落語声劇「そば清」
落語声劇「そば清」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約35分
必要演者数:最低4名
(0:0:4)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
清兵衛:蕎麦っ食いの清兵衛、縮めてそば清の異名を持つ、日に一度は
必ず蕎麦を食わなければ収まらないという男。自己最高記録は
四十枚。
客1:蕎麦屋の常連客その一。
賭け事好きで、相手がそば清と知らずに賭けを持ち掛ける。
客2:蕎麦屋の常連客その二。
客1に乗せられて賭けに付き合う。
親父:清兵衛や客1・2行きつけの蕎麦屋の親父。
腕が良いと思われる。
金公:清兵衛の正体を知りつつ、客達が無謀な賭けをするのを
高見の見物しようとしていた意地の悪い所がある男。
猟師:清兵衛さんが信州の帰りに見かけた、うわばみにひと呑みにされて
しまう猟師さん。1セリフのみ。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
清兵衛:
客1:
客2:
親父・金公・語り:
※枕・猟師は誰かが適宜に兼ねてください。
枕:皆さんは蕎麦はお好きでしょうか。
いやいや自分はうどんが好き、もしくは麺類なら何でも好きという方
もいらっしゃるかと思います。
蕎麦が今の形になったのは江戸時代で、それまではそばがきという
ものが一般的でした。なぜかというと、そばを打ってこねる際に
つなぎの素材が必要になるのですが、それまで発見されていなかった
んですな。
それが見つかって、当時はそば切りと言われた、今の我々が良く知る
蕎麦が生まれたわけでございます。
この蕎麦をはじめ、白米、お菓子、酒、醤油などをどれくらい食べた
り飲んだりできるか、今でいう大食い選手権が流行ったんだそうで。
見つかっている記録によると、六十三枚の盛り蕎麦を食べたという
記録が残ってます。
また、普段でも金を賭ける対象になることが多かったとか。
古今東西、賭け事というものにハマる人は多いようで。
清兵衛:どぉ~も。
親父さん、いつものお願いします。
親父:あいよッ。
【二拍】
最初の五枚、おまちッ。
清兵衛:ああこれこれ、これですよ。
あたくしはいろんな所でもって蕎麦を食べさせていただいており
ますが、(ずるずるっ)
この店の蕎麦は(ずるずるっ)
あたくしに合いますんで(ずるずるっ)
それから通うようになりましてな(ずるずるっ)
実にどうも(ずるずるっ)
コシがようございますね(ずるずるっ)
またこのつゆの加減が(ずるずるっ)
あたくしに合うようでございまして(ずるずるっ)
すいません、蕎麦湯をいただけますか?
親父:あいよッ。
へい、お待ち。
清兵衛:あ、申しわけございません。
あたくし、風邪っ気のある時は、このあつあつの蕎麦湯に、
残った薬味と七味を入れていただくんで。
この七味と蕎麦湯でもって、風邪っ気が飛ぶわけでございますな
。(ずずずぅーーっ)
あぁ~…温まりました。
親父さん、勘定ここに置きますよ。
親父:へい、まいどッ!
清兵衛:あぁ美味かった。
どぉ~も。
客1:…おい、見たかい。
なんでぇあの人。
客2:? 今の客がどうかしたのかい?
客1:一人で何か言いながら盛り蕎麦十枚、
ぺろっと平らげて帰っていっちまった。
客2:へえ…。
あれか、蕎麦っ食いてぇやつだな。
客1:そうよ。
親父さん、あの人よく来るのかい?
親父:このごろ来るようになったね。
いつもああして「どぉ~も」って来ちゃあ盛り蕎麦十枚食って、
勘定して帰るんでさ。
客2:へえ、いつもいま時分かい?
親父:ああ、大体はそうだね。
客1:おい、いま流行ってるあの、蕎麦の勝負しようじゃねえか。
客2:なんでだよ。
客1:いやだからよ、向こうは十枚食うんだから、
明日のいま時分みんなで集まって待ち受けてよ、
盛り蕎麦二十枚で一分金の賭けをしようぜ。
客2:…へへへ、おめえも相変わらず賭け事が好きだね。
けど、大丈夫かね?
客1:大丈夫だよ!
