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2-8

再び、北から戦が訪れた。

半年のうちに、二度。

ベル・トラーナ公国は執拗に、帝国の領土を侵してきた。


だが今回、彼らが狙ったのは山でも砦でもない。

標的は、帝国北辺にある港だった。

冬でも凍らず、通年の補給を可能とする唯一の不凍港。

それは帝国北方の命脈であり、兵站網を支える絶対的な要衝だった。


この港さえあれば、雪に閉ざされた冬季でも遠征軍を維持できる。

逆に言えば、失えば干上がる。

敵は、そこを衝いた。


正面からの戦いではなく、補給線を断つ“水際の作戦”。

小規模の先遣部隊が港へと奇襲をかけ、補給船を焼き払い、岸の倉庫と街道を掌握した。

兵を潰すのではなく、兵を飢えさせる。

そうして戦うまでもなく、北方の守備軍を撤退させる──それが今回の作戦の目的だった。


思えば、前回の戦いはすべて陽動だったのだ。

北東の山岳地帯に騒乱を起こし、帝国の視線をそちらへ釘付けにしておく。

そして数か月の間に兵を密かに再編成し、雪解けすら待たずに本命の不凍港へと進軍する。

すべては、最初から仕組まれていた──周到な布石だったのである。


予兆は、確かにあった。

だが、帝国はそれに気づけなかった。


「なぜこんなに早い?」

「アストレイアで叩ききれなかったのか?」

「そもそも、あの戦いは不十分だったのではないか。」


軍務院では疑念が飛び交い、誰も明言を避けた。

決断は遅れ、戦務評議会と軍務院とのあいだで派兵判断が割れる。

その間にも、北西の布陣は崩されてゆく。

前回の襲撃とは比べ物にならぬ規模の軍勢が、補給港を目がけて進軍していた。

そうした状況に陥ってから、帝国は猶予がないとようやく判断するに至る。


やがて、軍議では一人の名が挙がった。

バラウド将軍。

北辺の重鎮であり、老齢ながらも健在。

突撃こそが最大の防衛と信じて疑わぬその戦いぶりは有名で、その功績もまた大きかった。


「正面から押し返すなら、あの人しかおるまい。」

「いま拠点を固められる前に叩けば、港の奪還も可能だ。」

そうした声が次々と重なり、彼に白羽の矢が立つ。


知らせを受けたとき、シアトリヒはただ静かに笑った。

冬が終われば、再び攻めてくると気付いていたからだ。

先の戦にて、敵は不利になった途端、あっさり兵を退いた。

思えば、次を見据えていたからできたことだったのだろう。

そう考えれば、今の動きは必然に過ぎない。


「気づくのが、遅い。」


独りごちて、彼は布令書を畳んだ。

傍らの腹心がうなずく。


「我が君の予見通りの展開になりましたな。

前回、粘着せずに引いた裏の目的がこれではっきりしました。敵は最初から、ここを狙っていた……」


「その通りだ。港と街道を抑えられたら、北の勢力図は一気にベル・トラーナの方へ傾く。

それを狙って動いていたようだ。」


「果たして正攻法で勝てるでしょうか?」


「どうだろう。後手に回った上に、港という最強の切り札がある。」


シアトリヒは目を伏せ、低く吐き捨てる。


「まあ、将軍のお手並みを拝見しようではないか。」


沈黙ののち、傍らに控えるエルハルトがぽつりと呟いた。


「将軍はリューディア西岸戦役で敵の野営地を蹂躙し、一挙に戦局を覆した方。

そう簡単には敗れますまい。」


「それならそれでいい。こっちにお鉢が回ってくることだけは、勘弁願いたいものだ。」


バラウド将軍は任務を受け入れ、数千の兵とともに北方へと進発した。

「突撃こそ最大の防衛」その信条のまま、彼は迷わず港そのものを目指す。

そして夜明けとともに正面から総攻撃を仕掛け、敵を押し返しつつ港湾部への突入を試みた。


先鋒は果敢に倉庫群に取りつき、桟橋まで攻め寄せる。

いくつかの要所を奪い、敵補給船の一部を炎上させるなど戦果もあった。

「老いてなお猛し」その言葉を証明するような電撃的な動きだった。


だが、敵は動じなかった。

ベル・トラーナ軍は港湾施設の奥に籠もり、予備兵力を巧みに運用しつつ補給を維持、要塞化した岸壁を固く守った。

補給路を完全に断てないまま攻勢は鈍り、いつしか逆転し始める。

帝国軍の兵糧・馬・弾薬が尽きてきたのだ。


戦える兵はいても、食わせる糧がない。

兵站を握られた帝国軍は、じわじわと消耗していく。

それでも老将は撤退を選ばなかった。

「ここで引けば国が死ぬ」その言葉を胸に歯を食い縛る。

が、時間は冷酷だった。

ついには戦線が脆くなり、包囲の兆しが見え始めたその日の夜、彼は帝都へ助けを求める。


「補給、叶わず。兵糧、尽きかけております。至急援軍を。」


報せが届いたとき、帝都は静まり返った。

