2-11
幕舎を出る頃には、夜闇がすでに野営地を深く包み込んでいた。
空を流れる薄雲が月明かりを滲ませ、焚き火の火の粉が、かすかに天幕の輪郭を浮かび上がらせている。
兵らの気配は静まり、薪の爆ぜる音と、遠い潮騒を運ぶ風の音だけが響いていた。
春のはずなのに、戦の夜はいつだって季節を忘れさせる。
肌を撫でる空気には、鉄の匂いがかすかに混じっていた。
作戦の準備が静かに始まる。
まず動いたのは、港湾部へと続く旧倉庫街への潜入経路を探る偵察部隊だった。
夜目に優れた軽騎兵と斥候たちが選抜され、地図にも記されぬ浅瀬と排水路の構造を洗い出すため、闇に紛れて前線を抜けた。
風に乗って戻ってくるのは、川辺のアシが揺れる音と、時折走る馬の鈍い足音だけ。
月明かりすら届かぬ草陰の探索の末、港裏手に続く隠れ道の存在が報告された。
一方、補給庫では突入部隊のための火薬と油瓶が密かに準備されていた。
荷車の床下に火縄や油瓶を忍ばせ、表向きは食糧や衣服に偽装する──その作業に、妙な遅れが生じていた。
帳簿と現場の在庫に齟齬があり、手続きが途中で中断されたという。
「補給が遅れている?なぜだ?」
シアトリヒの問いに、補給係の若い軍吏は口をもごつかせたまま、答えを濁す。
「軍務院の後方監査官より、港湾方面への物資搬送は“時期尚早”との通達がありまして。」
そこへ、場違いなほど上等な軍装に身を包んだ初老の男が姿を現した。
帝都から随行していた軍務院後方監察官──アイブリンガーである。
「第一皇子殿下、ご不快であれば申し訳ありません。
ですが補給路の安全が確保されていない現段階では、物資の投入には再考が必要かと。」
シアトリヒは、言葉を挟まずに問いかける。
その目は、薄氷のように冷ややかだった。
「再考の余地など、どこにある。」
アイブリンガーがなおも釈明を続けようとしたその瞬間、彼は切り捨てるように言い放った。
「明朝までに必要分をすべて揃えておけ。出し惜しみをした場合、その責任の所在を軍務妨害として、報告書に記すことになる。」
「あくまで規定に沿った判断でして。」
「ならば“規定”に従って処分される覚悟も決めておけ。」
「で、殿下……」
「ここは戦場だ。帝都の役場ではない。
書類と現実、どちらを優先すべきか考えろ。」
返答を待つこともなくシアトリヒは踵を返し、その場を後にした。
歩きながら、苛立ちが募っていく。
今回は、いつにも増してやりにくさを覚えていた。
幕僚は非協力的、物資も出し渋られ、兵力も最低限。
これで港を落とせなど、本来なら話にもならない。
誰の差し金かなど、考えるまでもなかった。
帝の裁可を受けて自分が派遣されたことが、面白くなかったのだろう。
自分は尻拭いをさせられているだけだというのに──そのうえで、まだ足を引っ張ろうというのか。
しばし天幕の縁を見つめたまま、シアトリヒは息を吐く。
揺れる布の向こうに、星が瞬いていた。
夜の空気は冷たく澄み、湿った土と薪の燃え残りの匂いが混じっている。
髪に結わえた群青の飾り紐が、ふと指先に触れた。
金糸でも宝石でもない、素朴な糸の束。
戦場に向かう前に、彼女が餞別に手渡してくれたものだ。
不器用に編まれていても、そこに込められたまっすぐな想いがただただ愛おしい。
「出来が悪い」と苦笑していたが、自分にとってはどんな高価な品よりも嬉しい贈り物だった。
無性に会いたさが募る。
同じ頃、港周辺では装備を整えた小規模な部隊が、慎重に移動を開始していた。
“再配置”という名目のもと、銃と剣を携えた歩兵が、茂みの多い丘陵地帯に散ってゆく。
湾口を望む高所には、木材と土嚢が次々と運び込まれ、火砲を据えるための簡素な砲座が築かれていった。
夜闇の人目につかない時間帯を狙って、すべては静かに進められる。
だが、兵の誰もがこの作戦に心から賛同しているわけではなかった。
「港を怒らせれば艦砲が降ってくるぞ。」
「俺たちは囮にされるんだ。」
そんな声が、兵たちの間で密かに囁かれていた。
「なあに、どうせ明日には撤退命令が出るさ。あんな無茶、通るわけがねえ。」
「本営だって本気じゃないさ。派手な戦なんざ、上層部の誰も望んでねえよ。」
噂は毒だ。
静かに、だが確実に兵の足を鈍らせる。
それらを見ていた副官エルハルトは、言葉を選びながら主のもとへ歩み寄った。
「……我が君、このままでは士気が揺らぎます。一度、各隊にお言葉を。」
「咎めなくてもいい。」
夜空を仰ぎ、低く答えた。
「誰だって逃げ出したくなる状況だ。わたしとて例外ではない。」
星のない空には、ただ鈍く濁った風の音だけが流れていた。
シアトリヒは踵を返す。
その背を見て、副官も無言で歩を揃えた。
潮騒と焚きしめた木の匂いが、二人を迎える。
赤々と燃える篝火が、各所で夜気を照らしていた。
軍議が終わってから、まだ数刻も経っていない。
それでも目に見えぬ何かが、静かに場を支配しつつあった。
野営地の隅々まで、言葉にできぬ緊張がじわりと広がっている。
倉庫裏から火薬樽を運ぶ音、砲架の部品を組み立てる微かな金属音。