十はいけたって、二十は食えやしねえんだから。
銭はもちろん出しあうんだ。
客2:…たしかにな。よし、乗った。
客1:そうこなくっちゃ。
じゃ、明日な。
客2:ああ、みんなに声かけとくよ。
語り:一分金てのは、今の価格で約二万円弱になります。
当時はこんな光景が、江戸のあちこちで見られたそうで。
常連客に噂されていたとは露知らず、次の日、盛り蕎麦十枚の男が
またやってきました。
清兵衛:どぉ~も。
客1:おい、来たぜ。
客2:おう、じゃあ行くか。
客1:あ~ちょいと、そこの方。
清兵衛:?へえ、なんでございましょう?
客2:近頃よくこの店にいらっしゃいますな?
清兵衛:ええ、最近ここらに越して来まして。
あ、ご近所の方でございますか。
あたくし蕎麦が好きなもので、江戸じゅうの蕎麦を食べましたが
、この店が一番合っていましたもので。
それで通いつめております。
いや、これが楽しみでございましてな。
客1:皆で噂してたんですよ。
いま時分、そこに座っちゃあ蕎麦を十枚ズルっと平らげて帰ってい
くって。
客2:いや見事なもんですねえ。
どうです?
顔つなぎに、ちょいと賭けしてみませんか?
清兵衛:いや、あたくしは掛けはしないんです。
盛りだけなんでございます。
客1:その盛り掛けじゃありませんよ。
お上じゃあ盛りだ掛けだで揉めてたこともあったようだけ
ど…って、それは関係ねぇや。
いま江戸で流行ってるでしょう、蕎麦の賭け。
清兵衛:ああ、その賭けでございますか。
客2:あなたいつも十枚食べてますよね。
十枚じゃ賭けになりませんから、倍の盛り蕎麦二十枚、
二十枚で一分金を賭けて勝負しませんか?
清兵衛:え、一分金ですか?
客1:そうそう、あなたなら二十枚なんて余裕でしょう?
清兵衛:いやぁ、二十枚なんてとてもとても…無理でございます。
あたくしここに来るのが楽しみで、腹を減らして参るんです。
十枚食べますともう腹が一杯になりますんで、
とても二十枚は…。
客2:またまた~、そんなこと言って、本当は楽勝なんでしょう?
いいじゃないですか、二十枚で一分金、やりましょうよ。
清兵衛:いえいえとんでもない。二十枚はさすがに無理でございます。
それに一分金ともなると、懐も痛いですなぁ…。
客1:まあまあそんなこと言わずに。
客2:あっしらとの顔つなぎだと思って! ね!
清兵衛:…そうでございますか。
それでしたら、本日はみなさんと顔つなぎということで…。
残します。残しますけどもどうかお笑いにならないように。
もう、はなから負けるつもりで…ええ、一分金は差し上げるよう
なことになりますでしょうから、ここに置きますんで…。
よろしゅうございます。
盛り蕎麦二十枚で一分金の賭け、お受けいたしましょう。
客1:おっ、受けるかい!
粋だねェ、さすが江戸っ子はこうでなくっちゃな!
清兵衛:あ、蕎麦なんですが、五枚ずつ持ってきていただけるようお願
いします。
客2:親父ィ、蕎麦二十枚!
蕎麦の賭けだよ!
五枚ずつね!!
親父:あいよッ!!
清兵衛:そうだ、あの、どなたか蒸篭を下げるお手伝いをしていただけま
せんか?
客1:おう、じゃあ俺が手伝うぜ!
清兵衛:あ、あなたがやってくださる、ありがとうございます。
私が食べ終わりそうだなと思ったら蒸篭をかたしていただいて、
次を出していただければ。
客2:それじゃ、用意はいいかい?
はじめ!
清兵衛:あたくし、いろんな所で蕎麦を食べますが(ずるずるっ)
ここの蕎麦が(ずるずるっ)
一番、(ずるずるっ)
体に合うようでございまして(ずるずるっ)
この盛り蕎麦十枚が(ずるずるっ)
楽しみでやって参りますが(ずるずるっ)
とても二十となると(ずるずるっ)
食べられるもんじゃ(ずるずるっ)
ございませんで(ずるずるっ)
すいません、あの、あとを持ってきていただけますか?
客1:い、いや、それが…。
客2:嘘だろ…。
親父:今ので終いだよ!
清兵衛:え?
…今ので二十いきましたか!