軍務院ではただちに増援の是非が議論されたが、それ自体に異論はなかった。

問題は誰を行かせるか、それだけだった。


現地の地理に通じ、敵の作戦を正確に読み解ける者。

混乱した戦線を立て直す統率力を持ち、なおかつ、動かせるだけの立場にある者。

誰の目にも、条件に適う人物はひとりしかいなかった。

だが、その名を誰も口にはしない。

理由は、言うまでもない。


言葉なき膠着が長く続いたのち、重く沈んだ空気を割って玉座から声が落ちた。


「第一皇子を、謁見の間へ。」


信頼から発せられた言葉ではない。

他に手がないという苦々しい妥協だった。

報せは、すぐさま彼のもとに届く。


「呼び出しがありました。謁見の間へ──とのことです。」


エルハルトが告げた言葉に、シアトリヒは眉ひとつ動かさず立ち上がった。

書棚に背を向けたまま、ぼそりと呟く。


「都合のいい時だけ呼びやがって。」


エルハルトは苦笑を浮かべた。


「想定のうちでは?」


「想定内ではあるが、早すぎだ。

もっと引っ張るかと思ってたが……崩れ方がよほど見苦しかったと見える。」


「我が君を頼る他ない、という結論に至ったようですね。」


「エルハルト……これは“尻拭い”というのだ。」


脱いでいた上着を引っ掛け、肩を回す。


「毎度、失敗の後始末ばかり押し付けられるな。嫌な役回りだ。」


言葉とは裏腹に、動きは迷いがなかった。

こうなることは、端から覚悟していたからだ。

実際に、前回の戦のあとで備えをするべきだとも伝えていた。

だが上は考えすぎだと笑うのみで、重きを置かなかった。

その時から、いずれこうなるだろうということが予測できていたのである。


謁見の間。

冷たい大理石の柱が、鋭く陽光を跳ね返していた。

高い天井に微かな残響だけが漂う。

正面の玉座には、父帝が座している。


睨みつけるでもなく、歓迎するでもない。

ただ、いつもと変わらぬ、値踏みするような視線だけがそこにあった。

それだけで背筋が自然とこわばるのを、シアトリヒはよく知っていた。


「敵の動きを、そなたはどう見るか。」


低く感情の乗らない声。

シアトリヒは、頭を垂れたまま静かに答える。


「敵は港を制圧し、海路の補給を完全に掌握しております。

正面から挑めば、籠城と持久の構えで迎えられるだけ。

輸送路に支えられた敵は、時と共に戦力を充実させていくでしょう。

やがて兵糧を断たれた我が軍が、消耗し尽くすのを待っているのです。」


「……そなたならどう撃って出るのか。」


帝の声は変わらぬまま。

だが、明らかに試す色を帯びていた。

シアトリヒは短く息を整え、言葉を選ぶ。


「備えが堅牢である以上、正攻では勝機は望めません。

正面から叩くのは、岩壁に拳を打ちつけるようなもの。

ならば裂け目を見つけて、内から崩すしかありません。」


言葉に静かな確信を込め、続ける。


「我らが取るべきは二手。

一つは、敵を港の外へ誘い出す陽動。

もう一つは、少数の部隊による内部潜入と攪乱。

その混乱の隙に、一気に急所を衝くこと。

それこそが──」


そこまで言いかけたところで、帝が手を払った。

「もうよい」と言わんばかりの、無言の合図。


「まるで、自分の出番が回ってくることを最初から想定していたようだな。」


一瞬の静寂。

帝は口元を歪めた。


「……ふん。そなたは軍略に冴えている。そこだけは認めてやろう。

だが、器用な男というのは得てして、敵より味方に疎まれる。」


シアトリヒは何も言わない。

言葉は要らないことを知っている。

この場で返す言葉に意味などない。


「諸侯には顔を立てねばならんし、若手将官にも手柄を分け与えねばならん。

だが、こうもあっさりと動かれては、悠長に采配を考えている暇もなくなる。」


言葉の端に皮肉が滲む。

シアトリヒ個人へのあてつけではない。

本来任せるべき他の将たちが“間に合わない”という現実への苛立ち。

そして、よりにもよって──見限ったはずの長子に頼らねばならないという、皇帝自身の屈辱だった。


「他に手がないというのは情けない話よ。」


ため息とともに、刃のような命が下される。


「軍務院にて諸将と詰めよ。

陣立ても増援の可否も、すべてそなたの采配に委ねる。」


帝は眉を寄せ、書見台の書簡に視線を落とすようにして続けた。


「アルマーレの港は北部の生命線だ。失えば北辺一帯が戦力として機能しなくなるという事実を、肝に銘じよ。」


命令というより、冷たい呪いだった。

期待の一言もなければ、信頼の影もない。

ただ、失敗すれば全てが終わるという、冷酷な事実だけを突きつけてくる。


シアトリヒは静かに、深く頭を下げた。

そして頭を垂れたまま思う。


(……このひとは、いつもこうだ。)


