第3話−4
「狩猟時代は、男が命かけて狩猟に行った。でも定住生活が始まると、男も女も田んぼや畑で働けばいい。狩猟は当たり外れがあるので、大漁が見込める時だけ行けばいい」
「はあ・・・」由紀子ちゃんは、まだピンと来ていなかった。
「農業をするのに、男と女の体力差は関係ない。女が家内として、家に閉じこもる必要がない。定住生活を始めて、森を切り拓いて町を作った。だから町の中に、毒蜘蛛や毒蛇、悪質な細菌やウイルスは、ほとんどいなくなる。農業を行う定住生活は、生活を一変させる”決定的なライン”だったんだ」
「つまり、狩猟をやめて米を作り出したとき、男女同権になったの?」
「その通り」
「でも女は、出産して子育てしなきゃいけないでしょ。やっぱり、家にいたんじゃないの?」と、由紀子ちゃんは聞いた。
「素直に考えると、そうなる。でも、実際はそうじゃなかった」
「なんで?」
「まず定住生活で、様々な死の危険を回避できるようになった」
「まあ、そうだね」
「つまり、死亡率が圧倒的に下がった。するとね、人口が爆発的に増えた。男も子供も死ななくなって、貴重な労働力になった。ここでね、子供が死ななくなったことに注目してね」
「そりゃまた、どうして?」由紀子ちゃんは、笑いはじめた。直人が、突飛なことばかり言うからだ。
「生き残った子供はね、子育て要員になったんだ」
「ムムム!」
「現代でも、伝統的な生活を続けている人々がいる。アマゾン、東南アジアの熱帯雨林、アフリカの砂漠地帯、北極圏、南極圏などだ。彼らは弟や妹を、小学生低学年くらいから面倒を見る。10才にもなれば、子育てのプロになる」
「ううむむむ・・・」
「つまりお母さんは、子育てに縛られないのさ。子供は子供に任せて、田んぼや畑に行ける」
「あー、そりゃそうだ」
「おまけに親族で暮らしているから、お母さんの兄弟姉妹の子供たちまで戦力になる。何十人もの人が、自分の子育てを手伝ってくれるんだ。この体制があれば、由紀子ちゃんは子供を十人産んでも、涸沢に来れる」
「あー、そうかー」
「この子育て体制は、別にアマゾンの話をしなくてもいい。この日本だって、昭和の時代まではあったんだ。田舎に親族が集まって住んでいたし、子供も多かったら」
「でもさ、私一人っ子だよ」と、由紀子ちゃんは言った。
「実は、俺も一人っ子」直人は、自分を指差して笑った。「昭和の時代なら、俺だって兄弟の多い家に生まれて、子育て経験を積めたかもしれない。でも、残念ながら一人っ子だ。親戚や友達の赤ちゃんを、抱いたくらいしかない。自分の子供を持ったら、多分パニックだと思う」
「おじさんって、まだ子供いないの?」
「うん。まだ、自由の身」と言って、直人は苦笑いした。
「まあね。毎週、一人でここに来れるんだもんね。自由なはずだ」と、由紀子ちゃんは納得してくれた。
「結局ね。俺たちは自分で、理想的な環境を破壊しちゃったんだよ」
「破壊?」
「そう」と、直人は力を込めてうなずいた。「俺は茨城出身。由紀子ちゃんは、長野。だよね?」
「うん」
「でも、みんな親族から離れて、兄弟姉妹からも離れて、核家族になって都心の高層マンションに住みたがる。そして夫婦だけで子育てしようとして、育児ノイローゼになったり、家庭から出れなくなったり、ママとパパが子育ての分担でケンカしたりする」
「まあ、そうかもね。確かに」
「最初に戻るとさ」と直人は、仕切り直した。「由紀子ちゃんも、いろいろ事情がありそうだね。だけど、『家内』にならない方法があるよ。地元に残るなら、友達のコネクションを大事にして助け合うとか。あるいは同年代の女の子たちで、コミュニティを作るか」
