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2-5

夕刻の陽が斜めに差し込む私室には、淡い静寂が満ちていた。

窓際の机に向かい、シアトリヒは軍装のまま腰を下ろしていた。

背筋は伸び、肩にかけたマントはひと筋の皺もない。

その姿は、まるで慰霊式典の続きをまだ引き受けているかのようだった。


扉を叩く音。

許しを得て、エルハルトが中へ入る。


「殿下。先の件、確認が取れました。」


主は答えず、窓の外を眺めたまま動かない。

それでも、エルハルトは報告を続けた。


「騒動の最中、声を上げた者の一部に不審な人物が含まれておりました。

名簿との照合では確認が取れたのはごく一部。

恐らく、あらかじめ命を受けた者が遺族の列に紛れていたものと見られます。」


数拍の沈黙。

やがて椅子に座ったまま、シアトリヒが言葉を落とす。


「……だとしても、責は変わらぬ。」


声音には何の揺らぎもなかった。

ただ、事実を呑み込んだ者の静けさだけがあった。


「遺族の前に立つ以上、どのような声も受けねばならぬのだ。

仮に仕込みであったとしても、わたしの采配のもとで命が失われた。それは変わらない。」


エルハルトは言葉を失った。


まただ──

あの時と、まったく同じだ。

母君が亡くなられた日。

彼はまるで何も感じていないかのように、ただ黙って立ち尽くしていた。

葬儀でも、涙は一滴も見せなかった。

慰めの言葉にも、誰の声にも、反応すら返さなかった。

人々はそんな彼を「冷たい」と詰った。


だが、違う。

事実は全く異なる。


あまりに悲しみが深いと、人は涙すら流せなくなるものだ。

深淵の前では、悲嘆という感情すら凍りついてしまう。

葬列の中にありながら、彼はどこにも存在しないかのようだった。

現実のすべてを遠くから眺めているかのように、涙も怒りも何ひとつ表に出すことはなく、静かに立っていた。


その痛みがどれほどのものであったか。

知っている者は少ない。


ヴァルディス戦線。

作戦は、戦術としては成功だった。

だが、捕虜収容地での疫病と暴動──そしてそこから始まった、一連の悪意ある流言。


いつしか、第一皇子は「狂犬皇子」と嘲られるようになっていた。

虐殺者、冷酷非道な殺人鬼、卑劣な皇族。

ありもしない“証言”と“証拠”が、都の空気を覆っていた。


そして毒牙は主君の母、リゼリア皇妃にも及んだ。


彼女は必死だった。

息子の潔白を示すため、事件の詳細な調査に自ら乗り出し、いくつもの嘆願を出した。

関係者に証言を乞い、調査委員会を開かせ、証拠の保全にも努めた。

しかし、彼女の行動をよく思わぬ人間たちがいた。


ある日、皇妃は用務のために外出した。

帰路、群衆に紛れた暴漢たちが彼女を襲う。

従者は斬り伏せられ、悲鳴と怒号のなかで皇妃は倒れた。

暴徒は「天誅!」と叫んでいたという。


実行犯はその場で捕らえられたが、取り調べに移される前に仕込んであった毒で自殺を遂げた。

さらに現場に残された証拠や証言をもとに複数の容疑者が挙げられたものの、彼らもまた次々と不審な死を遂げた。

拘束直前に自ら命を絶った者もあれば、謎の刺客に襲われた者もいた。

不可解な事件が続き、真相は闇の中へと押し込められた。

そんな中で葬儀は急ぎ執り行われ、襲撃事件は「賊徒による暴挙」として無理やり幕を閉じる。


表向きには、ひとつの噂が広まった。

暴徒が叫んでいた言葉からすれば、犯人はヴァルディスで命を落とした者たちの遺族に違いない、と。

市井の人々も、宮廷の一部の者も、その解釈を疑わなかった。

むしろ「狂犬皇子」に報いが下ったのだと、陰で安堵を洩らす者すらいた。

だが、近くで事態を見ていた者ほど、別の噂を口にした。

容疑者が次々と不審な死を遂げたのは偶然ではない。

むしろ皇妃が第一皇子の潔白を証明する確かな証拠を掴みかけていたがゆえに、口を封じられたのではないか、と。


二つの説は並び立ちながら、決して交わることはなかった。

どちらにせよ裏づける手立てはなく、やがて誰もその件を口にしなくなる。

ただひとり、真実を知り得たはずの第一皇子でさえ――何も語らなかった。


その第一皇子は。

母が物言わぬ姿で皇宮に戻ったとき、ただ一度だけその亡骸を抱き竦めた。

胸に抱き寄せながらも、嗚咽も叫びもなく。

目には涙すら浮かんでいなかった。

そして、それきり彼は何も言わなくなる。


しかしその日を境に変わってしまった。

まるでどこかに魂の一部を置き忘れてしまったかのように。

皇太子の位を剥奪されても、一言の抗議もせず。

かつての宮から追われ、荒れた離宮へ移されても不満ひとつ漏らすことはなかった。


誰に何を言われても、反論しない。

それがどれほど荒唐無稽な酷い話であっても、否定も肯定もしない。

ただ、噂の中に黙って立っているだけだった。


彼は、自分を守ることをやめたのだ。

怒らず、反論せず、ただ静かに責めを受け入れる。

それが理不尽でも誤解でも「怒る資格は自分にはない」と言い聞かせているかのように。


母を守れなかった悔い。

自分が母を死へと追いやったという絶望。

そして、真実を語っても誰にも届かなかったという無力感。

今も彼は、それらをひとつ残らず背負い続けている。


「……殿下」


掛けた声に、返答はなかった。


机上には、一輪の白い花が置かれている。

今日の式典で捧げられていたひとつ。

誰のための花かなど、問うまでもないと思った。

静かに膝を折り、深く一礼する。


彼の痛みは、決して癒えることはない。

けれど、この背をひとりにはしたくない。

そう胸の内で誓いながら、エルハルトは扉へ向かう。


夕陽の中、主君の影は──どこまでも儚く、静かに伸びていた。

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