責任という名の鎖だけを与え、

信頼も情けも、一度として与えられたことはない。

命じては突き放す、それが常だった。


弟であれば、この場をもっと軽やかに乗りこなすだろう。

笑いを交え、冗談で機嫌を取り、周囲に愛想よく振る舞って──

父もまた、そんな弟を可愛がってやまない。

同じ兄弟でありながら、なぜこうも扱いが違うのか。


幼いころから、疎まれていたのは知っていた。

母の息子であることも理由の一つだろう。

だが、それだけではない──自分の何かが、父の癇に障るらしい。

「可愛げがない」と言われ、子供心に狼狽えた日々。

あてつけのように弟を可愛がる姿を見るのは苦しかった。


そして、ヴァルディス。

助けてはもらえないと分かってはいたが、父はその機会を待ちわびていたかのように自分を切り捨てた。

それだけに留まらず、価値を奪われた自分が人々から嘲笑される様を見て、喜びすら抱いているようだった。

帝の姿は、母に抱いた負の感情を自分にぶつけて溜飲を下げているようにも見えたものだ。


唇を強く噛み締め、思考を断ち切る。


──それでも、従うしかない。

死ぬまで、自分はこの男の息子であることから逃れられないのだから。


顔を上げたとき、父帝はもう別の方向を見ていた。

すでに、関心は他に移っている。

シアトリヒは無言で踵を返し、扉へと向かった。

謁見の間を後にし、長い回廊を歩いてゆく。

ほんの少し前に、重ねたあの小さな手の温もりが、どれほど遠くにあるものだったのか。

歩を進めるたび、その現実を痛いほど思い知らされていた。


どれほど理を尽くし、国のために尽力しようと、父にとって自分はただの“苦々しい存在”。

都合のいい時だけ引きずり出され、用が済めばまた片隅へ押しやられる。

命を落としても、惜しまれるのは“便利な駒”をひとつ失ったという、その一点だけだろう。


──親子の情などとっくの昔に破綻している。

それなのに、なぜこんなにも胸が苦しいのか。

なぜまだ、どこかで何かを期待してしまうのか。

その愚かさが、何よりも堪えた。


泥のような嫌悪が、胸の底を這い回る。

負の感情に飲み込まれそうになり、シアトリヒは足を止めて俯いた。

と、そのとき。


「なるほど……やはり陛下は、兄上にお任せになるようですね。」


聞き慣れた声が、回廊の先から響く。

確認するまでもなく、その主は分かっていた。


今日は珍しくひとりらしい。

金糸を織り込んだ軽装の軍礼服に身を包み、肩には白金の飾緒。

皇太子としての威光を、意図せずともまとうような姿だ。

ナイジェルの視線は一瞬、閉ざされた謁見の扉へと流れ──すぐに意味深な笑みが唇に浮かぶ。


「御本心では、キルヒホフ将軍にお任せになりたかったようですが。

まあ、首の皮一枚で繋がっている状況ではそうも言っていられないのでしょう。」


柔らかく笑いながらも、声音に温かさはない。

シアトリヒは眉ひとつ動かすことなく、脇を通り過ぎる。

だがナイジェルは、わざとらしく横に貼りついて歩調を合わせてきた。


「そういえば今度の敵主将は、リューゼ将軍と聞いています。

老獪で抜かりのない方だと伺っておりますが、兄上がどう迎え撃たれるのか興味があるところです。」


「作戦上のことは話せない。」


「それは理解しております。

ですが、わたくしはこの国の皇太子です。

国防の大局くらいは、把握しておく責務があるのでは?」


権威を翳した物言いに、苛立ちを覚える。

シアトリヒは、あえて皮肉を込めて応じた。


「ええ、承知しています。

されど命を受けたばかりの今は、まだ口にできる段階ではありません。」


「妙ですね。陛下が方針も聞かずに任を下すとは思えませんが?」


「たしかに方針は求められましたが、作戦については何も。」


「兄上のことです。すでに何らかの腹案は描いておられるのでしょう?」


「仮にあったとしても、立ち話で語れるものではありません。

この場に誰が耳をそばだてているとも限らない。」


ナイジェルの瞳が剣呑になってゆく。


「何も細かいことをとやかく聞こうというのではないのです。ただ、大局の方針くらい把握したいだけなのに──」


何を企んで、こんなことを聞いてくるのだろうか。

