2-9
『声なき想ひ、夜を越ゆれば 露と消ゆ。
宵逸すれば、我が詞は汝がもとへは届かじを知る。
呼ぶ声あり、木立の奥に──風立ちぬ。』
例の詩集に挟まれていた一節は、どこかで耳にしたことのある有名な詩の一部だった。
たしか故郷を発つ旅人の心情を歌った詩だったと記憶している。
文が示す意味を、ルナリアはすぐに悟った。
旅ではない──彼は戦地へ向かうのだ。
先日一緒に街を歩いたばかりだというのに、その時間が恐ろしいほどの速さで遠ざかってゆくような感覚に襲われた。
戦の気配は感じていたものの、まさかこれほど短い間に二度も出征することになるとは思っておらず、驚きが隠せない。
それからの彼女は、一日じゅう落ち着かない心地で過ごすことになった。
廊下で軍装の人影を見かけるたびに、思わず足を止めてしまう。
もしかしてあれが彼ではないかと、名を呼びそうになってはやめ、また歩き出すという繰り返し。
目が潤む瞬間が幾度となく訪れ、そのたびに必死に誤魔化してばかりいた。
仕事が手に付かなかったのは、言うまでもないことである。
そして夜になり──
上弦の月が西の空で輝く頃、静かな足音とともに彼は現れた。
整った顔が一層浮世離れして見えるのは、死に近い場所へ赴くという不安があるからだろうか。
今宵の彼の姿は胸が痛むほどに美しく、そして物悲しく見える。
掛ける言葉も見つからず、ルナリアはただひたすらその麗しい姿に見入っていた。
「……言わねばならないことがある。」
苦く笑って空を仰ぐ。
「この月が満ちる頃、わたしは北西のラングハイン地方へ従軍いたします。
北辺の兵站網を支えるアルマーレの港が脅かされているからです。」
あと幾日もない。
ラミエルの言葉に、胸が重くなった。
予感していたことが、現実として突きつけられる。
その事実が辛く、声が出なかった。
「アルマーレ港は、北辺で唯一の不凍港です。
兵の糧も、冬を越す備えもすべてあの港を経て運ばれてきます。
だが今は敵が占拠し、補給船も倉庫も押さえられています。
このまま事態が進めば北辺全体の防衛線は崩れ、やがてそれは帝都を脅かすことに繋がります。
ゆえに、陛下は増援を発すべきとお決めになられました。
わたしは剣を預かる者。軍人として、この命令を果たさねばなりません。」
理屈の通った説明であり、否定の余地はなかった。
彼が行かねばならない理由も、その使命の重さも、わかっている──頭では。
けれど、心は別だった。
理解を拒み、耳に入る言葉がすべて鋭い刃となって胸を抉ってくる。
時が止まったかのようにルナリアは立ち尽くし、彼の表情を目で追い続けていた。
「ですが、心配しなくてもいい。死ぬつもりなどありません。」
一拍置いて、ラミエルは言葉を続ける。
「もちろん、油断ができるような状況ではない。
しかし今回、我が方の主将は第一皇子です。
あまり良い噂を聞かない人ですが……意外にも、負けないことに徹した用兵家でもあります。
勝算のない戦には挑まないし、味方を犠牲にするような戦法も好まない。
そして、わたしはその殿下の直属部隊に配置されています。
だからあなたが思うよりは、ずっと安全な場所にいるはずです。」
慰めではなく、裏打ちのある言葉だとわかっていた。
それでも不安は拭えそうにない。
ルナリアは唇を震わせ、ラミエルの胸に縋りついた。
信じたい。
でも、この温もりが失われることがあったらと思うと怖くて堪らなかった。
「あな、あなたが帰って、こなかったらと……どうしても、そう思ってしまいます。」
つっかえつっかえ、やっとの想いで言葉を紡ぐ。
そうした感情の乱れを悟ったのか、ラミエルはあやすように髪を何度も撫で、胸のざわめきを遠ざけてくれた。
「ルゥ。こう見えて、わたしは結構運がいい方なのですよ。
軍人になって十年以上、悲惨な戦場もいくつも経験しました。
孤立無援で山中に取り残されたこともあれば、渡河中に馬ごと流され、死ぬ気で泳いで渡ったこともあります。
それでも、悪運強く戻ってきました。」
ルナリアは目を瞬く。
「戦場に関しては、なぜか運がいいんです。
もうだめだと思うようなときでも、不思議と助けられることが多い。
あのときも、流されながら上流から流れてきた流木が、まるで天の助けのように差し出されたのですよ。」
彼は不敵に唇の端を吊り上げた。
「神様には嫌われている気がしますが……でももしかすると、悪魔には好かれているのかもしれませんね。」
「あ、悪魔?」
「ええ。悪魔は意外に面倒見が良いらしくて、神様に嫌われた人間をかわいそうに思ったりするようです。
だから窮地に陥った時、私は神には祈りません。」
肩をすくめて、口元に飄然とした笑みを刻む。
「代わりに悪魔に提案するんです。美味い酒を献上するから、とりあえず何とかしてくれ、と。
効果がすぐに現れない時は、“美味いものも付ける”と条件を追加します。
すると、たいてい悪魔は話に乗ってくれるんですよ。」
ルナリアはぽかんと口を開けた。
けれど、次の瞬間には笑いが込み上げてくる。
