3-12
ナイジェルが去っても、ふたりは長くそのままだった。
言葉なく抱き合い、ただ互いに温もりを重ねていた。
「きちんと話さねばならない。」
やがてシアトリヒは抱擁をほどき、ルナリアの肩に手を添えて向き直った。
それでも何から話せばいいのかと考えあぐねているようで、しばし言葉を探すかのように沈黙する。
彼女は待った。
話し出すのを、じっと待った。
聞きたいことは山ほどある。
でも、だからといって無理を強いるつもりはなかった。
話せることだけでいいと促すつもりで、肩に添えられた手に自らの手を重ねる。
彼の瞳が揺れた。
そして覚悟を決めた眼差しになり、静かに語り始めた。
「そなたがジグバルトの血を引く者であることは、調査の過程で既に把握していた。」
ルナリアは瞠目し、息を呑む。
「皇族に関わる人間は、その素性から交友関係に至るまで調査の対象となる。
決してそなた一人が注視されたわけではない。」
「それでは……わたくしの素性を承知の上で?」
「ああ、だいぶ前から知っていた。」
信じがたい思いだった。
自分にそこまでの価値があるとは思えない。
どうして、という疑念が胸の奥で渦を巻く。
「罪人の娘に……そこまでなさる……理由がわかりません……」
「そうだな。
傍から見れば、わたしはただの阿呆だろう。
しかしそれでも構わなかった。
誰かに理解されたいわけではない。ただ、自分の求めに正直でありたかっただけだ。」
「求める……ものとは……」
「いずれ、そなたを私の庇護のもとに迎え入れるつもりだった。」
シアトリヒはひとつ深く息を吐き、苦渋を滲ませて言葉を続ける。
「いや、遠回しに言うのはやめよう。召し上げるつもりだった。
妃に準じた立場を与えて、傍に置こうとしたのだ。
そのためには制度の中では決して許されない系譜を、まずは整えねばならなかった。」
彼の言葉、そして彼の行動。
ルナリアは、これまであったすべての事象の意味を理解した。
唇を震わせ、問いを絞り出す。
「……それで、籍の改竄を?」
シアトリヒは首肯する。
そして自嘲するように笑った。
「愚かな行為だと謗られるのは承知の上だ。しかし少しの躊躇いも抱かなかった。」
自分を傍に置くために、彼は罪を犯したということか。
罪籍の改竄がどれほど重いことか、ルナリアでさえ分かっていた。
叛逆の咎を負った血筋の記録を偽るなど、それ自体が国家への重大な背信行為だ。
発覚すれば、彼もまた叛逆者とみなされる可能性がある。
それほどの重さを持つ罪だった。
「そのようなことをなされば、たとえ殿下といえども……」
「無事では済まぬことも分かっている。それでも、わたしはそなたを傍に置きたかった。」
どれほどの覚悟があったのだろう。
皇族に生まれた者は、己の人生を国に捧げるのが常だ。
臣民の範として生きる以上、私心などあってはならない。
それが分からないはずもない人なのに──彼はそれでも手を汚す道を選んだ。
他ならぬ自分のために。
ルナリアの目尻に涙が浮かぶ。
「わたしたちが共にあった四年は、在り方を根底から覆すような時間だった。
それはこれまでの価値も、掟も、制度も、血筋さえも意味をなさなくなるほどのものだったのだ。」
「四年」という時間の重さが、胸の奥に沈んでゆく。
世界の形を変えるほどのものだと思っていたのは自分だけではなかったと知って、心が震えた。
彼が皇子であると知った今は、畏れ多いことである。
それでも、自分たちは確かに心を重ねていた。
「わたしは生まれながらにして皇嗣だった。
正妃の子として、帝位を継ぐのは当然のこと。わたしもまた、それが己の運命だと疑いなく育ってきた。
しかし、ヴァルディス戦線──あれを境に、すべてがおかしくなってしまった。」
ルナリアは息を詰める。
