2-6
この一年、少しでも手が空けば、詩集に挟まれた手紙を確かめに古文書室を訪れるのが習慣になっていた。
昼下がり。
仕事がキリよく片付いたので、ルナリアは件の場所に足をむける。
誰にも言ったことはないが、これはもう“癖”のようなものになっていた。
注意深く扉を閉め、棚の一角へと歩み寄る。
そこには、いつものように静かにしまわれている一冊がある。
彼女は手を伸ばし、その背表紙をなぞってから、そっと引き抜いた。
名も素性も知らぬ相手と三年ものあいだ文を交わした、古い詩集。
今では顔を合わせて言葉を交わせる関係になったが、それでもまだこの詩集はふたりのあいだに在り続けている。
長い手紙を交わすことはもうないけれど、文通は折々でごく短い言葉を交わすように形を変えた。
それが“会いたい”という合図であることは言うまでもない。
頁を繰ると、今日もそこに一枚の紙片が挟まれていた。
指先で拾い上げ、折りを開く。
記された一節を目にした瞬間──ルナリアは息を詰めた。
「今宵は月のない夜のようです。
空に月が見当たらず、寂しい夜になるかもしれません。」
それだけの文だった。
けれど、これまでと明らかに異なる気配があった。
いつもなら詩のように柔らかくて優しい言葉ばかりなのに、今日の文には比喩も婉曲もなかった。
「寂しい」と、はっきり記されていた。
ルナリアは紙片を閉じてポケットに仕舞う。
心はもう、あの場所へと向かい始めていた。
そうして日々の務めを終え、夜を迎える。
月のない夜。
光の差さない空はひどく暗く、足元が心許ない。
けれど、彼女はそれを怖いとは思わなかった。
むしろ、どこかほっとするような気さえしていた。
光のない夜をみなは忌み嫌う。
視界を奪い、不安を呼び寄せるからだ。
でも彼女は、この暗さを優しさのようにも思っていた。
すべてを照らし出さないからこそ、守られるものがある。
形にならない傷や、言葉にできない思いは、こうして闇の中に伏せておける。
見えないということは、時に救いになる。
だから暗い夜が、悪いことばかりだとは思わない。
草木が揺れる小径を、足元を確かめながらゆっくりと進む。
遠ざかる宮殿の灯の明かりの先、庭園の奥。
やがて、木立のあいだから四阿の影が浮かび上がってくる。
柱のもとには、小さなランタンの灯がひとつ。
風に揺れる光が、夜の闇を静かに照らしていた。
いつもは自分が待っているのに、今晩は珍しいことにもう先客がいるらしい。
ルナリアは足を止め、しばし佇む。
そしてゆっくり一歩を踏み出し、四阿に足を踏み入れた。
その瞬間。
何も言わず、彼はすっと立ち上がる。
そしてそのままルナリアの身体を腕の中に収めた。
あまりに自然で、あまりに突然で──思わず息を呑む。
もっと間を取る人だった。
ふだんなら、声をかけて微笑んでから手を伸ばすような人なのだ。
けれど今夜は何も告げず、衝動に任せたかのように腕を回してきた。
「……どうか、しましたか?」
ルナリアは戸惑いながらも、彼の胸に身を委ねた。
肩に額を預けるような仕草に、かすかな甘えが混じっているのを感じる。
こんなふうに寄りかかられたのは、初めてだった。
背伸びして髪に指を通す。
さらさらの感触が、手の中を抜けていった。
彼はしばらく何も言わずにいたが、ぽつりと声を落とす。
「ただ、会いたかったのです。」
いつもは余裕のある人だった。
感情に流されることなく、静かに受け止めてくれる側だった。
だが今夜は、その均衡が揺らいでいる。
しばし言葉を交わさず、寄り添っていた。
ルナリアは、なにも訊かない。
語られぬものを抱えている人に、言葉はときに重すぎると知っていたからだ。
「朔の夜は、不思議です。
人の声も、気配も、すべてが遠のいて……まるで、自分ひとりになったような気がして。」
声には、沈んだ響きがあった。
ルナリアは彼の背を撫でてやる。
「そう、ですね。その気持ち、なんとなく分かります。
でも、そういう夜だからこそ、救われることもあるとも思うんです。
見えすぎるものや触れたくないことを、暗闇が包んでくれるから。
わたしは……光のない夜は、案外優しいのかもしれないと思っています。」
彼は動きを止める。
「優しい、ですか。」
思いもよらなかったというように、息の間に言葉が落ちた。
朔の夜が優しいなどとは、一度も考えたことがなかったのだろう。
「なるほど。たしかに、そうかもしれませんね。」
「見たくないものも、見せたくないものも、
夜の闇が一度、引き取ってくれるのなら──少し、息ができる気がしませんか。」
抱きとめていた腕から力が抜けた。
わずかながら、張りつめた気配がほどけていく。
ラミエルは身を起こし、ルナリアの手を取って席へ向かう。
並んで座るには窮屈な椅子だったため、彼女を膝の上に抱いた。
ほどいた腕をまた巻き付ける仕草が幼児のようにも見え、切なさが訪れる。
風は止んでいた。