死にそうな時にそんなことを考えているなんて──ずいぶん大胆な人だと思わずにはいられない。
「魂を捧げる、なんて言ってはいけませんよ。そういう深刻なものでは叶えてくれません。」
「真面目に……やりなさいと、怒られそうな気が、しますけれど。」
「豪気な悪魔なら、少しくらい不真面目な方が面白がってくれますよ。」
やり取りを交わすうちに、不安はいつの間にか薄らいでいた。
笑いながら、なぜか確信めいた気持ちを抱く。
本当に大丈夫な気がしてきたのだ。
余韻の中で、彼の胸中へと思いが向かった。
飄々とした言葉の奥には、どれほどの気遣いが隠されていたのだろう。
冗談めかしてはいても、妙な説得力があった。
もしかすると、不安を抱かせないためにと選び抜かれた言葉なのかもしれない。
だとすれば、彼の優しさを無碍にはできないと──そう思えた。
自分にできることは、なんだろう。
考えた瞬間、ふと思い出す。
あれを渡すなら、今しかない。
徐にエプロンのポケットへ手を入れ、何かを取り出す。
そして彼に差し出した。
群青の糸を撚り合わせて組んだ飾り紐。
先日の外出で贈られたリボンのお返しにと、合間を見つけて少しずつ編んでいたものだ。
急な知らせに、渡すなら今しかないと慌てて仕上げてきた。
「これ……リボンの、お返しです。
あ、編む力を均一にするのが難しくて、あんまり上手にできなかったのですが……」
「ルゥが作ってくださったのですか?」
もっと胸を張って渡したかった。
けれど、ところどころ糸が緩んだ不恰好な箇所もある。
「ほ、本当は髪紐にと思っていたのですが、出来が少し悪くて……な、何かを束ねるのにでも使ってください。」
受け取ったラミエルは編み目を指でたどった。
喜びとも戸惑いともつかない表情が浮かんでいるので、言葉が出るまでの間が長く感じられる。
「細い紐なのに、幾重にも糸を撚ってある。お仕事をしながら作るのは、手間だったでしょうに。」
呟く声には、しみじみと噛み締めるような響きがあった。
彼は自らの髪を束ねていた紐を解く。
黒髪が月明かりを弾き、波のように肩へと流れ落ちた。
「結んでくださいますか?」
出来の良くない紐で彼の髪を結ぶのは躊躇われたが、言われるままに手を動かす。
結び終えるとラミエルは口元を綻ばせ、結び目を何度も撫でた。
「落ち着いた色合いで普段使いができそうです。有難う、ルゥ。とても嬉しい。」
嬉しいのは自分も同じだった。
大急ぎで編んだ拙いものでも、こんなふうに喜んでくれる。
渡せてよかった。そう思えた。
「これなら、離れていてもあなたがそばにいるような気がします。」
彼の仕草を目で追うルナリアの胸に、さまざまな記憶がよみがえる。
初めて顔を合わせた日の衝撃──こんな美しい人がいるのだと息を呑んだ。
畏怖すら抱かせる整った容貌と、その奥に潜む影のようなものから目を離せなかった。
あの瞬間、漠然としていた感情がはっきりと恋に変わったのを覚えている。
だが、想いはそこに留まらなかった。
優しい顔を見れば、胸が高鳴った。
少年のようにいたずらめいた笑みには、新鮮なときめきを覚えた。
遠くを見つめる横顔には、自分と同じように深い傷を抱えていることを、言葉にされずとも感じ取った。
隣にいる日々の中で、彼のさまざまな表情に心を奪われてきた。
そして──今のような、屈託なく喜びを映す顔。
いつまでも見ていたいと思う。
掛け値なしの笑顔は、長く人から向けられたことがなかったから。
けれども、そんな時間はもう訪れないかもしれない。
その予感が、静かに胸を締めつける。
声をかけようとしても、言葉が定まらない。
離したくない。
気づけば願いに突き動かされるように、彼を抱きしめていた。
「……どうか、ご、無事で。」
声が震える。
それだけを伝えるのが精一杯だった。
「必ず、帰ります。」
返された声は力強かった。
その響きが息をつく力をくれる。
「待って、ますから。」
「その言葉が……何よりの力になります。」
刹那、全身に熱が駆け巡った。
無価値だと思い込んでいた自分に、価値を与えてくれる人がいる。
今もなお、こうして生きる意味を与えてくれる人がいる。
ならばと思う。
彼が自分にとっての希望であるように、自分も彼にとっての希望になりたい。
だから、わたしはここで待つ者になる。
帰るあなたを迎え入れる場所として。
ラミエルは、ルナリアを見つめながらそっと囁いた。
「帰ったら、少しだけ、あなたとのこれからを考えてみてもいいでしょうか。」
それは問いかけではなく、祈りのようである。
不器用な決意が込められたその言葉を、ルナリアは胸いっぱいに受け止めた。
そして、応えるように目を閉じる。
唇が触れ合い、短い誓いが交わされた。
温もりも、息遣いも、忘れないようにとすべてを記憶の中に刻み込む。
月光は静かに降り注ぎ、二人の影をひとつに重ねていた。
離れるのは、しばしの間だけだと信じたい。
再び重なるその日を胸の奥で強く願いながら、ルナリアは彼の鼓動に自分の時を預けた。




