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ストーカー(U18)  作者: まきりょうま
第1話 涸沢
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涸沢−1

直人は、涸沢へ向かう登山道を歩いていた。涸沢は、観光地で有名な上高地から、徒歩で約六時間の場所にある。涸沢の西に奥穂高岳、北が北穂高岳、南が前穂高岳だ。三方を、3,000Mの山に囲まれた斜面は、太古の氷河の後だ。標高約2,400Mの涸沢は、毎年八月まで前冬の雪が残る。

 上高地から約三時間、梓川に沿って平坦な道を歩く。横尾山荘に着いたら、橋を渡って森の中に入る。ここからが、本格的な山道だ。とはいえ、危険な場所はない。登山道も、とても緩やかだ。だが直人は、毎回この登りで苦労する。

 直人の家は、港区にある。今日は朝3時に、自宅を出発した。高速を約三時間走り、さらに一時間山道を登って駐車場に着く。上高地は、一般車の車は入れない。だから、許可を受けたバスに乗り換える。30分ほど走って、やっと上高地に着く。

 早起きで睡眠不足な上に、運転の疲労が乗っかるわけだ。とどめの山歩きで、いつも身体は悲鳴を上げる。

 だが今日は、その苦しみがいくぶん軽減された。それは、美枝子のせいだった。直人は一人で山の中を歩きながら、何度も美枝子のことを考えた。いや、自然の真ん中にいるのに、直人は景色を見ていなかった。心はいつまでも、都内にいた。正確には、町屋の路地をうろついていた。


 美枝子は、直人の元婚約者だ。つい最近まで、そうだった。彼女とは、結婚相談所で知り合った。直人はもう37歳だった。彼なりに、結婚を焦っていた。美枝子は33歳だった。

 12月に式場を予約した。新婚旅行は、モルディブ。みんなに披露宴の招待状を書き、友人に二次会の段取りを頼んだ。直人は、浮かれていた。彼は、人生を取り返したかった。今更ながら、子供に囲まれた未来を夢見た。

 涸沢まで、あと一時間。道は狭くなり、傾斜が少しきつくなる。とは言っても、大したことはない。けれど、疲労が蓄積した身体は限界に近づいてた。でも直人は、あえて足を早めた。自分をいじめたかった。心臓の鼓動が激しくなり、苦しくなって彼は立ち止まった。膝に手を乗せて、しばらく歩けなくなった。ぜーっ、ぜーっと肩で息をしながら、また美枝子のことを考えた。

 直人の関心は、”美枝子をどうやって殺すか”だった。刺し殺すのはいい。だが、首や心臓を刺すのはダメだ。なぜなら、一発で死んでしまうからだ。じっくりと味わうように、手足から徐々に中心へ向かうように。たっぷりと時間をかけたかった。

 河原に出た。ここまで来れば、涸沢小屋はすぐだ。両岸に、背の低い樹々がたくさん生えている。どれも川の上に向かって枝を伸ばし、日光を少しでも浴びようと努力していた。だが彼らの努力も、あと一月ちょっとで終わりだ。冬がやってくる。この辺りは何メートルもの雪が積もる。でも樹々は、雪の下でじっと待つ。半年以上待って、雪から顔を出す。

 美枝子を、雪の下に埋めるのもいいな。直人は、そう考えた。息継ぎだけさせて、厚い雪の下でジワジワと凍死してもらう。悪くない。俺はそれを、雪の上で見届ける。美枝子が死ぬのを待つ。美枝子が死んだら、その場で俺も死ぬ。美枝子がいなくなったら、俺は生きていけない。

 堂々巡りの考え事をしながら、涸沢ヒュッテ(山小屋)に到着した。見上げると、巨大な穂高連峰が見える。小屋はちょうど、氷河が作ったお椀の底に建っていた。小屋の周りが、広いテント場だ。小屋の人に、テント設営料を払う。

 テントは、一人用から大人数用までいろんな種類がある。直人のようなシングル登山者は、小さな一人用テントを使っている。もちろん、二人用を使えば広くて快適だ。だがその分、重量が増える。五、六人用になると金属のポールも含めて数kgになる。背負って運ぶしかない登山というスポーツでは、バカにならない重さだ。

 テント場内なら、好きなところにテントを張っていい。だが今日は、とても混んでいた。もうすぐ、紅葉シーズンだからだ。涸沢のテント場は200張設営できるが、10月の連休になると500張にもなるそうだ。直人はお椀の底ではなく、かなり傾いた場所にテントを張った。


 8月の下旬のことだった。平日に、美枝子としばらく連絡が取れなくなった。直人と美枝子は、Facebookのメッセンジャーでやり取りしていた。披露宴の段取りについて、美枝子の親族の意見が聞きたかった。午前中に連絡して、返事があったのは夕方だった。

 翌日、話の続きのメッセージで送った。また返信が来ない。結局、返事は夜だった。直人は昼間、彼女の携帯に電話してみた。何度かけても、繋がらなかった。その翌日も、同じことの繰り返しだった。直人は思い切って、美枝子の職場に電話した。そのとき初めて、彼女がずっと有給休暇をとっていることを知った。

 親しい友人と、旅行でも行ったのか?しかし、そんなことは話してくれればいいことだ。直人は電話をかけ続けた。美枝子は電話に出なかった。直人は頭がパニックだった。

 土曜日になって、美枝子から電話がかかってきた。直人は彼女に呼び出された。彼女が住む赤羽の、中華料理屋だった。直人が到着すると、美枝子は先に来て待っていた。彼女はとても不機嫌だった。トカゲでも見るような目で、直人を見た。そして唐突に、別れ話が始まった。


 涸沢ヒュッテは、小屋の屋上にある展望テラスで有名だ。ここでは生ビールと、名物のおでんが楽しめる。飲んだくれながら、北西南の穂高連峰、さらにずっと遠くの蝶ヶ岳や常念岳の景色も楽しめる。展望が良い分、風が吹くと寒い。だからウィンド・ブレイカーは必須だ。

 普段の直人ならば、眺めを楽しみながら生ビールを美味しく飲んだものだ。だが、今回は無理だ。景色に全く集中できなかった。色づき始めた可憐な葉たちを見ても、心が踊らなかった。こんな山奥に来ても、直人の心は都内にとどまっていた。

 美枝子の新しい男は、彼女の会社の後輩だった。まだ、25歳だそうだ。その男と美枝子は、石垣島に二泊三日の旅行を楽しんだ。場所によって、電波の繋がりにくい場所があったのだろう。だから直人が、何度電話をかけても繋がらなかったわけだ。

 今日は、9月の最終週だった。けれど直人は、結婚式場も新婚旅行の予約もそのままにしていた。そして何より、両親兄弟にも、披露宴の招待客にも、二次会を準備して来れている友人たちにも何も伝えていなかった。婚約は、破棄された。それが言えなかった。その上美枝子は、事の後始末を直人に押し付けた。そして自分は、町屋にある男の実家で同棲を始めた。

 何より困ったのは、今でも美枝子が好きだったことだ。直人の夢は、全部が元に戻ることだった。美枝子が男と別れ、予定通り結婚してくれれば。だがその願いは、日増しに消え失せていった。直人はテントに戻り、美枝子の殺人計画を練ることにした。直人にとって、今一番楽しいことはそれだった。

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