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2-7

あれやこれやと話し合った結果、おいしいお茶が飲みたいというルナリアの希望が叶えられることに。


指定されたのは、広場の噴水前。

皇宮の外で待ち合わせをするなんて、なんだか不思議な気分である。

石畳にはたくさんの靴音が交差していた。

城下の広場には、春市を目当てに人々が集まりはじめている。

噴水の前でどきどきしながら立っている少女の姿を、誰も気には留めない。


ルナリアは手元の籠を抱きしめ直すと、足元の地面を見つめた。


今日は、ほんの少しだけ雰囲気を変えてみた。

いつもはまとめている髪を、下ろしたままにしてきたのだ。

本当に笑えるくらい、舞い上がっていた自分。

でも彼の目には綺麗な姿で映って欲しくて、勇気をだしてみた。


頬をなでる風が、肩先の髪を揺らす。

足元に揺れる光と影が、胸のざわめきをそのまま映しているようだった。


時間は過ぎているけれど、姿はまだ見えない。

しかしそれも無理はないことだと、ルナリアは自分に言い聞かせた。

またしても北部で戦の動きがあると、最近耳にすることが多いのだ。

軍の動員の話も、じわじわと広がりはじめている。

軍人のあの人は、きっと忙しい。

こんな時期、自分などのために時間を割くのは大変なことに違いないのだ。

誘われたとはいえ、間に受けるのではなかった。

後悔が、胸の奥で波紋のように広がっていく。


通り過ぎてゆく人々の流れを、ぼんやりと目で追った。

家族連れの笑い声が遠くに聞こえる。

手を繋いだ恋人たちが、ゆっくりと噴水の縁を歩いていた。

幸せそうな光景がなぜか遠く感じられて、寂しさが訪れる。


あと少し。

あと少しだけ待って、それでも来なかったら帰ろう──

帰り道に美味しいものでも買って、ちょっぴり自分を甘やかす。

それだけで自分は大丈夫。

そんなことを、朧げに考えていたとき。

人混みの向こう側で、誰かが走ってくるのが見えた。

すれ違う人にぶつかって、あたふたと頭を下げ、またすぐに駆け出す。

慌てた様子のその人物が、自分の方にまっすぐ向かってきていると気づいた瞬間、胸の鼓動が跳ね上がった。


そして──

息を切らして立ち止まったその人を見て、ルナリアの目が大きく見開かれる。


「す、すみません……っ、遅れました……」


シャツの上に暗い色のコートをざっくりと羽織るラミエル。

普段の堅い軍服姿とは違う、気取らない装いだった。

けれど、どこまでも整ったその顔立ちは人目を引くらしく、通りがかる人々が振り返っている。


彼は視線など気にする様子もなく、ただルナリアの前に立って深々と頭を下げた。


「本当に申し訳ありません。春市で通りが規制されていることを、すっかり失念しておりました。

書類の整理だけなら間に合うと思っていたのですが、見通しが甘かったようです……」


「だ、大丈夫です……!」


慌てて首を振るルナリア。


「わた、わたしも、ぎりぎりで着いたくらいですし、そんなに待っていません。

それに、あちこち見ていて楽しそうだったので……時間も、持て余していませんでしたから。」


ほんの少しの嘘。

でも彼を責めたくなかった。

むしろ、駆けつけてくれたことが嬉しくて──

さっきまで冷えていた心が温もりをとりもどしてゆくのを感じていた。


「待たせてごめんね、ルゥ。」


耳に届いたその声が、どこかしょんぼりとした響きを帯びているのに気づく。

彼にしては、珍しく所在なさげな様子だった。

謝っているのは彼なのに、困っているのは自分のほうのような気がしたルナリアは慌てて目を逸らす。


「あ、あの……ラム。髪、ちょっと崩れてます。」


「あ、本当ですか。」


ぴくりと反応したラミエルを見て、ルナリアは笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。


「座ってください。直しますね。」