いやいや、無理だと思ったんでございますけど、さようでござい
ますか。
胃の具合がよろしかったんでございますね。
申し訳ございません、それじゃあの、これはあたくしがいただく
事に致しまして…
どぉ~も。
客2:な、なんだあの人…。
客1:なんか言いながら盛り蕎麦二十枚、ぺろっといっちまったよ。
客2:どうすんだよおい、一分金、取られちまったじゃねえか。
客1:くやしいじゃねえか、ええ?
よし、明日はもっと増やそう。
客2:え? 増やす?
客1:二十はいくんなら、今度は盛り蕎麦三十枚でもって二分金の賭けと
いこうじゃねえか。
客2:おいおい、二十であの調子だよ?
三十だっていくんじゃねえか?
客1:そうじゃねえ。
ありゃ勢いにまかせていけただけだ。
だから取り返すんだよ。
みんなだって取られっぱなしじゃ、くやしいだろ?
客2:そらあ、そうだけど…。
分かったよ、やろうじゃねえか。
客1:ようし決まった!
見てろよぉ。
語り:人間、賭け事勝負事で負け込んでも、次こそは勝てると言い聞かせ
、より大きく負けてしまう事が多い。
戦争と同じで、今も昔もたいして変わりなく過ちを繰り返すものの
ようでございます。
中には生活費を含む有り金を残らずスってしまっても、
「今月の俺は、来月の俺が助けてくれる」
なんて豪語する輩もいたりします。
そんなこんなであくる日、またしても盛り蕎麦の男が顔を出しまし
た。
清兵衛:どぉ~も!
…おや?
皆さん、またお揃いで。
客1:来ましたね。
昨日はしてやられましたよ。
客2:まさかあれほど簡単に平らげるなんて思ってませんでしたよ。
清兵衛:いや、申し訳ございません。
ですが、あれがいけませんでした。
帰りましてから夜分に苦しくなりまして。
医者を呼んで診てもらって、蕎麦の勝負をしたと話したら、
バカなことをするんじゃない、
お腹というものはゴミ箱じゃないんだ、なんて乱暴な事をするん
だと、えらい剣幕で怒られまして。
それで一日食べずに過ごそうと思ったんですが、
ここの蕎麦がどうしても食べたくなりまして、ええ。
二、三枚いただいて、お腹をなんとかたしなめようという次第で
ございます。
客1:そうはいきませんよ。
今日はね、盛り蕎麦三十枚でもって、二分金の賭けしましょう。
客2:二十はいけたんだ、三十もたいして変わらんでしょう?
清兵衛:ぇ…三十枚で二分金でございますか…。
いやいや、皆さん昨日の我が家での騒ぎを知らないんですよ。
盛り蕎麦二十枚であんな大変な思いをして、
医者を呼んだんですから。
無理でございます。
客1:へえ、勝ち逃げするのかい?
客2:江戸っ子としてそいつはいただけないねえ。
清兵衛:勝ち逃げと言われますとあたくしも困ってしまうんですが…。
さようでございますか…。
じゃあ昨日のお返しをするつもりで、
こちら、二分金ございますんで、
あの、無理でございますから、
どうかお笑いにならないように願います。
では、どなたかお手伝いをお頼みしたいのですが。
客2:おっ、勝負を受けるんだね。
客1:じゃ、俺がまた手伝ってやるぜ!
清兵衛:あ、あなたですか。
昨日は終いのほうになったら息が合いましたなあ。
まるで餅つきのようでございました。
それじゃ親父さん、五枚くらいずつお願いします。
親父:あいよ!
清兵衛:無理だったらそこでやめますので。
ええ、もったいないですから。
親父:へい、最初の五枚お待ちッ!
客1:よぅし、準備いいかい?
清兵衛:はい、よろしくお願いします。
客2:それじゃ……はじめ!
清兵衛:あたくし、いろんな所で蕎麦を食べますが(ずるずるっ)
ここの蕎麦が(ずるずるっ)
本当に、(ずるずるっ)
体に合いましてな(ずるずるっ)
昨日はあんな騒ぎで(ずるずるっ)
とても三十は(ずるずるっ)
いけるとは(ずるずるっ)
思いませんので(ずるずるっ)
笑いませんように(ずるずるっ)
一つご勘弁を(ずるずるっ)
いただきまして(ずるずるっ)
すいません、あの、おあとを運んでいただけますか?