交代で支度を終えた兵が静かに武具を点検する気配。
どれも見慣れたはずの光景が、この夜ばかりは妙に乾いて聞こえた。
各々が、それぞれの“夜”を抱えていることが明らかだ。
口数は減り、動きは慎重になり、顔つきには、迷いとも諦めともつかぬ何かが浮かび始めている。
まるでこの静けさが、これから起こることの大きさを物語っているかのようだった。
そして──準備が整い、決行の時が訪れる。
野営地の一角。
すでに、子飼いの部下たちは火の周囲に集まりつつあった。
火影を背に、一つの影が静かに立っている。
中将の階級章を戴いたその男は、年若いとは言えぬが、どこか異質な静けさをまとっていた。
眼差しは、目の前ではなく──闇のさらに向こう。
まだ誰も踏み入れていない先の時間を見据えているかのようである。
「全員、よく聞け。これより、港への夜襲を実行する。」
言葉は静かに、それでいて鋭く放たれた。
一同は固唾を呑む。
「戦況は貴様達も知っての通りだ。
港を奪われたままでは、北辺の補給線は途絶え、帝国の喉が詰まる。
だからこちらから取りに行く。敵の首を、だ。」
言い終えると同時に、沈黙が落ちた。
誰も動かず、口を開かない。
夜の冷気が肌を刺し、ただ火の爆ぜる音だけが響いている。
だが、その緊迫した空気を破ったのは、野良犬部隊の一員の粗い声だった。
「それでも皇子様かよ。『首を取りに行く』って……野良犬の方がまだお上品だぜ?」
「威厳ってもんを見せてくれよ。せっかくの出陣前なんだ、気合い入るような芝居がほしいねぇ。」
「“帝国の光”がどうとか、“忠義と誇りを胸に”とか、もっとこう……格好いいお言葉を頼むぜ、司令官!」
どっと笑いが起こる。
だが、それは冷やかしなどではなかった。
むしろ笑いの奥には、張り詰めた空気を和らげようとする、奇妙な気遣いがある。
シアトリヒは一瞬だけ呆れたように眉を下げた。
「よかろう、ならば言い直そう。」
彼は一歩、前へと進み出た。
影が背後に長く伸びる。
「我ら第十三近衛連隊は、喰らいついたら離さぬ野良犬だ。
普段は近衛崩れだの、はみ出しものだのと散々な言われようだが、この牙だけは誇りのために剥いてやる。」
瞬間、笑いがぴたりと止む。
その眼差しに吸い込まれるように沈黙した。
「……というのは表向きにしておこう。」
皆が一様に肩を落とす。
「好きなだけ暴れてこい。
シュトロイナーの野良犬魂を、敵にも味方にも見せ付けてやろうではないか。
地位や栄誉などどうでもいい。日頃の憂さでも晴らしてこい。」
「それじゃ夢がない。50点。」
再び笑いが起こる。
その中心でシアトリヒは小さくため息を吐き、考える素振りを見せた。
「いちいち要求の多い連中だ……では、こうしよう。」
火が爆ぜる音とともに、静かな熱が野営地を包み込む。
「女にモテるいい機会だ。
待たせている故郷の女に、“お前のために戦った”と言えば、少しは惚れ直してくれるかもしれん。
狙っている店の看板娘には、“俺は港を奪った男だ”と吹いてみるのもいい。
好きで結婚した嫁には、“もう一度恋をしてくれ”と懇願できる勲章になるだろう。
尻に敷かれてる嫁には……まあ、せいぜい無事に帰って生き延びてから考えろ。」
「司令は?」
「わたしか。“今夜の勝利を、遠くにいるあの人に贈る”とだけ言っておこう。」
「誰だよ、それ。」
「想像に任せる。それぞれ事情があることを察してくれ。」
一瞬の沈黙のあと、大きな喝采が上がる。
「いや、冗談だろ。司令官に女なんて……興味ないんじゃなかったのかよ。」
「まったく隅に置けねえな。」
「くそっ、先を越されたぜ!」
歓声と罵声が入り混じる中、シアトリヒは肩を竦めていた。
「まったく……貴様達は、口が減らんな。」
この不遜な口ぶり。
他部隊ならば、即刻処罰ものだろう。
だが、ここでは咎めない。
規律と威厳を至上とする帝国軍にあって、第十三近衛連隊は明らかに異質だった。
軽口と嘲笑に満ちたその振る舞いの奥には、ねじれた忠誠心がある。
咎めれば、奔放さと共に彼らの芯にある強さまでも削がれてしまうのだ。
この無頼の色こそが、彼らを支える唯一の規律なのである。
「よっ、狂犬!」
誰かが叫んだ。
次いで、豪快な笑い声が一斉に上がった。
「狂犬か。貴様達、野良犬どもの頭目に相応しかろう。」
「本性現したな!」
「勝ったら飯を奢れよ、いい酒つけてな!そしたら働いてやる。」
シアトリヒはその場で天を仰ぎ、ため息を吐く。
「勝てば何でも言うがいい。
だが負けたら、帝国軍のお荷物として駆除されることを忘れるな。」
「へっ、じゃあ勝つしかねえな!」
野営地に笑い声がこだました。
誰もが笑っている。
だが彼らは皆知っているのだ──この夜を無事に越えられる者が、何人いるのかもわからないことを。
それでも逃げることなく、不安を笑い飛ばしている。
野良犬と呼ばれることにすら、誇りを抱いて。
そして、夜は静かに更けていった。
灯火がひとつ、またひとつと消え、野営地は完全な闇に沈む。
誰もが胸の奥に張り詰めたものを押し殺していた。
やがて、空を満たす冷気がひときわ深くなる。