身長差のせいで、立ったままでは手が届かない。

ルナリアは噴水の縁を指さし、ラミエルをそこに座らせる。

従うように腰かけた彼の背に回り、崩れかけていた髪を手櫛で整えた。

さらさらと指を滑る髪は、風に触れた絹のようで心地よい手触りだ。

器用に髪紐を操り、きゅっと結び直す。


「はい、これで大丈夫、ですよ。」


「ありがとう。なんだか、少し恥ずかしいですね。」


照れくさそうに笑う顔が、いつになく柔らかかった。

普段よりも無防備な表情。

それが愛おしくて、ルナリアの頬にも熱が灯る。


ふたりはそのまま並んで、しばらく噴水の縁に腰を下ろしていた。

春の陽射しと、水のきらめき。

ゆったりとした時間が、鼓動のリズムに重なっていく。

このまま何もせずに時間が過ぎてもいいかもと思えるほど、優しい時間だった。

なかなか離れ難いなどと考えていたら、ラミエルが立ち上がって手を差し出してくる。

ルナリアはおっかなびっくり、彼の手に自分の手を重ねた。


「さて。あなたのご希望は、美味しいお茶を飲むことでしたね。

ちょうどよさそうな店を見つけておきました。ここから少し歩きますが……付き合っていただけますか?」


「はい……でも、その途中で、春市も見てみたいです。来るときに見ていて、わくわくしました。」


「もちろん。今日のあなたは、わたしのお客様ですから。」


その一言が、また胸の奥を震わせる。

ラミエルの手を握り返しながら、ルナリアは小さく頷いた。

ふたりは並んで歩き出す。


通りは、春市の賑わいで満ちていた。

布地や雑貨、香辛料、見たことのない果物、野菜、花、食品。

普段帝都ではあまり見かけない品々が並び、ルナリアの瞳がきらきらと輝く。


「このお皿……模様が不思議です。なんだか、言葉みたい。」


「ああ、それは東方の山岳地帯で使われている文字ですね。祈りや祝福の言葉がよく描かれます。」


「えっ、これってお祈りなんですか?お皿なのに?」


「道具に言葉を刻む文化なんですよ。食卓にも神聖さを持ち込むと、聞いたことがあります。」


ラミエルは博学だ。

質問を投げ掛ける彼女に、ひとつひとつ丁寧に答えてくれる。

街を歩いているはずなのに、まるでどこか知らない国を旅しているような気持ちだった。


「この香りは、香辛料?でも初めてかも。どこか違う国のものなんでしょうか。」


「おそらく、南方から運ばれてきたものかと。

ナジール地方との交易が再開されたばかりですから、今は珍しいかもしれません。」


「ナジール……?」


「一度嗅いだら忘れられないような、独特の香りがしますよね。煮込んだりする郷土料理に使われていました。」


ルナリアは口の中で確かめるように繰り返した。

聞いたことはあっても、遠い土地の話だと思っていたのだ。

けれどラミエルがそれを当たり前のように口にしたので、不思議な気分になる。


「ご存知なのですか?」


「多少は。北部の前は、南部の戦場にいたんですよ。」


ラミエルの声が、少しだけ遠くなる。

過去の記憶をひとつだけ切り取って、手渡すような語り方だった。


「……そうだったんですね。」


「こういう香辛料、たくさん使うんです。向こうの料理は、けっこう辛いですよ。」


香辛料の山に視線を向けながら、彼は笑う。


「辛い料理は、苦手なのですか?」


「軍隊では贅沢は言えませんから、なんでもいける筈だったのですけれどね。汗が止まらない辛さで。」


「うふふふ。」


大汗をかきながら食事をしている光景が目に浮かび、ルナリアは笑ってしまった。


「気候も帝国と違っていて、蒸し暑いんです。だから慣れなくて、いろいろと難儀しました。

でも、素晴らしく美しい国なんですよ。青い海があって……太陽に照らされた砂の匂いや、波の音を時々思い出しますね。」


「海……」


足を止め、小さく呟く。


「海は見たことありますか?」


見たことがないと言うと、彼は慈しむような眼差しで微笑んだ。


「いつかあなたにも見せてあげたいですね。」