ヴァルディス戦線。
自分が女官として入宮する以前の話で、詳しい経緯までは知らない。
ただ、帝国が勝利を収め、多くの捕虜を得た戦いだったことは聞いている。
その直後、当時の皇太子だった第一皇子が捕虜を虐殺したという噂が帝都を騒がせた。
それが決定打となり、皇太子の地位は弟の第二皇子に譲られたのだとも。
本当にこの人がそんなことをしたのだろうか。
皇太子の位を剥奪されるほどの罪を犯したなど、どうしても信じることができなかった。
「捕虜収容地の指揮は、わたしが執っていた。一部の処置を決断したのも事実だ。」
シアトリヒは淡々と告げる。
その声は他人の過去を語るような、遠い響きを帯びていた。
「大量の捕虜を抱えた中で疫病が流行し、対応に追われていた。
そんな混乱に乗じて一部が暴動を起こしたゆえ、鎮圧のためにやむなく武力行使を許可した。
だが予想外のことが起きた。部下が暴走し、捕虜に向けて火砲を打ち込んだのだ。
結果、多数の死者を出した。
収容所も無事ではなく、やむなく別の地へ移送することになった。
山を越える危険な道程だったが、十分な食糧と医薬品を持たせ、馬車や荷車を用意し、安全な移送を命じた筈だった。
しかしそこでも予想外のことが起きた。
どういうわけか命令が捻じ曲げられており、捕虜たちは飲まず食わずで百里を歩かされたのだ。
そして夥しい数の命が失われた。」
喉の奥にひとしずく苦いものを呑み込むように一拍間を置き、彼は続けた。
「断じて虐待や無差別の虐殺を命じてはいない。
それでもあのような形で終わってしまったのは、わたしの甘さに付け入った者たちがいたからだ。
真実を知る者も決して少なくはなかったのに、悪意の前では真実などいかようにも塗り替えられてしまう。
そして誰かの都合に合わせて、いくらでも歪められていくのだ。」
目元に闇い影が落ちていた。
「抗弁しなかったわけではない。証を示し、言葉も尽くした。
しかし、周到に張られた網から抜け出すことはできなかった。」
彼ほどの人がそう言うのだ。
きっと悪意は一人の手では動かぬほど深い根を張っていたのだろう。
「この一連は、わたしを陥れるための筋書きだった。
そうだと気づいたとき、何を言っても無駄であると悟った。
ならば、いっそのこと何も言わぬ方がよい。
己の矜持を汚してまで哀れにすがるくらいなら、黙した方がまだ潔いと思った。けれど…」
それは誤りだった。
言外でそう告げるように、彼はルナリアを見つめる。
「以降、わたしは『狂犬皇子』と呼ばれるようになった。
血に飢えた狂犬。
戦の外で数千の命を奪った、卑劣で残虐極まりない男。
そなたも噂は聞いたことはあるだろう。」
実際、第一皇子の噂は耳にしたことがあった。
ナイジェル皇太子の母君であるアーデルヒェン妃が、仕える侍女たちに面白おかしく話しているようで、女官の間でも話題に上ることがあった。
それがこの人のことだったとは露ほども思わなかったが、どれも耳を塞ぎたくなるような話ばかりだった。
「分かっていたつもりだったのだ。
すべてを呑むと決めたときに、覚悟は既にあった。
けれど、いざその冷たさを肌で味わうと……どうしようもなく堪えた。」
膝上でシアトリヒは拳を握りしめる。
そこにだけ、抑え込まれた感情が凝縮されているように思えた。
場に小さな間が落ちる。
ルナリアは余計な言葉を挟まず、続きの言葉を待った。
「母もまた、その渦中で追い詰められた。
無実を証そうと、必死に奔走していたのだ。
だがわたしを追い落とした者達の手にかかり、命を奪われた。」
シアトリヒの声は震えている。
「自分一人が負えばいいと考えていた。
それなのに、母までも巻き込んでしまった。
なぜ、そこまで思い至らなかったのだろう。
