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そうして人知れず、恋人たちが夜闇の中で寄り添っていた頃──
社交の中心である大広間では、光と喧騒が渦を巻いていた。
琥珀の燈火が壁の金装を照らし、香油と葡萄酒の匂いが立ち込めている。
杯はすでに幾度も空けられ、笑い声には酔いと熱気が滲んでいた。
床に響く靴音と衣擦れが騒がしく交差する中、あちこちで囁かれる言葉には皮肉と嘲りがまじり合い、宴の空気を濁らせている。
その片隅。
円柱の陰に一人静かに佇んでいる、従騎士長エルハルト。
主である第一皇子を見送ったのちも儀礼上の席を離れず、その場に控えている。
騎士として当然の在り方だ。
けれど、胸中には重く沈むものがあった。
というのも、今広間を賑わせている話題は、彼の敬愛する主君を貶めるものばかりだったからだ。
皇太子ナイジェルと取り巻きたちは杯を掲げ、場も憚ることなく下卑た話に花を咲かせている。
「第一皇子殿下は、どうにも“目立ちたがり”でいらっしゃる。」
一人の伯爵が肩を竦めて吐き捨てた。
「前線でも自ら陣頭に立たれているとか。
兵を鼓舞するおつもりか知りませんが……まるで芝居でも打っておられるようにも見えますな。」
「指揮など、任せられる部下は山ほどいるでしょうに。よほど手柄を譲りたくないのでしょう。」
「まさか勲功でも立てて、陛下のご機嫌を取り戻そうとでも?
皇太子の椅子を追われてなお、その座が惜しいと見えるのは、いささか哀れですな。」
「その陛下にすら、今や露骨に距離を取られているというのに……気づいておられないのは、あのお方ご自身ばかりなり。」
「はは、まったく。気づかぬは“当人のみ”ですな。」
小さく巻き起こる笑い。
笑い声の渦の中心で、皇太子は愉快そうに杯を揺らしていた。
「しかしまあ、お気の毒ではありますな。
ヴァルディス戦線までは見事に軍を動かし、細部に至るまで緻密な采配を見せておいでだったのに。」
と、ひとりが肩を竦めれば、すかさず別の声が被さる。
「ふふ、件の“はなし”とやらは、実にうまく働きましたな。」
「これ、めったなことを。」
別の侯爵が扇を口元に当て、声を潜めて笑う。
「真実など、結局は勝者の口から語られるもの。
あの戦で何があったかなど、もはや誰も気にしはいたしますまい。」
「おかげで、皇嗣の座は弟君に譲られることとなり……」
そう言って、侯爵はちらりとナイジェルに目を向ける。
そして芝居がかった仕草で頭を垂れ、唇に媚びるような笑みを刻んだ。
ナイジェルは薄く口元を歪め、杯を揺らす。
「侯爵のお言葉には、いささか過ぎたところがございますよ。」
「なにを仰いますやら。」
侯爵は含み笑いを返す。
「気位ばかり高い第一皇子殿下よりも、こうして気軽にお話を許してくださる皇太子殿下のほうが、帝国にとってはよほど幸福でございましょうな。」
周囲の貴族たちはくすくすと笑い声を上げた。
ナイジェルはその笑いを嗜むように目を細め、琥珀色の酒を喉に流し込む。
「いずれ帝国の行く末は、然るべきところへ収まることでしょう。」
声音には追い落とした者だけが持つ、冷たい陶酔が滲んでいた。
聞きながら、エルハルトは静かに息を潜めていた。
円柱の陰に控える彼に、誰ひとり目を向けようとはしない。
本当に気づかれていないのか、それとも──わざとなのか。
彼が誰の腹心であるかなど、ここに集う者たちが知らぬはずもないのに。
拳は、無意識のうちに固く握られていた。
あれほどの苦渋を呑み込みながらも、なお帝国のために身を削る我が君を──この場に集う者たちは何ひとつ知らず、下卑た笑みを浮かべて嘲弄している。
ヴァルディス収容地事変。
あの地で皇太子シアトリヒは、一瞬の情に流されることなく矛を収めた。
それは血を少しでも流さぬための痛烈なまでに冷徹で、そして真っ当な決断だったのだ。
しかし、それを良しとしない者たちがいた。
敗者の怨嗟に、貴族院の策謀。
宗令院の筆先。
事実を歪め、虚構を作り上げ、皇太子の座を剥がすべく動いた連中──
その中には、今ここで杯を掲げて笑っている者もいたはずだ。
どれだけ多くのものを、主君は黙して呑まれたのか。
どれほど理不尽な仕打ちに晒されながらも誰かを責めることなく、ただ帝国の未来を思い、己を律し続けてきたのか。
それすら知らぬ者たちが、こうして酒の肴にしている。
まるで薄汚れた玩具を弄ぶかのように。
──怒りが、胸の奥で音もなく燃え広がる。
そして怒りは、杯を傾ける皇太子ナイジェルにも向けられていた。
ヴァルディスの後、主君はただ静かに哀れんでおられた。
こうしてでも己の存在価値を示すしかなかったのだろうと。
その姿は痛ましくすらある、と。
それほどの寛容と悲しみを抱えていながら、あの方は一言の非難も口にされなかった。
皇太子の座を追われ、名誉も失われ、それでもなお。
それなのに。
弟君は、兄君の心を知ろうともしない。
不在を笑い、その苦悩を酒の肴にする取り巻きの言葉をまるで愉しむかのように、杯を揺らしている。
唇を噛んだ。
怒りとも、悔しさともつかぬ熱が胸の奥を焦がしている。
主君の痛みを誰も理解しようとしない現実が悔しかった。
──主君は、本来情の深い方なのだ。
言葉は少なく、誰に対しても必要以上に踏み込むことはない。
他者との距離を保ち、馴れ合いを嫌うその在り方はときに冷たく映るのかもしれない。
けれど、その実はまるで逆だ。
部下一人一人の働きをよく見ておられ、些細な変化にも目を配り、必要なときには何も言わず配慮を向けられる。
戦場で命を落とした兵には、決して“名を忘れる”ことなく、遺された家族に対しても手厚く保護の手を差し伸べておられる。
それでいて、見返りも感謝も求めることはない。
そのすべてを、当然のこととして受け入れておられるのだ。
上官として、あれほど信頼できる方はいない。
それなのに──その誠実さがなぜこうまで歪められ、踏みにじられなければならないのか。
拳を握り締めても、どうにもならない無力さだけが残る。
しかしここで血気に任せれば、それはただ主君の評を貶めるだけ。
そう己に言い聞かせた。
それは長く仕えてきた忠義の中で、幾度となく覚え込んだ抑制でもある。
無礼を見逃すのではない。
侮辱に屈するのでもない。
ただ、自らの感情よりも、主君の名を優先する──それが、彼にとっての「誇りある騎士」という在り方だった。
背筋を伸ばし、会場の灯火から距離を取る。
足取りには迷いがなかった。
主君は、どれほどの状況にあろうとも誇りを失わないように努めておられる。
ならば自分もまた、耐えねばならない。
たとえこの身が蔑まれようとも、主君の名前を汚さずに済むのならばそれでいい。
エルハルトは無言のまま、会場をあとにした。
背に毒を孕んだ笑い声を受けながらも、胸の奥では冷たい刃のような決意が研ぎ澄まされていた。