客1:そ、そんなバカな…。
客2:冗談だろ…。
親父:い…今ので終いだよ!
清兵衛:え…?
…今ので三十いきましたか!
いやいけるとは思わなかったんでございますが、さようでござい
ますか。
昨日の二十枚で胃が膨らんでいたんですな。
ですが後の事を考えただけで辛うございます。
いや、盛り蕎麦二十枚であの騒ぎでございますから、
これから帰って寝床に入って、夜分にまた嫌な思いをするかと
思うと、気が気じゃありません。
それじゃ申し訳ございませんが、これはいただきまして…、
どぉ~も。
客2:…ま、また負けちまった…。
客1:なんだよおい…、
なんか言いながら三十枚ぺろっとあっさりいっちまいやがったぞ。
いったいなんなんだあの男は。
金公:プッ、くだらねぇことしてやがんなぁおい。
客1:!誰でぇ、そこで笑ってんのは。
客2:金ちゃんじゃねえかい。
何で笑ったんだよ。
金公:何でって、おめぇらがくだらねえことやってるから笑ってんだよ。
あの人が誰だか知ってんのかい?
客1:あ? 誰ってそりゃあ、近ごろここに越してきたんだと。
客2:んで、最近この店によく来るようになった蕎麦っ食いだよ。
金公:へっ、冗談じゃねえや。
あの人はな、そばの清兵衛さん、通り名をそば清さんて言ってな、
蕎麦の勝負でもって家を二軒おっ建てたってえ人だ。
客1:い、家を二軒、建てたって…!?
客2:そばの清兵衛さん、そば清さん…?
おめえ、知ってたんなら教えりゃいいじゃねえか!
金公:いやぁそれがな、おめぇらがどれほど取られるか、
おもしれぇから見てたんだ。
客1:止しねぇな、仲間じゃねえか!
客2:そうかい、そんなに食うのか…。
金公:ああ、四十枚まではやったことがあるそうだ。
客1:はァ!? 四十枚ィ!?
客2:ど、どうりで余裕だったはずだ…。
客1:それであんな事ベラベラベラベラのたまってやがったのか!
こいつァ堪忍袋の緒が切れるってもんだ!
客2:たしかに、こりゃあ腹にすえかねるな。
客1:よし、明日いっぺんに取り返そう!
五十枚でもって一両といこうじゃねえか!
客2:一両ったって…そんなに銭はねえだろ。
客1:てやんでぇべらぼうめぃ!
どっかで借りたって何したって、取り返さなきゃしょうがねえや!
明日もどうせ来るだろうから、いま時分ここに金を持って
集まるんだよ!
おめぇらだって、負けっぱなしは嫌だろうが!
客2:わ、分かったよ…。
語り:賭け事でもっとも重要なこと、それはやめ時に他なりません。
勝っても負けても感情的にならず、引き際を見定めるもの。
ところが初回で一分金、次回で倍の二分金…。
積もる負債は、ネズミと雪だるまが仲良く踊って倍々遊戯、
よく目にする構図でございます。
しかして此度は相手を知った上、盛り蕎麦五十枚に金一両の賭け、
いかにやいかにと言った風情であります。
さて、正体が割れたとも知らずそば清さん、すっかりいい心持ちで
あくる日もやって参ります。
清兵衛:どぉ~も!
客1:…来ましたな。
客2:昨日はしてやられましたよ…。
清兵衛:ぁいやいや、やはりあれからいけませんでした。
案の定でございます。
家へ帰りましたら七転八倒の苦しみでございまして。
医者を呼んで大変な騒ぎで…
客1:【↑の語尾に食い気味に】
嘘をついちゃあいけねェな。
もうネタは上がってるんだ。
客2:あんた、そばの清兵衛さん、そば清さんだろ。
清兵衛:!ぃ、いいえ、あたくしはそんなもんじゃございませんよ。
客1:しらばっくれるのもいい加減にしてもらいたいね。
客2:蕎麦の勝負でもって家を二軒、建てたそうじゃないですか。
清兵衛:ぁ~…バレましたか。
いや、騙すつもりはなかったんでございます。
あたくしの食いっぷりがいいもんですから、
皆さんが寄ってたかって勝負を持ちかけてくるんです。
そのつど勝っていたというだけでして、いや、家が二軒というの
はとんだ尾ひれがついております。
ですので、どうかご勘弁を。
客1:いいやダメだね。
勘弁ならねェな。
客2:今日は、盛り蕎麦五十枚でもって一両の勝負といきましょう。
清兵衛:ッ…五十枚で一両、でございますかぁ……。
!あ、申し訳ございません、
あの、仕事がまだ残っているのを思い出しました。
失礼します、ごめんください。
客1:あッ、ちょっと!