その執拗さに、シアトリヒの声が冷たくなる。


「殿下。

軍規においては、戦場に立たぬ者の干渉は厳に禁じられております。

たとえそれが、皇太子殿下であったとしても例外ではないはず。」


「部外者、ということですか?」


返す声は上擦っていた。


「それ以外に聞こえましたか?」


一切譲らぬ拒絶の意思を突きつけてやると、ナイジェルは足を止める。

一瞬拳を震わせていたが、すぐに満面の笑顔を見せてきた。


「……なるほど。兄上は現場にしか立てぬお立場でしたね。」


言葉の奥底には明らかに毒が潜んでいた。


「余計なことを申し上げました。

ならば、わたくしは“後ろ”で見守るとしましょう。

それが“皇太子”の役目ですから。」


言葉には、“兄は現場で使い潰されるだけの人間”という冷酷な現実が滲んでいた。

背が遠ざかってゆく。

シアトリヒは後ろ姿を見送ることもせず、黙然と足を進めた。


現場にしか立てぬ立場。

何度も頭の内でその言葉が繰り返されている。

誰がそうした?

いつから、こんな場所に追いやられていた?

なぜ、そうなった──


問いを重ねるたびに、胸の奥に鈍い重さが積もってゆく。

苛立ちとも、怒りとも違う。

もっと形のない、声を持たない何か。

まるで、自分という輪郭が曖昧になっていくような感覚だった。

どこを歩いているのかさえ分からなくなるほど、足取りが覚束なくなってゆく。


「殿下。」


いつの間にか背後で控えていたエルハルトが、心配そうに声を掛けてきた。


「いかがなさいました。お顔の色が……」


「何でもない。」


短く返し、足を速める。


「ですが……何でもないような顔にはとても。」


「放っておけ。そう見えるならなおのことだ。いずれ、どうでもよくなる。」


表情には諦めが滲んでいた。

何を変えられるわけでもない。

ならば感情など捨ててしまった方がましだと、そう思っていた。

だが、エルハルトも引かない。

主が壊れてしまうような危うさに気づいているからこそ、引かずに言葉を繋ぐ。


「殿下。わたくしごときが申し上げるのは恐れ多いのですが……どうか、ご自身を、あまり追い詰めすぎませんよう。」


心からの言葉だということは、分かっていた。

ただ、分かっていたとしても。

自分には「何でもないふり」をすることしかできない。

そうして耐えることだけを覚えて、ここまで来てしまったのだから。


「もし……もしも、おひとりで抱えるには重すぎるのなら。」


エルハルトは言い淀んだのち、慎重に言葉を選んで口を開く。


「御心を気遣ってくださる方に、ほんの少しだけでも頼られてはいかがでしょう。」


その瞬間だった。

シアトリヒの視界が赤く染まる。

怒りというより、本能的な拒絶だった。

言葉が、喉を焼くように込み上げてくる。


「余計なことを言うな!」


絞り出すような声だった。

乾いた空気を裂くようにして、回廊に響く。

怒鳴ろうと思ったわけではない。

ただ、どうしても堪えきれなかった。


「あの人には、何一つとして背負わせたくない。私の憂いも、苦しみも……優しい人だからこそ、絶対に……」


彼女の笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。

一緒に痛みを分かち合おうとする人──

だからこそ、背負わせるわけにはいかない。

誰よりも、彼女にだけは。


場に、重い沈黙が落ちた。

エルハルトは頭を垂れる。


「出過ぎました。申し訳ございません。」


「………………」


しばし無言のまま歩き続けていたが、シアトリヒはぽつりと呟いた。


「……怒鳴って、すまなかった。」


空気には、先ほどのような刺々しさはなかった。

どこか気まずそうで、謝罪の色を宿している。


「よほどひどい顔をしているのであろう。そのような顔は兵達にはとても見せられぬ。そなたの勧めに従おう。」


どうせ話さねばならないことだ。

戦に赴く前に、気持ちを整えるためにも。


エルハルトは深く一礼した。

それ以上の言葉はなく、静かに主の後を追った。

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