“いつか”。

言葉が胸に残る。

叶わぬ未来だと知りながらも、嬉しかった。


さらに通りを進む。

マーケットの終わり近くに、小さな露店があった。

玻璃玉を連ねた飾りが風に揺れ、陽の光を受けて虹色の粒を散らしている。

春市の喧騒のなかでも、その輝きはひときわ目を引いていた。


「綺麗……」


珍しさに惹かれた子供たちが足を止めている。

その輪に混じって、ルナリアも立ち止まっていた。

じっと見入る横顔は、無邪気な子供と変わらない。

その様子を、ラミエルは少し後ろから黙って見つめていた。


「癒されますね。」


「サイズもいろいろあります。これは……手のひらに収まりそう。」


「それは手首に巻くやつだよ。」


顔を出したのは露店の主だった。

籠を抱えたまま、にこにこと笑っている。


「色もいろいろあるけど、どれも一点ものさ。」


ラミエルは視線をルナリアに向けた。


「ルゥ、どの色が綺麗だと思います?」


「好きなのは……これ、かな。」


指さしたのは、夜を溶かしたような深い青の玻璃玉だった。


「じゃあ、それを。」


「まいど!」


「えっ……え、いいんですか……?」


ルナリアが戸惑うのをよそに、ラミエルは彼女の手を取った。

細い手首に紐を巻き、結ぶ。


「ありがとう、ございます……すごく綺麗、嬉しいです。」


「どうしてその色を?もっと明るいものもありましたけど。」


「……いいんです。どうしてもこれが、よかったの。」


そう言って目を逸らす彼女に、ラミエルは少しだけ首を捻った。

そして、再び店へと戻っていく。


ルナリアが振り返ると、彼は別の玻璃玉を手にしていた。

それは、自分の瞳を思わせるような空の色。

そして何も言わず、手首に巻いていた。


ふたりの手首に、それぞれ相手の色。

それだけで、言葉はいらなかった。


通りの賑わいを背にまた歩き出す。

春市の終わりを抜けると人波は次第にまばらになり、喧騒は静けさに変わっていった。

そのまま橋に差しかかり、足を止める。


橋の下を流れる水面が、陽の光を反射してきらきらと光っていた。

川沿いの並木は若葉をつけ、枝の隙間からこぼれた光が地面に淡く模様を描いていた。


ルナリアは手首の玻璃玉を掲げ、光に透かして見つめる。

深い青がきらめきを帯び、水面のように静かに揺れて見えた。

嬉しさの隠せない表情。

傍らに立つラミエルは、穏やかな眼差しで彼女の様子を眺めている。


と、橋の向こう側から人の声が聞こえてきた。


「……また戦が始まるかもってさ。近く徴兵されるらしいよ。軍のやつが言ってた。」


「はあ?北で揉めてたばかりだろ。いつになったら終わるんだか。税は上がる一方だしな。」


「うちの弟、春で兵役の年齢になっちまったから今度は取られるな。前回、結構悲惨だったらしいぜ。」


「勝ったんじゃなかったのか?」


「それがそうでもないらしい。帰ってこなかったって奴が割といるって聞いた。死体すら戻ってきてねぇとか。」


「親御さん、やりきれねぇだろうな。」


「上の方が無茶な命令を繰り返してたらしいよ。」


「まあた“狂犬”様か。随分好戦的なんだってな。手柄立てるために、必死なんだって聞いたことがある。」


「はあ?手柄のために無茶な命令とか、勘弁してくれよなあ。」


「ま、上のことはよくわからんけど、いろいろあるんじゃねえの?軍部でもあんまりよく思われてねえらしいし。」


「そんな戦い方してたら、そうなるだろうよ。」


肩を揺らしながら笑い合い、ふたりはそのまま通りを離れていった。

どこにでもある、ただの世間話。

耳には入っていたが、特に気に留めていなかった。


ルナリアはラミエルの玻璃玉も見せてもらおうと思い、隣に視線を向けてみれば──息が止まりそうになる。

彼から笑顔がすっかり消えていたからだ。


光を遮るような影が、頬に落ちている。

さっきまであんなに穏やかな表情だったのに、今はどこか遠くへ行ってしまいそうな気配を纏っていた。

