでも険しい道を歩いてこられたのに、その上大切な方を喪うという痛みを背負ってゆかれるのです。
耐えきれずに壊れてしまうかもしれません。
わたくしは、それが怖いのです。
ひと言でもよいのです。
あの方の心に、あなたの想いを残して差し上げて。
なにもなければ、“どうすればよかったのか”と、殿下はいつまでもご自分を責め続けてしまうでしょう。
けれど、あなたが残した言葉があれば──たとえ痛みでも、いつの日か希望へと変えてくださる日が訪れるかもしれません。」
女官長の言葉は、ルナリアの胸を強く揺さぶった。
自分もその苦しさをよく知っていたからだ。
処刑された両親のことを思わない日はなかった。
志を恥じたこともない。
けれど、最期の瞬間に何を思っていたのか、それを知りたいとずっと願い続けてきた。
自分に向けた一言でも残されていたなら、それを糧に生きていけると何度も思った──いや、今でも思っている。
彼も同じように感じてくれるだろうか。
その言葉が足枷ではなく、希望となってくれるだろうか。
もしそうなら、死んでも自分は彼の心の中で生きていける。
そうであれば、自分は。
長い沈黙。
そして、笑顔と共に告げる。
「……それなら。ルナリアは──幸せでした、と。そうお伝えくださいませ。」
どの言葉よりも伝えるべき言葉だと思えた。
愛していると告げるよりも、感謝を伝えたい。
生きていてよかった。
その気持ちを教えてくれたのは、彼ただ一人だったのだから。
女官長は深く頷いた。
「伝えましょう。」
それだけ言うと、踵を返す。
ルナリアは去ってゆく背に一礼し、足音が遠ざかるまで頭を下げ続けた。
独房は、再び暗闇に閉ざされる。
しばし、闇の中で佇んだ。
静寂が押し寄せると、自分の置かれた状況が改めて胸に沁みる。
先ほどまでの会話すら幻のように思えていた。
けれども、想いはより強くなっており、消えぬ意志が静かに燃えている。
──誰からも顧みられない痛みは、今も変わらず胸の底に沈んでいる。
親類の屋敷で冷たく扱われた日々。
皇宮でも、空気のような存在だった。
それでも。
あの人だけが居場所をくれた。
名前を呼び、愛しいと言って抱きしめてくれた。
嬉しかった。
生きていてよかったと初めて思えた。
第一皇子、シアトリヒ・ラミエル・ロエル・デ・ルクスフォル。
誰よりも愛しい人。
皇家の人であることも知らずに、愛してしまった。
けれど、もし知っていたとしても、きっと同じようにどうしようもなく惹かれていたに違いない。
わかっているだけ、そのことが少しだけ悔しく思えた。
これは、自分が罪人の娘であるということを忘れていた罰なのである。
手を伸ばしてはならないものに手を伸ばしてしまった罰。
人に引き受けてもらうものではない。
自分の手で始末を付けるべきもの。
覚悟が胸の奥で定まる。
そのとき、冷え切った独房の空気がわずかに熱を帯びたような気がした。