庭に広がる夜は、まるで見守るかのように静かだった。
「今日は、どんな日でしたか?」
問いかけは、どこか確かめるような響きを含んでいた。
ルナリアは少し考えて、言葉を選んでから返す。
「春支度で、一日中あちこち走り回っていました。
絨毯を剥がしたり、カーテンを取り替えたり……
背が届かなくて踏み台に乗っていたら、同じ持ち場の方に“お子様はお呼びでないわよ”なんて言われて、追い払われてしまって。」
少し不満げに言いながらも、口を緩めた。
「ちびなんて失礼しちゃいますよね。
頭にきたので、下の階の絨毯、全部ひとりで取り替えてやりました。」
ラミエルが吹き出した。
「それはまた、ずいぶん思い切りましたね。」
「だって、絨毯の張り替えなら背丈なんて関係ありませんから。」
彼は堪えきれず声を立てて笑った。
「ルゥは、なかなか豪胆なんですね。小さくても、大きな……」
「今、ちびって言いました?」
ルナリアがじっと見上げると、ラミエルは片眉を上げて肩をすくめる。
「いや、言ったかな……どうだろう。」
「はっきりしませんね?」
「気のせいかもしれません。ルゥの聞き間違いということで。」
とぼけて返す彼の笑い声が、四阿の中に朗らかに響いた。
その声には、先ほどまでの沈黙も翳りももうなかった。
そう感じたルナリアは、密かに胸を撫でおろした。
「いいですね。あなたがどのように過ごしておられるのかが、目に浮かぶようです。意外に意地っ張りだということも。」
ラミエルの言葉に、ルナリアは少し視線をずらす。
「今日は頭に来ていましたが、普段はそうでもないのです。言われっぱなしも多いですから。」
「ふふ……」
目元を緩めて、彼は笑い掛けてきた。
「わたしも見てみたいです。昼間のあなた。」
「……え?」
不意を突かれたような声が漏れる。
ラミエルはまっすぐ彼女を見ていた。
「考えてみたら、夜ばかりですよね。
こうして顔を合わせるようになって、もう一年になるのに──明るい場所で会ったことが一度もない。」
「そういえば……そう、ですね。」
当たり前のように続いてきた夜の逢瀬。
その言葉に胸が痛む。
自分たちはずっと夜の帳の中でしか触れ合ってこなかったのだと、いまになって気づかされた。
ラミエルは節目がちになる。
「わたしもあなたも、明るすぎる世界では息ができない。
そういうわたしたちの逢瀬は、夜こそがふさわしいのかもしれません。
けれど、日差しの下でこの小さな月の欠片は、どんなふうに輝くのだろうと考えることがあります。」
抱き寄せる腕に力が込められた。
ルナリアの心臓が大きく跳ねる。
(それって……)
熱が頬に集まっていく。
どう反応すればいいのか迷っている様子が伝わったのか、ラミエルが気遣わしげに笑った。
「あなたさえ良ければ、余暇の一日をわたしと過ごしていただきたいのですが、難しいお願いでしょうか?」
ルナリアは目を瞬かせる。
胸の内に喜びが広がっているのに、混乱していた。
これまで経験のない誘いに、思考が追いつかない。
「ほ、ほんとうに……?」
「もちろんです。」
徐にラミエルは手をとり、丁寧に掌を返す。
そして甲に唇を寄せた。
唇の熱がそのまま胸に届き、激しく脈を打ち始める。
「たとえば、どんなふうに過ごしてみたいですか?」
気がつけば、そんなふうに問いかけられていた。
「出かけるとしたら……そうですね。帝都の近くでも、景色のよい場所はいくつかあります。
少し遠くでも構わなければ、遠掛けに出ることもできますよ。
もちろん、城下をぶらぶら歩くというのでも。目的を決めずに、ただ街を眺めるのも楽しいかもしれません。」
語られる情景が、次第に心のなかで像を結びはじめる。
街を歩き、手をつないで露店を覗くふたりの姿。
風の通る高台で、並んで空を仰ぐ時間。
遠掛けも魅力的だった。
でも──馬は少し、怖い。
あれもこれもと浮かんでくるのに、結論は出せず、胸の中がそわそわと騒がしい。
そんな様子を見てか、ラミエルは楽しげに目を細めていた。
「決めかねていますね?」
「……はい。」
「それも悪くない。でも余暇は一日だけではありません。
行けなかった場所には、次の機会に。そうして、いろいろな記憶を重ねていけたらと思っています。」
すでに溢れてしまいそうなほどいっぱいだったというのに、さらに温かいもので胸が満たされていく。
素敵な提案がとても嬉しい。
余暇を一緒に過ごすなんて、どれだけ楽しいことだろう。
あれもやりたいし、これもやりたいと想像が尽きない。
でも。
それなのに、どこかが軋むような痛みも同時に覚えていた。
自分は罪を背負った娘だ。
光の中にいるべき存在ではない。
いつか、この手を離さねばならぬ時が必ず訪れる。
そんな運命を、いつもどこかで覚悟していた。
だけど今だけは。
その時が来るまではこの温もりを手離したくはない。
わかっているから今だけは。
と、そう思う。




