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2-16

本宮北棟。

その片隅、資料区画に設けられた古文書室。

廊下の向こうには、写本局回廊が広がっている。

文官たちが束ねた文書を抱えて忙しなく行き交い、あちこちで筆と紙の音が鳴っていた。

だがその喧騒も、歩を進めるごとに遠のいていく。


扉の軋む音が、ひどく大きく感じられるほどに静まり返った一画。

ほとんど動かされることのない記録資料ばかりを収めた第四収蔵庫がある。


彼はそこにいた。

とある棚の前で、背をもたせかけるように腰を下ろし、束の間の眠りに落ちている。

戦場から戻って以来、休む間もなく戦後処理に追われ、書類の山と向き合い続けていた。

疲労は身体に染み込み、瞼は意志とは裏腹に重く沈む。

微睡むだけで、深い眠りに落ちることはない。

それでも心身を削る倦怠に抗いきれず、うつらうつらと意識は揺れていた。


半刻後。

扉が開き、静まり返った室内の空気が軋む。

誰かが入ってくる気配に、彼は目を開いた。

寝惚けを払い、反射的に身構える。


耳を澄ましてみた。

乾いた布で何かを叩くような音──はたき掛けの音が室内で反復する。

規則正しく、空気を刻むようだった。

やがて、その音に続くようにして小さな鼻歌が零れる。


「ひかりうすれて そら遠く

風のゆらぎに 雲は舞う

だれぞがうたう 夢のうた

やがてくる夜を 抱きしめて」


それは、野道を帰る子らが口ずさむような素朴な童歌。

心地よい歌声だ。

目を閉じ、シアトリヒは聞き入った。


「あかきそらには 星ひとつ

鳥のねぐらに 影しずむ

だれぞがわらう かくれうた

おもいをのせて 風のなか」


──鼻歌が途切れ、またはたき掛けの音が響く。

しばらくして、棚の奥からばさばさと乾いた音が落ちた。


(何か、落としたな……)