自分の浅慮が、彼女を殺してしまったのだ。悔やんでも悔やみきれない。」
彼の言葉の中には、母を失った痛みと自責がいまなお生々しく息づいていた。
「そのあとのことは、語るまでもない。
母を亡くし、外戚からもそっぽを向かれたわたしに、手を差し伸べる者などいなかった。
皇子という立場は残されたが、形だけ。
権能はなきに等しく、発言の場も奪われ、気づけば名ばかりの存在に成り下がっていた。
そうして、戦という泥仕事でしか使い道のない人間として、ただ前線へと送り出されるだけになった。」
シアトリヒは肩を落とす。
その動きには、やり場のない痛みが滲んでいた。
「何も残っていなかった。全部剥ぎ取られていた、全部。」
唇の端が震えている。
「それでもわたしは、これが自分の生きる道だと思おうとしてきた。
何もかも失くしてしまったとしても、矜持だけは失いたくなかったから。
なんともないという顔を装い、何も感じていないふりをして、ひたすら虚しさから目を逸らしてきた。
でもそうすればそうするほどに、世界から切り離された亡霊のようになっていった。
苦しかった。
本当は……苦しかった。
どうしてまだ息をしているのか、それさえ分からなかった。」
その眼差しは、底の見えない闇を見つめているかのようだった。
ルナリアの胸は強く締めつけられた。
「……あの手紙を書いた夜のことを、そなたに隠してはおけぬ。」
震える声を押さえるように、彼は息を吐く。
そして、なぜか笑った。
「父に呼ばれ、皇位継承権の正式な返上を迫られた。
あの時──父の中に、わたしへの情など欠片もないのだと悟った。」
膝の上の彼の拳は、白くなるほどに固められている。
「何のために耐えていたのか、分からなくなった。
自分がどこにいて、何を見ているのかさえも曖昧になり、足元から崩れてゆくようだった。
誰にも何にも、繋がっていないと思った。
だからすべてを終わらせるつもりで筆を取った。
救いなど、どこにもないと思った……死ぬつもりだった。」
シアトリヒは再び零れそうな光を瞳に宿して、ルナリアを見つめた。
「だが……そなたがあの遺書に返してくれた言葉があまりに優しくて。
優しくて……優しくて……その優しさが、どれほどわたしの胸に沁みたことか……」
一拍置き、静かに姿勢を正す。
「優しさに触れた瞬間から、理など崩れていた。
愚かと知りながらも、わたしは渇望せずにはいられなかった。」
最後の言葉は、息を吐き切るように零れた。
そしてまた、重い沈黙が場を包む。
隠すものはもう何もない。
なにもかもが明るみになっていた。
容易く「苦しい」と言える告白ではない。
胸を抉るほどの孤独と痛みが、そこにはあった。
どれだけのものを奪われ、嘲弄されてきたのだろう。
それでも彼は気高く在ろうとした、自分が生きる意味を示そうとするかのように。
それを思うと、言葉にならない想いが込み上げてくるようだった。
遠い眼差しは、深い虚空に囚われた者の瞳だった。
その優しさには、痛みを知る者だけが持つ響きがあった。
手紙だけの間柄だった頃でさえ、行間からは絶え間なく哀しみが零れていた。
そして最初の手紙。
あの手紙は──彼の慟哭だった。
涙を堪え、声を殺し、それでもなお溢れてしまった想い。
哀れで、愛しいひと。
誰よりも高く在るはずの人が、誰よりも深く沈んでいたなんて。
(どれほど──どれほど、苦しかったでしょう。)
あの手紙に綴られていたのは、声にならなかった叫び。
誰にも届かぬまま、置き去りにされた心からの嘆きだった。
それが痛いほど分かった。
あまりに似ていたのだ。
哀しみも、痛みも、置き去りにされた感情も──すべてが自分のもののようで。
涙が零れ、また零れ、何度も頬を伝った。
思い出したくなかった記憶が、静かに胸の奥で息を吹き返す。




