本当に好きな人−1
美枝子は、女優かと思うほど美しかった。直人は、35歳を過ぎてから結婚相談所に登録した。日本最大手の会社で、入会費だけで50万円払った。その後、毎月会費を4万円支払う。するとネットで直人の会員ページに、次々と好みの女性を紹介してくれる。
紹介された女性の中でも、美枝子は別格だった。どうして彼女は、これまで結婚しなかったのか?なぜ今、恋人がいないのか?直人は、不思議でしょうがなかった。もちろん、思い当たることはある。それは、金だ。
エネルギー産業に籍を置く直人は、トントン拍子で出世した。35歳の時点で、年収は1,000万円を超えた。美枝子はおそらく、俺を年収で選んだ。金はあるにこしたことはないし、別に悪いことじゃない。美枝子は、現実的なだけさ。直人はそう割り切った。
二人の交際は、とても順調に進展した。会って三回目には、美枝子は直人の家で一夜を過ごした。エネルギー業界は転勤が多いので、直人は賃貸マンションに住んでいた。だが場所は、汐留の高層マンションだ。眺めがよく、女性に大人気の場所だ。地上30階からの眺めに、美枝子はとても満足していた。直人は内心、成功を確信した。
彼は二十代を、虚しく過ごした。その頃の彼に、結婚願望は一切なかった。
「恋愛は、必ず終わる。好きという感情は、必ず飽きる」
これが、直人の恋愛観だった。一年くらい、誰かと適当に付き合っては次々と別れた。直人は突然、相手に飽きることが多かった。また女性が、結婚を匂わせたときも同じだった。つまり直人は、いつも逃げ出した。ひどいことをしたものだ。今になって、彼はそう考えている。
仕事は忙しかったし、面白かった。直人は二回、中東に勤務したことがある。もちろん、海外勤務を理由に女性関係を清算した。海外にいるときは、恋人を作らなかった。それでも、ちっとも寂しくなかった。むしろ自由だった。
直人がこんな性格になったのは、おそらく高校時代のせいだった。高三の春、彼はラブレターをもらった。相手は、同じ学校の一年生だった。この時代に、手書きのラブレターは効果抜群だった。その女の子は、決して彼の好みではなかった。でも直人は、彼女の思いに応えようと決めた。その女の子の名は、ちょっと変わっていた。海さんという名だった。
直人にとって、高三の一年は大変だった。大学入試に加えて、海ちゃんとの激しいバトルに明け暮れたからだ。第一に、二人とも子供だった。第二に、二人ともわがままで頑固だった。第三に、海ちゃんの心がどんどん冷めていった。反比例して、直人の心は熱くなっていった。大ゲンカをした次の日でも、直人は海ちゃんを想って幸せに浸ったものだ。
高校卒業が近くなるころ、海ちゃんはあからさまに彼をバカにするようになった。彼のやることなすこと、彼女は鼻で笑うのだ。でも、直人は耐えた。卑屈なほど、彼女のご機嫌を取ろうと頑張った。
直人は、大学入試に全て失敗した。彼の高校は、有名な進学校だった。普通の大学では笑われる傾向にあった。また、大学浪人も嘲笑の対象だった。直人は最後の試験結果を確かめた後、海ちゃんと会った。直人は彼女に、全部落ちたと告げた。それが、最後になった。
海ちゃんは、浪人の直人を無視した。何度電話をかけても、海ちゃんは出なかった。しまいには、携帯の電源を切られた。家を訪ねても、家族が出るだけで彼女を呼んではくれなかった。「海は、出かけてます」の一点張りだった。一か月くらいして、直人はようやく彼女を諦めた。
三ヶ月後に、海ちゃんの噂を聞いた。彼女はなぜか、二十代の女性のアパートに通っていた。さらに三ヶ月後、直人自身が海ちゃんとその彼女を見かけた。夕方、二人は大きなスーパーのレジ袋を提げて歩いていた。並んで、仲睦まじく。予備校から帰るバスの車窓から、直人は二人を目撃した。二人はなぜか、恋人に見えた。
三十代になり、直人は金に余裕ができた。すると彼は、ソープランド通いを始めた。これは、本当に楽だった。好きだ嫌いだと、馬鹿騒ぎをする必要がない。もともと恋人を必要としなかったから、直人は気楽な毎日を過ごした。ソープランドで、彼の三十代前半は終わった。
彼が改心したのは、ありきたりだが友達の子供だった。大学時代の仲間と集まったとき、女友達はみんな小さな子供を連れてきた。子供の愛らしさに、直人は愕然とした。
「直人、老けたねー」
「直〜、四十代に見えるよ」
みんな、悪気があったわけではない。気づいたことを、口にしただけだ。だが直人はショックだった。席を外し、トイレの洗面台の前に立った。そして自分の顔を、まじまじと眺めた。
肌はいつのまにか、シミだらけだった。額は両脇が、びっくりするほど後退していた。友人に指摘されて、脳天から後頭部も確かめた。鏡に背を向けて振り返ってみた。いつのまにか、河童のお皿のように毛が薄くなっていた。知らなかった。馴染みの床屋も、何も教えてくれなかった。気を遣って、黙っていたのだ。
美枝子の存在は、直人の失敗を全てリセットした。彼はこの年になって、人並みの幸せを求めた。子供は、二人欲しいな。できれば、男と女。40歳までには欲しい。そんな計算をして、ワクワクした気分だった。今となっては、バカみたいだ。
ひとつ、美枝子について気になることがあった。それは、虚言症だ。美枝子は、病的な嘘つきだった。とてもつまらないことで嘘をつくのだ。たとえば、「今夜は、美容院を予約しているから会えない」と彼女が言う。次の日になると、まったく髪型が変わっていない。聞き直すと、実は古い友達と飲みに行ったと言う。
こんなものは、かわいい方だ。彼女は結婚相談所の履歴書に、青森出身と書いて高校名まで明記していた。でも実は、佐賀出身で福岡の高校を卒業していた。
「なんで、本当のことを書かないんだい?」直人は聞いてみた。
「気分かな?」と、美枝子は答えた。
「気分?」
「そう」と彼女は、なんでもなさそうに答えた。「最近は、青森出身の自分でいたかったの」
直人は、それ以上たずねる気が起きなかった。
つまり、これが美枝子の弱点なんだ。こんな調子だから、彼女ほどの美人が恋人もいないんだ。直人は、そう理解した。彼は、自分を省みた。自分だって若い頃は、女の子に嘘をついてばかりいた。直人の最高記録は、一週間の月曜から金曜までで毎日違う女の子とデートしたことだ。全員に、嘘をついた。でもみんな同じ会社の人だったから、きっとバレていたと思う。
嘘つきなんて、大した話じゃない。直人は、そう思うことにした。俺と、同じじゃないか?俺も最近は落ち着いた。彼女だって、そろそろ落ち着きたいはずさ。