客2:逃げるんですかィ!
語り:本当に賭け事に強い勝負師は、負ける勝負はしない。
見切り千両とはよく言ったものです。
清兵衛さん、担ぎ商人という商売をしているものですから日本中
を仕事で回る。
そして蕎麦と言えば、やはり信州長野の蕎麦が有名であります。
そっち方面の用事をこなしつつ、あっちの蕎麦、こっちの蕎麦…、
蕎麦どころという蕎麦どころを回りつくし、さて江戸へ帰ろうかと
山道を進んでいました。
清兵衛:はあぁ、信州の蕎麦は美味かった…。
? 物音がするな…なんだろう…?
【二拍】
!!あ、あれはうわばみ…!?
ま、まずい…、?こっちに気づいてない…?
あ、あれは猟師…むこうを狙って…ッッッ!?
猟師:うわッ…!!
語り:気づく暇もあらばこそ、猟師は悲鳴と一緒にばみられてしまった。
「ばみる」とはなんでも、蛇の合言葉でもって人間を呑みこむ事を
指している…とかなんとか。よく分からないですけども。
さて猟師を呑みこんだうわばみ、腹が一斗樽のごとく膨れて
さすがに苦しいのか、あっちへのたぁり、こっちへのたぁりしてい
たが、やがて向こうに見える岩へ向けて動いていきます。
清兵衛:い、いったい、どこへ行くんだ…?
おや、岩陰に回り込んだぞ…。
上からのぞいて…なんだ、あの赤い草は。
うわばみがぺろぺろ舐めて…ッ!!?
語り:怖いものほど見たくなる。人間の性でございます。
後をこっそり付いていった清兵衛さん、岩陰に生えていた赤い草を
うわばみが舐めるやあら不思議、あれほど大きく膨れ上がっていた
腹が、すーーっとへこんで元どおりになってしまったのであります
。
うわばみは満足したのかその場を去り、後に残った清兵衛さん、
呆然と赤い草を眺めます。
清兵衛:なんだ、この草は…、うわばみが舐めたら腹が元どおりになっち
まったぞ…。
!!そうか、こいつは食ったものを溶かす草なんだ!
これさえありゃ、蕎麦の勝負で大儲けができるってもんだ!
語り:これはいい物を見つけたと清兵衛さん、赤い草をいくつか摘んで
懐にしまいこむと、足早に江戸を目指します。
今ならかつて逃げた盛り蕎麦五十枚の勝負なんざ屁でもない、
いやそれ以上の枚数も…と取らぬ狸の皮算用、懐かしの蕎麦屋へ
勢いよく足を踏み入れます。
清兵衛:どぉ~~もッ!
客1:懐かしいねこの人は、ええ?
客2:どぉ~~もってぇのは、調子だね。
それにしても清さん、あん時ァ逃げましたね?
清兵衛:いやいや、逃げたんじゃございません。
あれから本当に信州で仕事がございました。
蕎麦どころでございますから、あっちの蕎麦、こっちの蕎麦と、
ところによって色々と味が変わりますんで、それを楽しんで
ぐるっと回って参りました。
ただ、蕎麦は美味いんですがどうもおつゆがいけません。
こちらのおつゆに向こうの蕎麦があると良かったんですが。
江戸ではここの蕎麦が本当に好きでございますんで、
戻っていの一番に来た次第です。
もちろん、勝負の事も忘れたわけじゃございません。
今日は一つ、あの、五十枚でもって一両という賭けをやらせてい
ただきます。
客1:おっ、やるかい?
さては向こうで腕を上げてきたと見える。
客2:帰って来て早々に来るくらいだからね。
じゃ、ここに一両置きますよ。
清兵衛:ではあの、今回は五十枚ですので、
親父さん、十枚ずつ茹でていただけますか。
親父:あいよ、まかしときな。
清兵衛:恐れ入ります。
それで、そう、あなた、今回も手伝っていただけますか?
