第5話−3
「私、わかんないの」と、彼女は言った。「クスリは高いし、中毒になるし、中毒になるともっとキツいクスリが欲しくなるし、そうするともっとお金がかかるし。最初に、みんなわかるじゃない?なのに、みんなクスリに手を出しちゃう。どうして?」
直人は、由紀子ちゃんの聞きたいことがわかった。彼女は、絶望について聞きたいのだ。
「若い由紀子ちゃんに、こんな話は申し訳わけないけど・・・」
「うん、いいよ」
「人生は、成功するか失敗するかわからない」
「うん、まあ・・・。そうだよね」
「それから、成功者に見える人も、自分は敗者だと思っていることがある」
「それは、どゆこと?」
「さっき、高級クラブで遊ぶ金持ちが出てきたよね?彼らは一見、成功者に見える。だが何か、不幸を抱えているのだろう。夫婦関係や子供関係の悩み、仕事が本当は嫌いとか、人間関係、上下関係のストレスとか、・・・。さまざまな不幸のせいで、つらい思いをしている。それをいっとき忘れるために、クスリを使うんだと思う」
「忘れるためだけなら、お酒でいいじゃない」と、由紀子ちゃんは言った。
「それは、その通りだね。でも人は、ものすごくつらいと酒飲んでも酔わないんだ」
今の直人が、まさにそうだった。美枝子にあっさり捨てられて、彼は浴びるように酒を飲んだ。でも全然酔わなかった。酒は涙になって、目から流れるだけだった。
「お酒って、酔わないこともあるの?」
「うん」と、直人はうなずいた。「心配事があると、それが気になって酔えないんだ」
「ふーん」と、由紀子ちゃんは興味深そうにうなずいた。「私、まだ酔っ払った経験ないの」
由紀子ちゃんは、直人に身体を預けていた。もたれかかって、頬が直人の肩に触れそうだった。彼女の右手は、いつのまにか直人の右膝に乗っていた。さらに由紀子ちゃんは、彼の太ももをしっかりとつかんだ。まるで登攀中の、手がかりのように。
「お酒は、万能じゃないってことさ。それに比べると、各種のクスリは効き目がいいらしい。陽気になって、身体エネルギーが満ちて、心配事はどうでもよくなるらしい」
「うん、そうだね・・・」由紀子ちゃんは、目の前のテーブルをにらんだ。
「クスリが必要になるのは、心配事に耐えられなくなったからだろう。もちろん、同じ悩みを抱えている人はいるし、もっと深刻な人だっている。だけど、耐えられる人と耐えられない人がいる。クスリは、耐えられない人が買うんだ」
「じゃあ、クスリは必要悪なのかしら?」
「実はさ」と、直人は言った。「クスリは大昔、お祭りや宗教儀式のときに使われたんだ」
「そうなの?」
「うん。でもね。あくまで、特別な時だけ。中毒になるまでは、使わなかった。中毒になったら、働き手が減っちゃうからね」
「そりゃ、そうだね」
「でも今は、働けなくなるまで使っちゃう。我慢しないし、売る側も制限しない」
「私の家のことだね」由紀子ちゃんは、悲しげに言った。
「要するにさ。悪いのはクスリじゃなくて、人の弱さってことだよ。もちろん、クスリが簡単に手に入る環境のせいもある。売人が身近にいるとか、怪しい酒場が近所にあるとかね。でも心配事に耐えられたら、クスリは買わない」
直人はそう言いながら、嘘をついている気分になった。俺だって、弱い人間じゃないか。弱いから、心配事に負けて絶望してるじゃないか?美枝子を殺して、自分も死ぬ気じゃないか?
「私は、心配事に勝てないな」と、由紀子ちゃんは言った。
「そうなの?」
「私のお見合い相手ってね、35歳の出世頭なの。すごいイカツイ顔した、いかにもヤクザなの。その人を、父が気に入ってて。私と結婚させて、家を継がせる気なの」
「うーむ」直人は、頭を抱えた。
「私は心配事に負けた人たちに、クスリを売るの。そのお金で食べてくの」
「・・・」
直人は彼女に、かけるべき言葉がなかった。そんな背景があれば、自分(女)は「早く死ぬ」と言うのもわかる気がした。家を継いだら、自分の意思と関係なく物事は進むだろう。由紀子ちゃんの周りで、少なからず人がクスリで破滅するだろう。少なからず銃弾が人を傷つけるだろう。でも、直人は何も言えなかった。