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3-10

ナイジェルの私室は、柔らかな燭光で満ちていた。


蔓模様の精緻な細工が施された燭台が、天井の梁からいくつも吊るされている。

蝋燭の揺れる炎が、壁に光と影を編んでいた。

床には深紅の絨毯が隙間なく敷き詰められている。

絢爛な空間に漂うのは、葡萄酒と蜜蝋の混じった香り。

甘く、酩酊を誘うような匂いだった。


扉が叩かれ、従僕の声が響いた。

合図とともに開かれる。

従僕が退くと、背後から背の高い男が現れた。

黒く艶やかな髪が燭火に掬われ、一瞬だけ金の色を宿す。

面差しには、不機嫌ともつかぬ色があった。

足取りにもまた、あからさまに乗り気でない様子が表れている。


「ようこそ、兄上。」


ナイジェルは立ち上がり、にこやかに微笑んだ。

卓の一方を示す。


「どうぞお掛けください。こんな夜に、兄弟で酒を酌み交わすなんてずいぶん不思議な気分ですね。」


兄は無言のまま腰を下ろした。

待っていたかのように、ナイジェルは瓶の栓を抜く。

まず兄の杯に。

次いで自らの杯に、深紅の液体を注いでいった。

満たされていく紅の色。

すべてが異様に整っており、現実から切り離された舞台のようでもあった。


「アーリア産のリシトゥ・ネグラです。年ごとに香りが変わるので、同じ銘柄でも決して同じ味にはなりません。

とりわけこの年のものは秀でておりまして、滅多に手に入るものではありませんよ。」


シアトリヒは杯を手にすると、少しだけ口に含んだ。

だが香りを楽しむでも、味わうでもない。

液面をじっと見つめ、時を止めているかのようだった。

進まぬ杯を眺め、ナイジェルは口元を綻ばせる。


「あまりお口に合いませんでしたか?兄上ならきっと、この深い香りを楽しんでくださると思ったのですが。」


何も返さない。

ただ、冷えた眼差しを弟に向けるだけ。

そして再び杯へと視線を移す。

優雅な仕草で流し込んでいたが、何を感じているのか表情からはまるで読み取れなかった。


数拍の沈黙が流れる。

沈黙のあいだ、どこかの燭台の芯が弾けた。

炎が揺れ、壁に映る二人の影が歪む。


やがてナイジェルが口を開いた。


「子供の頃のことを、思い出しておりました。

わたくしがまだ剣を握るのもおぼつかず、何度も兄上に打ち据えられていた日々です。」


燭火が横顔を照らしており、笑みとも憂いともつかぬ影を刻む。


「今にして思えば、兄上は輝いておられましたね。

剣も、弁舌も、まるで敵わなかった。

そうそう、政治の手ほどきも随分と厳しかったですね。

隣に並ぶわたくしは、正解を言えず何度も言葉に詰まりました。

臣下の前で、兄上がいるのだから自分が勉強する意味があるのかと漏らしたこともありました。

あれは確か、十三の冬でしたか。」


ナイジェルは懐かしむような口調で続けた。


「そのあとで、母上にこっぴどく叱られましたよ。

“皇子であることを忘れるな”と説教されましてね。

まったく、ひどい目に遭いました。」


肩をすくめて笑うが、笑い声には空虚な響きがあった。


「あの頃のわたくしは、兄上の真似ばかりしていた気がします。

剣術の稽古でもそうでした。

兄上が騎士たちと互角に打ち合っているのを見て、自分もやれると思って飛び込んだのですが。

結局、子供だからと手を抜かれるばかりで。」


一つ息をつき、遠い方角を見るように視線を泳がせる。


「学問でも同じでした。

文官たちが皆、兄上を称えていたから、わたくしは後ろで愛想笑いするしかない。

気付けば、誰より先に諦める癖がついていたのかもしれません。

出来の違いを見せつけられてばかりいました。」


そう言って、ナイジェルは杯を口に運んだ。

場には、また数拍の沈黙が落ちる。


「……見せつけたつもりなどなかった。」


シアトリヒは液面に視線を落としながら、ぽつりと零した。


「わたしはわたしで必死だった。ただ、手が抜けなかっただけだ。

勝っていたとは、一度たりとも思ったことはない。

むしろ、劣等感を抱いていた。

愛想の欠片もない子供だと、いつも言われていたから。」


それだけを言って、また沈黙に沈む。

語調に温度はない。

ただ、言葉の奥には宿るものがあった。

意外な思いに触れたナイジェルは、苦く笑う。

燭台の灯を映す杯の縁を指でなぞった。


「一歳違いというのは、不幸でしたね。

否が応でも、比較の対象になってしまう。

わたくしは、何をしても“兄上”と言われました。

