本当に好きな人−2
今年に入って、全てが猛スピードで進んだ。お互いの両親に挨拶し、お互いの友人たちと食事を楽しんだ。結納をすませ、式場と新婚旅行を悩み抜いて決めた。全ての決断や手続きは、直人が行った。美枝子は、隣で微笑を浮かべるだけだった。
直人には、自信があった。それはやはり、自分の年収だ。彼は役員に食い込み、同期では出世頭だった。みんなまだ係長どまりで、彼だけが課長だった。そして、1,000万超の年収。四十代には、2,000万も狙える。それに対して美枝子は、印刷会社に勤めていた。電子化により、紙媒体の需要は激減している。彼女の会社は、何度も早期退職を実施していた。
だから、信じられなかったのだ。美枝子が、同じ会社の25歳の男を選ぶとは。そして、自分を捨てるとは。わけがわからなかった。中華料理屋での別れ話の後、直人は何度も美枝子に電話した。でも、一度も出てくれなかった。そしてしまいに、携帯の電源を切られた。これじゃ、海ちゃんのときと同じじゃないか?
赤羽の、彼女のアパートにも行った。彼女はなんと、すでに引っ越していた。直人に何も言わずに。こんなことがあるのか?信じられなかった。
もちろん、LINEもたくさん送った。既読になって、スルー。直人は思いの丈を、切々と綴った。今では、顔から火が出るほどだ。一回だけ、美枝子から返事が来た。
「私は、あなたを好きだったことは一度もありません。全部、あなたの勘違いです」
直人は、言葉がなかった。今度は彼が、返信しなかった。返信しない代わりに、彼はあるイメージを抱くようになった。美枝子が死ぬイメージだ。それも、苦しんで死ぬ姿だ。全ての罪を、彼女に償って欲しかった。償うために、苦しんで死んでもらう。手を下すのは、俺だ。俺でなくちゃいけない。
興信所に、美枝子の調査を依頼した。頭金10万円。日給3万だった。彼らは、すぐに見つけてくれた。町屋の肉屋が、彼女の引越し先だった。彼女の、新しい男の実家だ。美枝子はその二階で同棲生活を始めていた。
仕事なんか、やってられなかった。会社の会議は、全部発言しないことにした。頼まれた仕事は、たとえ上司でも全部無視した。就業時間になると、急いで事務所を出た。家の出刃包丁を、持ち歩くようになった。京成線の町屋駅で降り、その肉屋に急ぐ。到着したら、細い路地の暗がりに隠れる。そして、美枝子を待つ。これが日課になった。
何日続けても、美枝子に会えなかった。もう家に、帰ってしまったのかな?直人は会社を早退して、夕方から待ち伏せすることにした。それでも、空振りが続いた。毎日早退するので、部長は露骨に嫌な顔をした。彼には、披露宴のスピーチを頼んだままだった。でも直人は、部長に何も打ち明けなかった。羞恥心が、彼を押しとどめた。この後に及んで、くだらん話だが。
全部、終わらせるんだ。直人は勝手に思い詰めた。どんどん、自分を追い込んだ。
俺は、人生に失敗した。
きっと海ちゃんと付き合った時から、あれから現在に至るまで全てが失敗だ。俺も、確かに悪かった。でも、美枝子はもっと悪い。俺は、彼女を殺す。そして、自分も死ぬ。世の人は、俺をストーカーと呼ぶだろう。構わないよ。だって、俺の人生は全部失敗だったんだ。とくに、美枝子はひどい。あれは、傑作だ。あの女は、俺の道連れにすべきだ。
空振りで家に帰った日は、真夜中に小さく音楽をかけて酒を飲んだ。こんな時は、いくら飲んでも酔わない。直人は美枝子と過ごした日々を、繰り返し思い出した。細部まで思い出して、検証してみた。検証を繰り返しても、自分の悪いところが見つからなかった。直人は、これまで悪い人間だった。でも、美枝子にだけは誠実だった。
このまま生きていても、俺の夢は叶わない。ほんの二、三週間前まで、確信していた夢が。美枝子は、天国への出口だった。インチキ野郎の俺にとって、最後のチャンスだった。だがそれは、もう消えた。消えた、消えた、消えた、消えた、消えた、消えた、消えた、消えた、消えた・・・。
ある夜、肉屋のそばでぼーっと立っていた。20時過ぎだったと思う。そこへ美枝子と25歳の彼氏が二人して帰って来た。直人はうっかり、よそ見をしていた。だから、近寄ってくる美枝子の彼氏に気がつかなかった。
突然脳天を、上から棒でガツンと殴られた。
「ぎゃあっ」
虚を突かれて、直人はその場に崩れ落ちた。
「この、変態が〜!」若い男が、そう叫ぶのを聞いた。
あとは、滅多打ちだった。頭から、背中、腰、足まで棒で打たれた。何度も、何度も。まるで、ゴキブリ扱いだった。
「殺すなよ」と、美枝子が低く言った。その声で、もう打たれなくなった。
次第に耳が、聞こえなくなった。額をダラダラと流れる血を感じた。血の流れる感触と、心臓の鼓動が一致した。ドクドクドクと、血液が脈打ちながら外へ出ていった。直人は生まれて初めて、死を覚悟した。直面してみると、死はとても魅力的だった。彼は高校時代の、1,500m走を思い出した。彼は登山部だったが、足が速いので毎年体育祭のクラス代表だった。
1,500m走は、とてもつらい。走っているときは、地獄の苦しみだった。競っている相手は、みんな陸上部だ。とんでもないペースで走らされる。でもクラスの代表だから、引くわけにいかない。そんなとき、ゴールは死に似ている。
もういいんだよ 生きなくていいんだよ
だってつらいでしょ?
つらいなら 生きなくたっていいんだよ
そんな架空の歌が、聞こえてくる気がした。ゴールしたら、全部やめていいんだ。呼吸すら。
その夜直人は、ずっと路地裏に倒れていた。このまま死ぬのかな、と思った。残念ながら、真夜中には立ち上がれるまで回復した。京成線は、とっくに終電が出た後だった。駅は、真っ暗闇だった。直人は一時間ぐらい、駅前の歩道に寝て休んだ。浮浪者同然だった。それから彼は、タクシーで家に帰った。
俺は結局、海ちゃんが忘れれらないんだよ。あれから、もう20年経ってるのに。海ちゃんにバカにされ、負け犬扱いされて捨てられたのに。そして俺は多分、美枝子もずっと忘れられないんだ。美枝子には、「全部あんたの勘違いだ」と言われて生きていく。ずっと、ずうっと、ずうっと、ずううっと、ずううっと・・・。それは、無理だよ。やめるよ、全部やめるよ。俺の人生、俺の命。すっぱり、やめるよ。