第3話−6
「散歩しようよ」と、由紀子ちゃんが言った。
「どこを?」
「テン場(テント場のこと)をさ。ぐるっと」
「いいよ」と、直人は答えた。
「ゆっくり、歩こうよ」と、彼女は力を込めて言った。
「了解!」
由紀子ちゃんのレインボーの上着は、ものすごく目立った。テント場を歩くと、たくさんの人が振り返って由紀子ちゃんを見た。でも彼女は、とても得意そうだった。注目のおかげで、彼女の心は少しずつ晴れていった。
「ねえ、聞いてもいい?」と、由紀子ちゃんは先を歩きながら言った。
「うん」
「弥生時代になって、男女平等になったなんて話、初めて聞いたんだけど」
「そりゃそうさ。俺だって、聞いたことないもん」と、平然と直人は答えた。
「何!それ!?どういうこと!?」
「この説は、俺のオリジナル。俺の他に、こんなことを言う人はいないと思う」
「おじさん、何者?」由紀子ちゃんは振り返り、直人の目を覗き込んだ。
「大学で、哲学科だったんだ」と、直人は説明した。「だから、死ぬほど理屈っぽい」
「へえー、いいじゃん」と、彼女は言った。なぜか、眩しそうな顔をした。
「どうして?」
「私、高卒なの。おまけに、就職したこともないの。」
「そうなんだ」彼女の家は、よほど裕福なようだ。
「だから、大学生って憧れちゃう」
「でも、哲学科はつまらなかったよ」と、直人は答えた。
「なんで?」
「俺の指導教授ってのがいてね、その教授と違う意見は一切言えないんだ」
「何それ?独裁者?」由紀子ちゃんは、少し笑って聞いた。
「そんなもんだね。でもその教授が、就職のコネをたくさん持ってたんだ。それも、世界的な大企業のね。俺は大企業の高収入が欲しくて、教授のゴマすりばっかしてた。我ながら嫌だったけど、就職は成功した」
「おじさんって、会社どこ?」
「○○○」直人は、素直に教えた。
「げえー!」っと、由紀子ちゃんは大きな声を出した。「しょっちゅう、CMで見るよ。すごいね」
「まあ、給料はいいよ。それだけだけど」
直人は、せっかく手に入れた仕事を放り投げようとしていた。彼はそもそも、もう生きているつもりはなかった。仮に死ぬことに失敗しても、残りの人生は刑務所で過ごすだろう。だから彼は、気が楽だった。
だがストーカーにも、休養は必要なんだ。週末休んで、健康的に過ごす。来週月曜から、また殺人鬼業に復帰する。来週失敗しても、再来週には決める。この涸沢の紅葉が終わるころ、美枝子の人生も終わる。
「おじさん?」由紀子ちゃんに呼ばれたのに、直人は美枝子のせいでぼおっとしていた。
「ごめん、ごめん。考え事してた」直人は、由紀子ちゃんに謝った。
広いテント場をぐるりと回り、北穂高岳の方へ向かった。そこには、涸沢小屋がある。涸沢ヒュッテが”涸沢”というお椀の底にあるとすると、涸沢小屋は底から少し上がったところにある。標高が50mほど高い場所にあって、小屋の前に椅子とベンチがある。涸沢小屋の真正面に、前穂高岳の北尾根が見える。それはまさに、巨大な鋸の刃だった。
「こっからの眺めも好きー!」由紀子ちゃんが、上機嫌の声を出した。
「本当だよね。すごいね」と、直人も同意した。「ねえ。由紀子ちゃんは、マエホばかり登ってるの?」
「北鎌尾根も、よく行くよ。友達が好きだから。でも私は、ここが好き。マエホと涸沢が好き」と、由紀子ちゃんが答えた。
「わかる。というより、由紀子ちゃんと同意見の人は、日本中にたくさんいるね」
「そりゃ、そーだ。こんなに、混んでるんだから」