胸の奥に、不安が忍び寄る。


「……ラム?」


名を呼ぶとラミエルははっとし、ルナリアの方を振り返った。

瞳には、寂しげな色が揺れている。

不安がさらに強まったが、彼は何も言わず首を振った。

それが答えなのだと悟ったルナリアは、口を噤んだ。


しばし重苦しい沈黙が流れる。

いつの間にか黙ったまま、歩き出していた。

言葉を交わすことなく並んで橋を渡り、川沿いの道を進む。

ルナリアは何も聞かなかった。

ただ隣に寄り添い、ラミエルが何も語らないままでも受け止めるように歩みを揃えていた。


彼はときどき、穴が空いたような遠い目をすることがある。

何かの記憶に触れているのか。

それとも言葉にならない想いに沈んでいるのか──

ルナリアはそのことを知っていた。

だからそういう時は、彼が話せるようになるまで待っていようと決めている。

でも。

今はなんだか放っておけない気がした。

一瞬だけ躊躇して──そっと手を取る。

思いつくと言ったらこれくらい。

でも指先に想いを乗せて、少しだけ握ってみた。


ラミエルは、不意を突かれたようにこちらを見る。

けれどすぐに、手を握り返してくれた。


「……お茶、飲みに行きましょうか。」


いつもの調子に戻ったようで、内心でほっとする。


「この先にね、美味しい焼き菓子を出すお店があるんです。午後の早い時間には売り切れてしまうようなので、少し急ぎましょうか。」


ルナリアは小さく頷いた。


「はい。楽しみ、です。」


連れて行ってもらった店は、本当に素晴らしかった。

お茶を飲むだけの空間なのに洗練されており、居心地のよさにこだわっている店だという感想を抱く。

すすめられて飲んだ一杯も、人気の焼き菓子も申し分のない味わいだった。

会話も弾み、楽しいひと時を共有する。

店の客層や瀟酒な様相に敷居の高さを覚えて気後れしたものの、それを意識させないように彼が配慮してくれたので満ち足りた時間になった。

そうして過ごした時間は、静かで優しくて──

ほんの少し前まで漂っていた翳りすら、どこか遠いものに感じられるほどだった。


お茶を終えたあとは、皇宮の方向へと戻りながら通りをぶらついた。

軒先に古書を並べる本屋では、ラミエルが積まれた文集に足を止める。

表紙の埃を払って、何かを懐かしむように目を細めていた。

その横顔を、ルナリアは黙って見上げる。


道具屋が立ち並ぶ一角では、錠前や計測器といった用途の分からない道具が無造作に置かれており、ふたりは首を傾げながら答え合わせをするように通り過ぎる。

並ぶそれらの中にどこか自分たちの奇妙な歩調を見出すような気もして、笑ってしまった。


そしてひとつの雑貨屋で足が止まる。

藤色の綺麗なリボンが目に入り、手に取って眺めていると、いつの間にか彼の手によって会計を終えられていた。

赤面しながらも、受け取ったリボンを握りしめる。

──お返しに自分の手で、彼の髪を結うための何かを作って贈ろう。

そんな考えが、自然と胸に芽生えていた。


西の空に夕陽が沈んでゆく。

赤く染まった雲が街を包み込み、建物の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。

昼間の喧騒が嘘のように遠のき、通りには静けさが戻っている。


並んで立つふたりの影が、長く石畳に伸びていた。

終わってしまうのが名残惜しくて、その場から動けずにいる。


どちらもまだ、歩き出したくなかった。

でも、時間は止まってくれない。

仕方なく歩き出すと、ほんの数歩で立ち止まってしまう。


ラミエルは目を細めていた。

声にはしないが、はにかむような笑顔を浮かべている。

ルナリアには言いたいことが伝わった。

だから彼女も、小さくうなずく。


また、行こうね。

うん。


──たったそれだけのやり取りが、今日という日を特別なものに変えていた。

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