第3話−2
横尾山荘に着いたとき、なぜか上空から雲がなくなった。びっくりするほどの快晴だ。気温は一桁だったが、直射日光を浴びると暖かった。
道はここで、槍ヶ岳行きと穂高連峰行きに別れる。槍ヶ岳コースは、なかなかハードだ。上高地から山頂まで、約11時間かかる。だからたいていの人は、ここから1時間半の槍沢ロッジで一泊する。二日ががりで、槍ヶ岳まで行くわけだ。
それに対し、横尾山荘を左に曲がると、3時間で涸沢だ。そして今日なら、絶景の紅葉見物ができる。大半の人が、左コースを選択した。
今日の直人は、とても身体が軽かった。それは会社を、一週間ズル休みしたからだ。彼は休養十分だった。ここで直人は、「あれ?」と思った。なんで俺は、今週ぐっすり寝たんだ?別れ話のあと、俺はずっと眠れなかったからじゃないか?
直人は最初、自殺を考えた。美枝子のいない今、夢見た未来が消えた今。真っ先に、一人で死のうと思った。真夜中、眠れなくてベッドを出る。毎晩のように酒を飲んで泣いた。気分は最悪だった。
最初は、洋服を何着か縛って首を吊った。縛った洋服の端を、天井に固定した。椅子に乗って服を首に巻き、椅子から飛び降りる。この世に、なんの未練もなかった。直人はたやすく、椅子を飛び降りた。だがなぜか、なんどやっても失敗した。服が解けてしまうのだ。
よく有名人が、洋服を使って自殺するニュースを聞く。だが直人はバカなのか、上手い服の括り方ができなかった。google で検索もしてみたが、良い情報は得られなかった。
そこで直人は、工事用の備品を扱う専門店に行った。すると小学校のときに使った、綱引きみたいな重いロープが手に入った。腕のような太さで、成功は間違いなしに思えた。だが今度は、天井が持たなかった。直人が首にロープをかけて、椅子を飛び降りた。そうしたら天井の板が、けたたましい音を立てて幅1mくらい剥がれてしまった。直人は呆然と、天井を見上げるしかなかった。
本谷橋という、小さな橋を渡る。ここから先が、毎回苦しむ約2時間の登りだ。今日も3時に出発したので、睡眠不足はいつもと同じだ。だが、今日の直人は絶好調だった。自然に、足が動いた。膝が軽く上がった。横尾から1時間半で、彼は涸沢に到着してしまった。
「おじさーん!!!!」
おいおい、嘘だろ?と直人は思った。でもこれは、現実だった。向こうから大声を出して、由起子ちゃんが手を振りながら走ってきた。
直人は展望テラスで生ビールを飲み、作戦を練り直していた。彼は、投網を買うアイデアを思いついた。美枝子と25の男が帰ってきたら、漁師が使う投網を投げる。二人を網の中で動けなくしておいて、美枝子だけゆっくり刺す。
「おい、やめろーっ!」
25の男が叫ぶ。だが、網で動けない。あいつの目の前で、美枝子をメッタ刺しにする。なんて物騒なことを考えているところへ、元気一杯の子猫のような由紀子ちゃんが現れた。
「ヤバイよ、ヤバイんだけどーっ!」と、由紀子ちゃんはひどく興奮していた。
「えっ、何が?」
「この眺め!この天気も」
「なるほど」彼女は、素晴らしいと言っているのだ。
「ねえ。予感が、してたんだよ」と、由紀子ちゃんは言った。彼女は迷わず、直人の向かいに座った。「今週も、会える気がしたの」
彼女は昼間見ても、とても可愛いかった。可愛い理由が、もう一つ見つかった。彼女は、少し出っ歯だった。笑うと、上の前歯がニョキっと口から出た。その姿はまるで、リスとかハムスターとかビーバーみたいだった。彼女の動物的魅力に、直人の殺人計画は吹っ飛んだ。その威力に、彼は苦笑するしかなかった。
今日の由紀子ちゃんは、恐ろしく派手な上着を着ていた。なんと、虹色の服だった。首から腰まで、まるで光のスペクトラムみたいに色が緻密に変化していた。
「どう?どう?」
由紀子ちゃんは立ち上がり、展望テラスでモデルみたいに踊ってくれた。直人だけでなく、他のお客さんも注目していた。
有名な、The North Face の服を買った人ならわかると思う。現代の登山ウェアは、所詮はビニール地のカッパだ。だがそのカッパが、おそろしく精巧に作られている。まず防水に優れている。気密性もあり、とても温かい。矛盾しているが、通気性もよい。外から中に、水は入らない。でも、中から外に温まった空気が出ていく。なおかつ、薄くて軽い。極限まで重量を削っている。
最近は、登山が社会的に認知された。特に、女性に。トレッキング・ブームが訪れた。各メーカーは機能に加えて、ファッション・ショー並みにおしゃれな服を作っている。涸沢に来ると、女性の服のカラフルさに驚くことになる。だが由紀子ちゃんのレインボー・ウェアは、涸沢にいるすべての女性に勝てそうだった。
「すごい!」直人はうなるしかなかった。「誰も、由紀子ちゃんに勝てないよ」
「でっしょー!」と彼女は言って、ゲラゲラ笑った。「これならさ。この広い涸沢でも、すぐ私が見つかるよ」
「まったくだね」直人は、同意した。
「だけどね。この服着る、勇気ある子は少ないと思う」由紀子ちゃんは、ちょっと自虐的に言った。
「でも、勇気ある女の子は少ないから、由紀子ちゃんに必ず会える。たとえ、朝の新宿駅でも」と、私は言い返した。
「ふふふ」由紀子ちゃんは、不敵に笑いながら胸を張りポーズを取った。
再会は、この上なくドラマティックで友好的だった。まず直人が、由紀子ちゃんのスマホで彼女を撮った。続いて、通りすがりの人に頼んで二人の写真を撮ってもらった。撮影を終えて、私たちは生ビールで乾杯した。前回のお礼に、代金は直人が払った。
「今日はね。おでんじゃなくって、カレーライスにしよう」と、由紀子ちゃんが提案した。
「いいけど、どうして?」理由がわからなくて、直人は聞いた。
「ふっふっふっ!」由紀子ちゃんは、不敵かつ挑戦的に笑った。
彼女は走って、展望テラスの売店でカレーライスを買ってきた。代金は、直人が払った。由紀子ちゃんは、カレーの皿を二人の前に置き、自分のリュックからバターロールが5個くらい入った袋を出した。
「このパンを小さく千切って、カレーをちょっとつけて食べるの」と、由紀子ちゃんは言った。
「つまり、ナン(インド料理のパン)か」と、直人は声を出した。
「そういうこと」得意そうに、彼女は言った。