第9話
「遅いわよ、落田くん」
「……え?」
ちょうど校門から外へ出たときだった。
突然声を掛けられ、そちらへ顔を向けると、自転車に跨って暇そうにしている守原さんの姿があった。
「待っていたのに」
「待ってた? 僕を?」
守原さんが頷く。
「今日はまだ落田くんを褒めていなかったから」
「ログインボーナスみたいなもの?」
「ええ、そう思ってもらって構わないわ」
なるほど。
僕は登校するたびに神美少女から褒めてもらえるということか。
「大丈夫かな。そんなことをして、僕は数多くいる守原さんのファンにリンチされないかな」
僕が言うと、守原さんは小さく声を漏らして笑った。
「そんなわけないじゃない。落田くん、変な冗談を言うのね」
「いや、それなりには本気なんだけど」
一昨日の石崎のことを思い出せば、リンチはあり得ない話じゃないと思う。
中学時代はサッカー一筋で、女子になんか微塵も興味が無かったあいつがあんな風になっちゃうんだから、守原さんファンの中に過激な一派があって、守原さんに近づこうとする人間は実力で排除しなければならないというような思想を持っていてもおかしくない。
僕はちょっと怖くなって後ろを振り返った。
帰宅しようとしている先生が車に乗り込む様子が見えただけで、過激派守原さんファンの影は無かった。
「もう少し待ってあなたが来なかったら帰ろうと思っていたところだったの。一周回って良いタイミングで現れてくれたと思うわ、落田くん」
「それはよかった」
「また駅まで一緒に帰ってくれる?」
「もちろん」
守原さんは自転車から降りると、車体を押しながら歩き始めた。
「ねえ、何かあったの?」
僕がそんな彼女の隣に並んだ時、守原さんは僕を見上げながらそう尋ねた。
「乙名って分かる? 多分、守原さんと同じクラスだったと思うんだけど」
「ええ、分かるわ。サッカー部のマネージャーをやっている子でしょう? 空手の有段者だって聞いたことあるわ。あんなに華奢な感じなのに意外だなと思ったのよ」
そうか、あいつそれなりに有名なんだな。
まあ、乙名を知っているなら話が早い。
「僕、あいつと中学校一緒で。サッカーやってた頃、乙名がマネージャーだったんだよ」
「へえ、そうなの」
「それで今日、校舎裏に呼び出されてて」
「……校舎裏に? それはなんというか、ずいぶんベタな手口ね」
「守原さんもそう思う? だから僕もかなり警戒して行ったんだけど、なんとか無事だったよ」
「無事って?」
「腹に一発食らってしまったけど、なんとか無傷で済んだ。やっぱり備えあれば憂いなしというか転ばぬ先の杖というか、準備は大切だよ」
守原さんは怪訝な表情を浮かべた。
「それ、何の話?」
「え? だから、カツアゲの話」
「……少し話を整理させて。どこまで本気で言っているの? 乙名さんに呼び出されたといったから、私てっきり」
不意に守原さんが口を噤んだ。
少し待ったけれど続きの言葉が出てきそうになかったので、代わりに僕が口を開いた。
「てっきり――何?」
迷うように唇の辺りを歪ませながら、守原さんは小さな声で言う。
「告白的なイベント、かなって」
「……告白? それって、罪の告白とかいうこと?」
「いいえ、古風な言い方になるけれど、愛の告白的なことよ」
ああ、なるほど。
言われてみればそうだ。
女子から放課後、校舎裏みたいな人目につかない場所に呼び出される――まさに青春の一ページを飾るにふさわしい出来事だ。
実際はそんなことなかったけど。
「別に愛とか恋とかいう話にはならなかったよ。ただ、サッカー部に戻らない理由を尋ねられただけ」
「どう答えたの? お医者さんに止められてるからって?」
「うん。石崎に話したのと同じようにね。それから、もうサッカーに興味はないのかって訊かれたかな」
「それは……何と返事したのかしら」
「今のところ、またサッカーを始めるつもりはないって」
「そう……なのね」
守原さんは呟くように言った。
その様子がなぜか不自然に思ったので、僕はつい尋ねていた。
「何か気になることでもあった?」
僕の問いかけに、守原さんは驚いたように目を見開いた。元々大きい彼女の瞳が、眼窩から零れ落ちるんじゃないかと心配になった。
「いえ、何も。何もないわ。だけど……落田くん、ずっとあなたに訊きたいことがあったの」
「僕に? 何だろう」
スリーサイズとか?
高校生男子のスリーサイズを知ったところで誰が得するというのだろう。
いや、多様性という観点から言えば誰も得しないとは断言できないような気もするけど、少なくとも守原さんの得にはならないだろう。
まあ、どうしてもと言われたら教えるのもやぶさかではない。
「事故に遭った時のこと、覚えていないの?」
守原さんの口から発せられたのは、僕が予想していなかった質問だった。
もちろん本気でスリーサイズを尋ねられると思っていたわけではないけれど、事故当時のことを訊かれるとは本当に思っていなかった。
どう答えるべきかと、事故に遭った瞬間のことを思い出そうとして、そのときの記憶は僕の頭からすっぽりと抜け落ちていることに気づいた。
「……全然覚えてないんだ。事故のこと」
守原さんが足を止める。
僕も思わず立ち止った。
何か重大なことを言われるのかと思って身構えていると、目の前にある横断歩道の信号が赤になっているのが見えた。そりゃ足を止めて当然か。
「どうして事故に遭ったのかとか、車に跳ねられた瞬間とか、何も覚えてないの?」
「うん。全く。気が付いたら病院に居たんだよ。僕が覚えているのは、ランニングをしていたことくらいだよ」
サッカー部に入ってから欠かさずやっていた、日課のランニングだ。
調子の良いときは10キロくらい走ることもあった。
……そう、僕が事故に遭ったあの日も調子が良かったんだ。
それで、普段は走らないようなところを走っていて、結果的にそれが事故につながったというわけだ。
調子に乗ってはいけないということを自分の身で証明してしまった。