「うーん。考えとく」そう言って、由紀子ちゃんはザイデングラートの方を見つめた。ザイデングラートとは、奥穂高岳へ向かう長い岩場の道のことだ。彼女は黙って、しばらく真剣な目をしていた。直人は、じっくりと構えて彼女を待った。
「ねえ」と、由紀子ちゃんが言った。
「うん」
「おじさんは、結婚してるの?」
「いや、してないよ。これから、しようと思ってた」
「そうなんだー」と、由紀子ちゃんはため息混じりに言った。「やっぱり、男の人は自由だよね」
「そんなことないよ」と、直人は答えた。「俺の周りには、独身の女性も多いよ」
「働いて、自分で生きているからだよねー。私はいまだに、家族に食わせてもらってるから」
「そうなんだ」
「おじさんの家の近くに、ご両親は住んでるの?」と、由紀子ちゃんが聞いた。
「いない。というか、二人とも死んだんだ。事故で」
「そうだったの。ごめんなさい」
「いやいや、構わないよ。昔のことだから」と、直人は言った。
「おじさんが、まだ若いとき?」
「うん。24だった」と、直人は答えた。両親のことを思い出すのは、久しぶりだった。「両親がね、日曜日に二人で買い物に行ったんだよ。国道で、信号待ちして停まった。そしたら、後ろからダンプに追突された。ダンプの運転手は、居眠りしてたんだ。なんでも、朝の4時まで飲んでたそうだ」
「えー、ひどい・・・」
「さらに運の悪いことに、前の車もダンプだった。両親の車は、前後のダンプに挟まれてペシャンコになった」
「なんでそんなに、ダンプが多いの?」
「事故現場のすぐそばで、マンションの基礎工事をしてたんだ。だから、たくさんのダンプが土やら石やら資材やらを運んでた」
「そう・・・。おじさん、大変だったんだね」由紀子ちゃんは、悲しげな表情をした。本気で、直人に同情してくれた。
「だけどさ、不思議なんだけど・・・」
「うん?」
「両親が交通事故で死んだと、警察からの電話で知った。そのとき、俺は『ああ、よかった』と思ったんだ。一発目に、そう感じた」
「えー、なんで?どうして、どうして?」由紀子ちゃんは、不思議でしょうがないようだった。
「というのはさ。父と母は、絶望的に仲が悪かったんだ」
「そうだったの?」
「父と母が話すときは、ケンカのときだけ。父は手を出さなかったけど、母はコップや皿を投げるんだ。ケンカの後は、いつも掃除」
「すごいね」と、由紀子ちゃんが言った。「ウチは父が絶対的だから、ケンカはないなー」
「そうなんだね」と、直人はあいづちを打った。「俺ん家は、母のほうが強かった。中堅保険会社の部長で、父より収入が多かった。父は県庁に勤めてて、係長止まりだった。その上父は、大の競馬好きだった。自分の給料を、馬につぎ込んでた。それでまた、夫婦ゲンカ」
「なかなか、ハードな子供時代ね」と、由紀子ちゃんが言った。
「そう。だから俺は、家から逃げた。高校は山岳部のトレーニングを言い訳にして、遅くまで帰らなかった。大学時代は、京都で一人暮らしをした。とにかく、夫婦ゲンカが見たくなかった」
「ご両親が、嫌いだったの?」
「嫌いだったね」と、直人は即答した。しかしすぐに、彼は考え直した。「いや、違うな。嫌いだったわけじゃない。俺が嫌だったのは、夫婦ゲンカ」
「おじさん、優しいんだね」と、由紀子ちゃんが言った。
「いや、そういうわけじゃないよ」と、すぐ直人は答えた。「でもね。そんな仲の悪い両親だったから、最後が一緒でよかったなと思ったんだよ」
「ふーん」