二人はジュースを買って、ベンチで休むことにした。ビールはもういいね、という話になった。
「おじさん。夕食、私の友達と一緒に食べない?」と、由紀子ちゃんが言った。
「いいよ」
「男二人、女一人。高校の同級生なの。いつもこの四人で、山に登ってるの」
「いいねー」と直人は、羨ましいなと思いながら言った。「きっと、一生の友達になるよ」
「一生ね」と言って、彼女はなぜか寂しそうな顔をした。20才にとって、一生は永遠のように感じるのだろう。直人はそう解釈した。
「ねえ、おじさん」
「うん」二人は並んで、夕暮れの前穂高岳を眺めていた。
「定住して農業中心になって、子育てからも解放されたのになんで男女平等にならなかったの?」
「二つある」と、直人は答えた。「一つは、戦争」
「あー、ねー」由紀子ちゃんは、すぐ納得したようだ。
「ある町が、米をたくさん備蓄してるとするよね。あるいは、とても平らで農業をしやすい場所で暮らしてたとするよね。そうすると必ず、力ずくで米をかっぱらったり、町を征服しようとする連中が出てくる」
「うん、うん」
「戦争となると、男が出るしかない。狩猟社会の時代は、人口が圧倒的に少なかったんだ。だから、大規模な戦争はなかった。明治になるころの話だけど、江戸時代の日本人が約3,000万人に対して、北海道(蝦夷)に住んでいたアイヌ人は5万人しかいなかった。アイヌ人は基本的に、ずっと狩猟社会を続けてた。だから全然、人口が増えなかったんだ」
「ヘェ〜」
「でも定住社会に代わって、大規模な戦争が起こるようになった。これは、全世界共通。戦争に行く男の権威が、必然的に高くなった」
「ねえ」
「うん」
「さっき言った、もう一つは?」
「それは、神様の誕生」
「神様?」
「狩猟社会のときは、多くても数家族しかいない。しかも、みんな親族だ。ケンカはしても、深刻な対立はない」
「なるほど」
「だが定住社会になって、町の人口が数千〜一万人となってくると話は変わる。遠縁の親族なんだけど、仲の悪い連中が出てくる。つまんなことでケンカして、酒が入ると殺し合うようになる」
「わかる、わかるわー」と、由紀子ちゃんは不思議に納得してくれた。
「由紀子ちゃんの家は、仲悪いの?」直人は、聞いてみた。
「田舎の、古い社会だからさー。くだらないプライドとか礼儀が悪いとかで、しょっちゅうケンカしてる」
「そうかー。そりゃ、大変だね」直人は、彼女の答えを深く考えずに納得した。
「そうなの」
「人が増えるとケンカが増える。これは、世界共通だから。そこで、神様の出番になる」
「そりゃ、どうして?」と由紀子ちゃんは言った。「なんかさー。おじさんのペースにハマってきたんだけど」
「ははは」と、直人は笑った。「つまりさ。神様、宗教が、揉め事の仲介役を務めるわけ」
「ケンカの仲裁?」
「まあ、簡単に言えばね。狩猟社会の時代は、天災と飢餓とかを説明するのが神様の役割だった」
「天才?」由紀子ちゃんは、明らかに勘違いした。
「自然災害だね。台風が来るとか、大地震とか、火山の噴火とか、大雨とか大雪とか。災害が続くのは、なぜでしょう?それは、神様のお供えとかお祭りが悪かったとか、生贄が足りかなかったとか、理由を作ってみんなに納得してもらう」
「おじさん、全然信仰心ないね」と、由紀子ちゃんは少し呆れて言った。
「いやいや。ちょっと、ひねれば大丈夫だよ」と直人は言った。「それより、仲裁の話ね、すっかり町が大きくなると、揉め事に加えて政治の問題が出て来る」
「あら、政治になっちゃうのー!?」由紀子ちゃんは、眉毛を動かして困った顔をした。