客1:おう、いいぜ。
清兵衛:あなたとは息が合いますから、調子がよろしいんですよ。
それで今回はちと急ぎますんで、はなから蒸篭に手をかけておい
てください。
なにぶん五十枚ですから、調子を上げていきますので。
親父:へい、最初の十枚お待ちッ!!
客2:では……はじめッ!!
清兵衛:あたくし、本当にここの蕎麦が好きでございまして(ずるずるっ)
ここの蕎麦が(ずるずるっ)
あたくしに合うんでございます(ずるずるっ)
信州の方で(ずるずるっ)
色々と蕎麦を食べましたが(ずるずるっ)
どこの蕎麦も(ずるずるっ)
口に合うんでございますが(ずるずるっ)
ここの蕎麦が(ずるずるっ)
一番合いました(ずるずるっ)
客1:おい、なんか言いながらやってるぞ。
客2:いつもより調子が早いぞ。
二十……三十、三十いったぞ…!
客1:大丈夫だ、四十まではやった事があるんだ。
その四十の先だ。
客2:三十五………四十いった…!
客1:四十一…四十二……
客2:四十三……四十四…お、見ねぇな、少し調子が落ちて来た…!
清兵衛:【少しずつ啜る勢いが弱まっていく】
あたくし…お蕎麦が好きでございます…(ずるずるっ)
はぁ…はぁ…、おそば、あと、何枚ですか…?
客1:あと三枚だよ。
清兵衛:そうですか…(ずるずる、ずるずるっ)
(もぐ…もぐ…)
客2:蕎麦嚙み始めたよ…。
客1:蕎麦も噛み始めたらおしめえだ。
客2;清兵衛さん、もう諦めな。
清兵衛:そうはいきません…そうはいきませんよ…。
うぷ…っ。
恐れ入ります…下を向きますと、お蕎麦が出てしまいますんで、
どなたかすいません、箸の先に蕎麦をひっかけてもらえますか…。
客1:わ、わかった…俺がやるよ。
清兵衛:すいません…(ずるずる…ずるる…っ、ずっ、ずっ…)
客2:…四十八いった…!
四十九枚目にかかった…!
客1:清兵衛さん、もう諦めな!
清兵衛:そうはいきません……ちょっとお待ちください…っ…っ…。
客2:体を揺すってら…茶袋だね…体ァ揺すって上に隙間を作ろうって
んだ。
清兵衛さん、あと一枚だよ。
客1:清兵衛さん、いい加減に諦めな…!
往生際が悪いぜ…!
清兵衛:そうはいきません…そうはいきません…。
すいません、あの、風にあたってようございますか…?
客2:風にあたりてぇって、どうする?
客1:それぐらいなら構わねえな。
客2:どうすればいいんだい?
清兵衛:すいませんが、その襖の向こうまであたくしを、
連れてってもらえませんか…?
客1:襖の向こうな、おい、誰か開けてやんな。
客2:じゃあ清兵衛さん、押しますよ。
羽織が皺になりますけど、いいですね?
ふっ…! ふッ…!
ダメだ、動かないよ。
客1:そりゃあそうだ、四十九枚の蕎麦が入ってんだ。
四十九枚いっぺんに出前するようなもんだよ。
おい、何人か手伝いな。
客2:いいですか、羽織が皺になりますからね!
よいしょ、よいしょ、よいしょっ、よいしょっ!!
よし、出ましたよ、清兵衛さん。
清兵衛:すいません…うしろを…閉めていただけますか…?
客1:ああ、構わねえけど、あんまり長い事はダメだよ。
客2:すぐですよ、いいですね?
清兵衛:ええ、ええ、すぐに済みますんで…。
ちょっと、お待ちくださいな…。
(ぺろぺろぺろぺろ…)
客1:? おい、なんかぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ言い始めたぞ。
客2:腹の減るまじないでもしてんのかな?
【三拍】
客1:おい、静かになったぞ。
逃げたんじゃねえか?
客2:あんな状態で逃げられるわけねえだろ。
動けねえんだから。
客1:だけど静かすぎるな。
おい、開けてみろよ。
客2:わかった。
おい清兵衛さん、いい加減に…ッ、
え…?
客1:いねえ…?
いや、見ろ。
蕎麦が着物と羽織を着て座ってるぞ。
語り:うわばみが舐めていた赤い草、
それは食べたものを溶かす草ではなく、
人間を溶かす草だったのでした。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
三遊亭円楽(六代目)