思わず口元が緩む。

だがすぐにまた「ドサリ」と大きな音。

今度は本の束でも崩れたのか室内に響き渡ったので、心配になった。


「ああ、もう。どうしてこうもそそっかしいのかしら。」


困ったような独り言が漏れ聞こえ、続けて「やだわ、届かない」と小さな声。


棚の向こうでは、背伸びをする気配がある。

衣擦れの音が、こちらにまで届いていた。

シアトリヒは静かに立ち上がり、歩み寄る。

そして、そっと背中に手を添えた。


「お手をお貸ししましょう。」


返事はない。

不思議に思って覗き込むと、彼女は立ったまま固まっていた。

まるで時間が止まったかのように、瞳を大きく見開いたまま動かない。

突然のことで、状況の把握が追いつかないのだろう。

……不器用な人だ。

シアトリヒは微笑を浮かべ、手にしている本を指して促した。


「貸して、戻して差し上げますよ。」


ぎこちない手つきで差し出される本を受け取って、棚に戻してやった。

だが、彼女の表情は固いままだ。


「白昼夢でも、見ているのかしらね。もしかして、あなたは死んでしまったの?」


声が震えていた。

肩も揺れている。


「死んで、魂だけになって会いに来たと。そう思っておられるのですか?」


「だって……そうでもなければおかしいもの。あなたは見えるはずのない人の姿に見えるのです。

その人は、今も戦場にいるはずなのに。」


「でも触れますよ。魂だけだったら、こんなふうに触れることはできない。」


そう囁き、シアトリヒは背後から腕を回した。

ようやく触れられたという実感に、胸が満たされていく。


「ほら、どうです?まだ魂だけだと思いますか?」


ルナリアは硬直していたが、そのうち恐る恐る彼の腕に手を添えた。

指先がぺたぺたと感触を確かめるように動く。

まるで幼子が夢と現を探るような仕草だった。

胸が痛む。

彼女の歩んできた幸の薄い人生が見えるようにも思え、憐憫を覚えた。


「ほんとに、ラム……?」


震える声が耳に届く。

シアトリヒは彼女の耳元に唇を寄せた。


「はい。」


「ほんとに……?」


「ええ。」


囁きながら、腕にさらに力を籠める。

そして彼女の耳元に、深い息とともにひと言落とした。


「ただいま。」


向き直り、胸に涙に濡れた頬を押し付けてくるルナリア。

震える彼女の銀色の髪に顔を埋め、シアトリヒも温もりをしみじみと噛み締めた。


何もかもが、この抱擁ひとつで消えていく。

剣戟も、地を揺るがす砲声も、玉座の間で浴びた氷のように冷たい声も、弟の蔑みも──すべてが嘘のように遠ざかってゆく。

あれほど自分を苛んでいたのに、今はどうでもいいことに思えた。

この人の傍にさえいれば、どんな痛みでも超えてゆける。

そう改めて自覚する。


ふと、思い出すものがあった。

片腕に彼女を抱き寄せたまま、軍服の内ポケットを探る。

やがて取り出したものを、手のひらにのせて彼女の前に差し出した。


「……ごめん、ルゥ。

あなたがせっかく編んでくださったのに、千切れてしまいました。

できる限りで直してみたのですが、やはりうまくは戻せません。」


それは出発の折に彼女が餞別として手渡してくれた、心ばかりの贈り物。

戦場でも肌身離さず身に着けていたが、不忠の将ヘルツベルクに斬り付けられたときに裂けてしまったのだった。

自分なりに繋ぎ合わせてみたものの、複雑に編みこんであったため元の姿には戻らなかったのだ。


「き、気にしないでください。あまり、出来も良くなかったし……ラミエル様には、お目汚しになるだけで……」


「そんなことを言わないでください。この素晴らしい贈り物が、わたしを守ってくれたのですから。」


「え……?」


ルナリアの瞳が驚きに揺れる。


「この紐が危うい刃を知らせてくれた。なければ、首を刺されていたかもしれません。」


不思議な出来事だった。

見えるものしか信じてこなかった自分にとって、それは人の理などは説明のつかぬこと。


風もないのに揺れて、視界の端に映った。

その一瞬で身体が動き、首を狙っていた刃は肩に逸れた。

ただそれだけのことだったのだ。

けれども、その「わずかなこと」が生と死を分けた。


偶然と言ってしまえばそれまでだろう。

だが──何故か偶然と片付けることができなかった。


最初からそう。

たとえば、この古文書室で。

綴った言葉を一冊の詩集に挟んだ。

胸の奥に埋めきれぬ痛みをどこかに葬りたいと──とある本を「墓標」に選んだのだ。


それなのに数日後、再びここを訪れる自分がいた。

筆跡から自分の書いたものだと辿られることを恐れたからだ。

すべてを投げ出したはずなのに、あのときの自分はなぜか死んだあとのことを気にしていた。

おかしなほど急かされて。

人の目に触れる前に破り捨てねばと、回収に向かっていた。


そこで見つけた彼女の手紙。


何年、何十年も時を経てから見つかるもの。

そう思っていたのに、わずか数日で他人の目に触れてしまった。

早さに呆気に取られ、さらに「死なないでください」という一文に狼狽えた。

まるで、自分の行動を見透かされていたかのようで。

理屈では言い表せぬ感覚だけが、胸に残った。

一連が、まるでこの手紙を受け取るために仕組まれていたのではないかと思えるほど、奇妙な感覚だった。

そしてそれは三年余にも及ぶ文通の関係に続いてゆき。


文通でもそうだった。

落ち込んだとき古文書室に足を運べば、決まって新しい手紙が届いている。

絶妙な時期に差し出されるその言葉は、励ましのように思えた。

顔を合わせるようになってからも同じだった。

誰からも顧みられず孤独に沈んだときほど、「会いたい」という言葉が届く。

望んだものを先に差し出されるかのように。


偶然以上の符合。

彼女にだけはそんなものを感じてしまう。

敢えてそれを言葉で表すのだとすれば。


「よかった……本当によかった……」


彼女の声が涙に滲む。

シアトリヒは柔らかく笑って、宥めたときと同じ言葉を口にした。


「ね、これで分かったでしょう?戦場では運がいいんですよ。」


「……守られて、いる?」


「そうです。今回はあなたに守られたようです。あなたがわたしを生かしてくれたのですよ。」


視線に重ねられた陽光が、揺れる涙の粒を透かしていた。

神々しいまでに眩い輝きが、胸の中に染み込んでゆく。


「お、お帰り、なさいませ、ラミエル様……また……会えて、嬉しいです。」


自分のために流す涙を見ながら、彼は悟っていた。

涙が美しければ美しいほど、胸の奥で欲が膨れ上がっていく。

全身が告げていた。

これは好意などという浅い言葉ではない。

抱擁や口づけを交わすだけの儚く慎ましい関係では、もう満たされないのだ、と。


シアトリヒはルナリアの手を取り、指先に口付ける。


一線を越えることに躊躇していたが。

この人を傍に置く。

誰が何と言おうとも、彼女を自分のものにする。


「おいで。誰にも邪魔されないところへ行きたい。」


「で、でも……まだ掃除中なので……」


言い淀む彼女に、シアトリヒは思わず目を丸くする。


女官長もまさか本気で掃除をさせるために寄越したわけではないだろうに、なんとも彼女らしい生真面目さ。

けれど、そんなところも含めて全部好きだ。

胸裏でひっそり笑い、彼は囁く。


「わたしが別の用事を言いつけたということにします。だから心配はいりませんよ。」


「え……?」


「大丈夫。」


「あの……?」


顔を疑問符だらけにする彼女の唇に、シアトリヒは口付けた。

驚いたように瞳を見開いたルナリアは、声も出せずに固まる。

けれど拒むこともなく、そのまま彼を受け止めていた。

ならば、と。

身を傾け、今度は深く唇を重ねる。

ルナリアはさらに大きく目を見開き──やがて力なく瞼を伏せた。

やっと唇を解いたとき、彼女は呆然と、いや陶然とした表情を浮かべていた。

その様子に一瞬だけ微笑みを忍ばせ、シアトリヒは考える余地を与えぬまま彼女の手を取って古文書室を後にする。


その場には、埃の匂いと掃きかけの床が二人の気配を惜しむように取り残されていた。

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