おそらく兄上の方もわたくしの存在を、煩わしく思われたことがあるのではないですか?」


全ての問題はここから始まっている。

本人たちの意思とは無関係に、周囲が火を焚べ、兄弟を向かい合わせにした。

そうでなければ──などという思いが胸をかすめる。


「或いはどちらかが女であれば、互いにとっての理解者になり得たかもしれません。

並び立つのではなく、別の役割を持って競わずに済んだのなら。」


ナイジェルは、杯を口に運んだ。


「まあ仮定の話など、今更無意味なことではありますが。」


空になった杯を卓上に置く。

そして手酌で酒を注いだ。


「そういえば、兄上。」


切れ間に、小さな転調を挟む。

さも思い出したかのように装い、話題を移した。


「わたくしは近々、妃を迎えることになりそうです。

父上やら重臣やらから“皇嗣としての責務を果たせ”と、矢のように言われましてね。

もう少し自由を楽しんでいたかったのですが、それもそろそろ終いのようです。」


声に残念そうな調子を混ぜ、杯を手の内で回す。


「つい先日も、ちょっとした遊びをしましてね。

どこぞの家の娘でしたが、まあ笑い方が愛らしくて悪くない夜でしたよ。

しかし、身を慎む時期が来たようです。」


さらりと酒を含みながら、ナイジェルは視線を流す。


「わたくし、女は多少しっとりとした方が好みでしてね。

物静かで細かいことをいちいち詮索せず、こちらの気分を察してくれるような──そう、鷹揚な女性。床上手であれば、申し分ありません。」


向かいの兄は、石像のように沈黙したまま。

眉ひとつ動かさず、手元を見つめている。


「たとえばアスヴェルド家のエルフィナ嬢など、その典型でしょうね。

若いくせに妙に落ち着き払っていて、何事にも動じない。可愛げは少々乏しいですが、手間のかからなさは一級品です。」


反応を探るように、兄の表情を伺った。


「それからフィオレンツァ家のセラ夫人も印象深かったです。

未亡人というのは得てして鬱屈を抱えているものですが、あの方にはそれがなかった。

どこか醒めていながらも、男の求めには静かに応じる。その手つき、声の運び、全てが心得ていました。

ああいう女性は、夜の時間を豊かにしてくれます。

逆に苦手なのは、たとえばリューメリン家のイレーヌ嬢のような、いかにも“深窓の令嬢”といったお方です。

紹介を受けてお会いしたのですが、挨拶の途中で顔を赤らめてしまわれて。

こちらが何か不躾なことでも言ってしまったかと、心配になるほどでしたよ。

純真な女性は扱いに困るんです。可憐ではありますけれどね。」


彼の口調には、女遊びに慣れきった男の軽さがあった。

しかし兄は応じない。

弟の女性遍歴など興味がないと言わんばかりに、沈黙していた。


「兄上はお顔立ちもお立場も申し分ないのに、女性と噂になることがございませんね。」


杯を傾けながら、ナイジェルは少し意地の悪い笑みを浮かべる。


「たしか以前、東方の同盟国の姫君とご婚約なさっていたはずですが。

あれきり、女性についてのお噂は耳にしておりません。

まあわたくしのように、影で気楽に遊んでおられたのかもしれませんが、そうした話が表に出てこない。

わたくしはずっと女性に興味がないのか、理想がお高いのだろうとばかり思っておりました。」


身を乗り出し、声を潜めた。

そして一気に本題を叩きつける。


「けれど、そうでもなかったようです。ああいう“どこにでもいるような娘”で十分だったとは。」


目に見えぬ刃が、場を横切ったかのようだった。

兄は鋭い光を双眸に宿らせ、弾かれたように弟を見据える。

そしてまた静かな仮面に戻った。


「ルナリア・プレセア──いや、ルナリア・フリーデル・ジグバルト。

兄上は、彼の娘の肌をずいぶんとお気に召しているようですね。想像するとまったく愉快です。」


小さく軋んだ音が鳴る。

握りしめた杯が震えているのか、深紅の液面が揺れていた。

力の籠もった指先が白くなっているのを見たナイジェルの唇が弧を描く。


「何が望みだ。」


火の粉が弾ける音が、場を緊迫の縁へと追い立てた。


「そうですね。わたくしに兄上の、可愛い女性をご紹介いただけませんか? 少しお話しをしてみたいです。」


シアトリヒの視線が、静かに弟を量っている。

冷えた仮面の奥には、底を探るような気配が揺れていた。

杯を傾け、ナイジェルは兄の様子を愉しむ。


この夜が、もはやただの酒席では終わらないことを互いにはっきりと悟っていた。

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