第3話−1
毎日、真剣に自分の顔を見るようになった。もちろん、醜い中年の顔だ。その上、人相も悪い、ひどい。殺人を犯そうとしているからだろう。
毎朝自分の顔を見ていると、日に日に老いて行くのがわかる。顔の肌は、どんどん荒れていく。髪はどんどん減っていく。毎日のように、新しい皺やシミが見つかる。
直人は、若い頃から五分刈り一筋だった。山岳部に所属していたから、髪を長くするなんて考えもしなかった。登山中は大汗をかく。髪は邪魔だった。だから美少年たちのように、髪を熱心にセットしたことはない。男性用化粧品も、使ったことがない。
けれど、老いていく自分に気づいて、ようやく化粧の意味がわかった。やっと、女性の苦労が理解できた。彼女たちも、衰えていく自分に気づいているだろう。これは、想像以上の苦しみだ。化粧で取り返そうとするのもわかる。
美枝子も、33だ。きっと自分の「老い」に、苦しんでいるだろう。だから、俺と結婚しようとした。「好きでもない」俺と。「一度も好きになったことがない」俺と。
直人は、自分で自分に笑ってしまった。最近の俺は、すっかり愚痴っぽくなったな。たとえ全てに絶望しても、愚痴ばかりの男にはなりたくない。そりゃ確かに、俺の人生はゼロだ。全てが無駄だ。俺はつくづく、生きる価値がない。おいおい、と直人は考え直した。また、愚痴ってるじゃないか?早く死のう。美枝子を殺して、すぐ死のう。だが・・・。
直人は今週、一日も会社に行かなかった。体調不良だと仮病を使って、仕事は全部部下に押しつけた。毎日毎日、課長代理から電話がかかってきた。それも、朝から晩まで。泣きそうな声で、仕事の質問をしてきた。
気の毒だが、頑張ってくれ。直人は、そう言って突き放した。なあに、ここで頑張れば上司の点数を稼げるぞ。直人は一人、山行きの準備を始めた。時間はたっぷりあった。登山用のウェア、テント、寝袋、登山靴、非常用の防寒具、・・・。一つ一つを、しっかりチェックした。そして、それぞれに専用の補修キットで修理した。今週も、涸沢に行くつもりだ。
土曜まで待てなかった。木曜の夜に、もう直人は出発した。高速を飛ばし、上高地に着いてから会社に欠勤連絡をした。
今回は、山頂まで登るつもりはなかった。直人の目的は、涸沢ヒュッテだった。予報では、天候は上々。あの展望テラスで、極上の景色を味わいたかった。でも最大の理由は、先週の思い出に浸ること。由起子ちゃんのことだ。
金曜だけれど、登山客はとても多かった。梓川に沿う登山道は、まるで軍隊の行進だった。たくさんの登山客が、一列になって歩いているのだ。まるで、アリの行列だ。今日、現地入りしたのは正解だった。明日だったら、テントを張る場所がなかったかもしれない。
年配の夫婦が、直人のすぐ前にいた。二人は上から下まで、高価そうな登山ウェアを着ていた。リュックも、凝ったデザインがすてきだった。年配の二人は、仲睦まじく歩いていた。これこそ、直人が最近失ったものだ。
直人の頭は、また美枝子に戻った。今週は一日も、あの肉屋に行かなかった。25歳の彼氏が、怖かったからではない。登山の準備が忙しかったし、それ以外何もする気が起きなかったのだ。彼は今になって、少し後悔した。
今週も、殺し損ねてしまった。直人はなんだか、とても居心地が悪かった。まるで二時間もののハリウッド映画を見ていたら、ラストシーンの直前で停電になったみたいだ。毎週毎週、空振りして帰ったり。返り討ちにあって帰ったり。いつまで経っても、ラストシーンが来ない。スプラッター映画並みの、血まみれのラストシーンを作らねば。
徳沢園で、小休止した。ここは山小屋にしては、とても洒落た宿泊施設がある。その上、広い芝生の広場があってキャンプ場になっている。広さは、野球場のグラウンドくらい。直人はここに、何度もテントを張ったことがあった。
徳沢園のキャンプ場には、特別な催しがある。夕方になると、猿の群れがキャンプ場を横切るのだ。親猿たちは、とても怒った顔をしていて怖い。だが、その背中に乗った子猿は最高だ。猿の群れは、近づいたり餌をやったりしなければ大人しい。整然と列を作って、ゆっくり通り過ぎて行く。猿を驚かせるので、カメラもやめた方がいい。
直人は子猿のことを考えて、それからまた美枝子のことを考えた。まあ、今週はいいや。あいつが、勝手に死ぬことはない。放っておけば、100歳まで生きるタイプだ。来週こそ、始末しよう。今週は、ここの紅葉を楽しもう。
しかし、25歳の男はどうするかな?直人は、徳沢園の美しい建物を見ながら思案した。正面から戦ったら、勝ち目はなさそうだ。では、手はあるか?
25歳の男から殺そう。
これが、現時点での直人の結論だった。まず、男を殺す。首を切って、一発で仕留める。次に、隣で悲鳴をあげている美枝子を刺す。一発目は、背中か太ももを刺す。そうすれば、あいつは歩けなくなる。美枝子が倒れたところを馬乗りになって、メッタ刺しにする。目標は、30回。できれば、40回。
「ふふふふ・・・」
直人が突然笑い出したので、さっきの夫婦が彼を見た。二人とも、なぜかとても驚いた顔をした。彼らは急いで立ち上がり、先へ歩いて行った。
きっと俺が、気味悪かったんだろうな。すまないことをした。直人は、素直に反省した。そして両頬に力を込めた。引き締まった表情をしようと心がけた。
直人が吹き出したのは、計画の欠陥に気づいたからだ。俺が25歳の男を殺している間に、美枝子はサッサと逃げるだろう。あいつは、そういう女だ。25歳の男が死ねば、また別の男を探すだけの話だ。まるで枯れた花をゴミ箱に捨てて、新しい花を花瓶に挿すように。となると、計画の練り直しだな。