3-8
窓辺を照らす光は、白く眩しい。
ナイジェルは羽根ペンを指先で弄びながら、紙の余白に意味のない線をいくつも引いていた。
昂る感情を、どうにか押し留めようとしているかのように。
机上の片隅には、第一皇子に関する帳簿一式と罪籍台帳が広げられている。
そこには言い逃れのできぬ修正の痕跡があった。
隠したいという意図が、嫌というほど伝わってくる。
守るために罪人の記録に手を加えたというのか。
見つかればただでは済まぬ“危ない橋”だというのに。
兄は情婦の女を、よほど大切にしたかったらしい。
指先で綴じ目をなぞる。
古びた羊皮紙の重みのある手触りが、心地よい。
仮面にひびが入る音でも、聞こえてくるような気分だった。
唇の端には、愉しげな色が差している。
──ああ、シアトリヒ。
気高く、誇り高い姿を崩さぬ兄よ。
涼しい顔を保っていられるのも、今のうちだ。
徹底的に叩きのめしてやる、今度こそは。
ずっと気に食わなかった。
何を与えられても驕らず、何を奪われても恨まない。
欲にも執着にも染まらぬお前は、いつも俺の手の届かぬところにいる。
あの時も、この時も、昔からずっとそうだった。
だから潰した。
あの戦地で、何もかも剥ぎ取った。
力も、地位も、信頼も、お前を支えているすべてを。
汚辱に塗れた姿を見下ろすことを、心から愉しみにしていた。
だが結果はどうだ。
お前は、何も変わらない。
泣きもせず、怒りもせず、抗いもせず。
最初から何も持っていなかったかのように佇んでいる。
心底がっかりした。
俺が渇望してやまなかったものを、お前は意味もなく持っていたのだ。
そして惜しげもなく、それを手放してみせた。
まるで、欲しければくれてやるとでも言うかのように。
なぜ、お前は思い通りにならない。
なぜ、取り乱さなかった。
あれほどまでに辱めたというのに。
叫び、怒鳴り、泣き喚くべきだったのだ。
なのに、お前はどうしてそんな涼しい顔でいられるのか。
父帝の生誕を祝う式典のことが思い起こされる。
あの日のために、自分がどれだけ心血を注いできたことだろう。
帝国各地の諸侯や高官を集めるだけでなく、列国の使節も招く。
式の進行、贈り物の選定、演出の段取りに至るまで、すべて自分の手で取り仕切った。
単なる行事ではない。
皇太子としての責任を果たす場であり、父の威光を高らかに示す場でもあった。
父も満足げだった。
列席した貴族たちは皆、感嘆とともに口々に褒めそやした。
だが、ただ一人、あいつだけは違った。
誰とも交わらず、離れた席で黙々と杯を傾けている。
まるで、自分には関係のないことだと言わんばかりに。
それが、どうにも癪だった。
だから敢えて言葉をぶつけてやった。
視線が集まる中でその立場に言及し、突きつける。
暗に、臣籍に降ることを迫る言葉を。
ただ名ばかりの皇子としてそこにいるだけなら、いなくても構わないのではないか。
いつまでその席に居座るつもりなのかと、挑みかかってやったのだ。
兄は眉を寄せたあとで、何かを遠くへ置くように視線を逸らした。
反論もせず、怒りもせず。
しかし、奴の瞳にははっきりと浮かんでいた。
勝敗の外に立つ者の哀れみが。
それを見た瞬間、全身の血が逆流するような心地がした。
惨めだった。
見下ろしていたはずの相手に、哀れみの視線を向けられた自分が。
気付きたくはなかった。
兄に勝ったのではなく、自分はもう別の場所にいる兄を追いかけているだけだったということを。
あいつが憎い。
憎くて、憎くて、たまらない。
何もかも悟ったような目。
人とは違うと言わんばかりの、あの澄ました顔。
何をされても、何を奪われても堪えない。
すべての感情を切り捨てた顔で立っている。
そんなお前はいつだって、俺を惨めにさせるのだ。
焦りも劣等感も炙り出してくる。
だからこそ今度は、徹底的に追い詰めてやりたい。
二度と立ち上がれないほど、完膚無きまでに。
より詳しく調べさせたところ、ほどなく形が見えてきた。
情婦の女。
あいつはその女をあまりにも露骨に、あからさまに溺愛していた。
誰にも関心など示さなかったはずの男が、その女にだけは異様と呼べるほど思いを注いでいた。
滑稽だった。
あの、感情というものを忘れたかのような兄が。
たったひとりの女に、そこまで。
……いや、滑稽というより興味深い。
ならば、そこを突いてやればいい。
引きずり下ろすための、最も効果的な急所を。
女のことを持ち出せば、お前も感情を揺らさずにはいられないはずだ。
仮面が剥がされ、醜く歪むその顔を見届けてやる。
そして疎ましい眼差しごと葬り去ってやり、二度と俺を見下ろせぬようにしてやろう。
それこそが、俺の本当の勝利だ──
羽根ペンを握る。
力が入った瞬間、先端が折れた。
黒いインクの染みが紙面に広がり、じわじわと滲んでいく。
自分の中に渦巻く感情を見ているかのようだった。
暗く、濁り、収まりのつかないまま膨れ上がり、白い帳面を侵していく。
ナイジェルは折れた羽根ペンを指でなぞり、口元にゆるやかな弧を描いた。
御前の壇上で、あいつはどんな顔を見せるだろう。
ほんの少し、引っかけてやるだけで──その涼しい顔の仮面は剥がれるのかどうか。
「まずは、爪を立ててやらないとな。」
一気に剥がすのでは芸がないのだ。
少しずつ罅を走らせ、追い込んでやる。
その先に待つ破滅の光景を思い描きながら、ナイジェルは静かに立ち上がった。
そして向かうは、玉座の間。




