第8話
「未練とかないわけ?」
「……未練?」
僕は乙名の言葉をそのまま繰り返した。
乙名が頷く。
「だってそうでしょ。いきなり事故に遭って、そのせいで今までやってきたサッカーが続けられなくなったんじゃない。……正直、私には分からないの」
「何が」
「なんであんたが平気そうにしてられるかが。落田、高校になってからサッカー部を見にさえ来なかったわよね。もうサッカー、興味なくなったの? あんなに一生懸命やってたのに」
「……僕、そんなに一生懸命だったっけ?」
「忘れたの? 練習だって誰より真面目にやってたし、自主トレだってやってたでしょ?」
ああ、確かに。
そういえば、事故に遭ったのもランニングをしていたときだった。
よくよく考えてみれば、僕は何も不真面目にサッカーへ取り組んでいたわけじゃなかった。
それなりには真摯にやってきたのかもしれない。
となれば、乙名にとって、暇を持て余しゲームばかりやっている今の僕が理解できないのも無理はない気がしてきた。
「乙名が言いたいことは分かった」
僕が言うと、乙名の表情が明るくなった。
「本当!? じゃあ、サッカー部入ってくれる?」
「……そんな話だったっけ?」
「そうよ。私にはどうして落田がサッカー部に入らないのか分からない。だから、サッカー部に入ってほしい。で、私の話を分かってくれるってことは、サッカー部に入ってくれるってことでしょ?」
「いや、こじつけが過ぎるしそもそもサッカー部に入るとか入らないとかいう話は初めて聞いた気がするけど……」
「入部しないの?」
「しないけど……」
なあんだ、と乙名が肩を落とす。
「やっぱりもう、落田はサッカーに興味ないってこと?」
「興味ないことはないけど、今のところ部活に入ってまでやる気はないっていうか……」
医者に、サッカーはもう続けられないと告げられたときのことを思い出す。
あのときも、特に感情が湧いてくることは無かった。
今にして思えば、もっと悔しかったり悲しかったりしてもよさそうなものなんだけど。
「そう、サッカーやる気ないんだ」
乙名はため息交じりに言った。
「悪いけど、石崎にも伝えておいてくれるかな。一昨日会ったときにも伝えはしたけど」
「分かったわ。残念だけど。……ほんと、マジで。落田から怪我が治ったって連絡もらったとき、みんなあんたが戻ってくるかもって期待してたのに」
「期待してくれるのは嬉しいけど、無理なものは無理だ。だいたい僕はサッカー部のみんなが思ってるような人間じゃないし」
僕が言うと、乙名は不思議そうに首を傾げた。
「どういうこと?」
「今の僕が本当の僕だってこと。部活もしないでゲーム漬けの日々を送るダメ人間がね」
「はあ? 何言ってんの、あんた」
「だから、乙名が言う中学時代の輝いていた僕っていうのは虚像みたいなもので――うっ!?」
突然腹部に強烈な打撃を受け、僕は言葉を止めた。
乙名の正拳突きが僕の腹に直撃したのだった。
「もういい。あんたのことは一旦諦める。私これから部活だから。じゃあね」
乙名は足元に置いていたスクールバッグを拾い上げ、部室棟の方向へ歩き始めた。
「部活って……サッカー部? まだマネージャーやってるの?」
僕は鳩尾を押さえながら尋ねた。
「当たり前じゃん。あんたの代わりにみんなに伝えておいてあげる。落田はもうサッカーやめたって」
「……ああ、頼む」
乙名は振り向きもせず行ってしまった。
僕はシャツの下から漫画雑誌を取り出した。
表紙の部分が凹んでいた。
危なかった。今度は内臓破裂か何かで入院させられるところだった。
というか、乙名は僕の何が気に障ったのだろう。
確かに中学時代からすぐ手が出るという現代的な価値観では到底理解できないタイプの人間だったけれど、理由なく怒るようなことはしなかった。
僕がサッカーをやめたことに対して腹を立てていたんだろうか。それとも、僕がダメ人間になってしまったことに?
だけどそれは仕方のないことだ。
サッカーができるダメ人間が、サッカーをやめたせいでただのダメ人間になったというだけのことだ。
乙名には諦めてもらうしかない――むしろ、サッカー部に入れと言われ続けるよりは腹パンの一発で事態を済ませてもらえただけラッキーだったかもしれない。
それにしてもすさまじい威力の正拳突きだった。雑誌の凹んだ部分が元に戻らない。
グラウンドの方から、野球部の掛け声が聞こえる。
その合間に、サッカーボールを蹴った時の独特な音がしていた。
事故に遭う前だったら、この音に何か思うところがあったのだろうか。
だけど今は何も感じない。
だから、サッカーに未練もない。
もう帰ろう。そう思って漫画雑誌をバッグに詰め込んだ。
半年前に買った雑誌だ。その頃はまだ事故に遭っていなかった。高校でもサッカーを続けるつもりだった。
ああ、そうか。続けるつもりだった。
サッカーを続ける気が自分にあったということも、今、ようやく思い出した。
とはいえ、思い出したからと言って僕の中で何かが変わるわけでもなかった。
たとえば空に浮かんでいる雲が、元々自分は海水だったと思い出しても自身が雲であることが変わらないように。
陸上部が校舎の周囲をランニングしているのを眺めながら、僕は校門に向かった。