第4話
「その理解の速さ、感嘆に値するわ。私があなたのすべてを肯定してあげる。そうすればあなたは自分に自信がついて、ダメ人間だなんて思わなくなる。そうでしょう?」
「オーケー。分かった」
僕は守原さんから一歩分距離をとった。
どうやら何かしらのスイッチを入れてしまったらしい。
「ええと」
僕は言う。
「守原さん、きっと君は寝不足で疲れてるんだよ。今日は早く家に帰って休んだ方が良いと思うな」
「心配いらないわ。それに私、今、とても意識が冴えているような気がするの」
そうは言われても。
僕のすべてを肯定してくれるなんて妙な提案を素直に受け入れられるほど、僕は正気を失ってはいなかった。
「ということだから、連絡先を教えてくれるかしら」
そう言って守原さんはバッグからスマホを取り出した。
彼女の額の辺りの、汗で濡れた前髪が何故かやたら煽情的だったけれど、僕の性癖など今は関係ない。
「……まあ、いいよ。連絡先くらい。僕の連絡先を登録することで、守原さんの評価が下がらなければいいんだけど」
「さすがの気遣いね。でも、むしろ落田くんの連絡先を持っている人の方が、希少価値が高いんじゃないかしら?」
なるほど、確かに高校に上がってから僕は誰にも連絡先を教えていないし、誰からも連絡先を尋ねられていない。
「一理あるね」
僕は守原さんと連絡先を交換した。
そこで別れ、守原さんは駅の駐輪場へ、そして僕は駅前の横断歩道へ向かった。
不思議な時間だった。
あの守原さんと会話するだけじゃなく、連絡先まで交換することになろうとは。
とはいえ、よくよく考えたらいくら守原さんが神美少女と言っても一人の人間なのだから、僕も遺伝子上間違いなくヒトである以上、コミュニケーションを取るような機会があってもおかしくはないのかもしれない。宝くじが当たるくらいの確率ぐらいで発生するイベントだったのだろう。
僕は右手に握ったままだった自分のスマートホンを見た。
数年前に発売された、もう型落ちしている機種だ。
そしてそのスマートホンにインストールされたメッセージアプリには、守原さんの名前で連絡先が一件、新規で登録されている。
奇妙な感覚だ……。
信号待ちの手慰みにサッカー部時代、よく連絡を取っていた部員とのメッセージ履歴を眺めてみた。
最後の大会のときに撮った写真の下に、僕の怪我の心配をしてくれているメッセージがある。もう数か月まえに送られてきたもので、どう返せばいいのか思いつかず放置していたのだった。
『おかげさまで無事完治。連絡ありがとう。』
そういえば他にも何人か、メッセージを送ってきてくれていたのを思い出した。
いい機会だと思って、それらのメッセージすべてに先ほどと同じ文面で返信した。
信号が青になり、点滅して、僕が返信を終えて横断歩道を渡ろうとしたときにはもう赤になっていた。
仕方なくもう一度青に変わるまで、その場に立ち尽くす。
今日のテストのことを思い、せめて赤点だけは回避していますようにと八百万の神々に祈っていると、不意に袖の先を引っ張られた。
宗教の勧誘か、もしくは新しくできた塾の案内か――そう思って振り返ると、守原さんが立っていた。
「電車、乗り遅れてしまったの」
と、守原さんは言った。
「時刻表を暗記しているんじゃなかったの?」
僕は尋ねた。
守原さんは首を横に振って答える。
「時刻表を覚えているのと、それに間に合うように改札を潜るのは全く別の能力だもの」
それはそうかも。
「で、どうしてここに?」
「あれ、連絡したつもりだったのだけれど」
守原さんが僕のスマホを指さす。
もう一度メッセージアプリを確認すると、守原さんからのメッセージが届いていた。
『電車に乗り遅れました。落田くんはお昼まだですか? 次の電車まですごく時間が空きますし、一緒にどうですか?』
なるほど。
宝くじが当たるレベルの確率は、まだ継続中ということらしい。
※※※
というわけでというかどういうわけかというべきか、駅の近くのファミレスにやって来た。
僕もまた空腹を感じていたので、ランチセットを頼んだ。
守原さんはパスタのセットを頼んでいて、僕より早く運ばれてきたので、先に食べてもらっていた。
僕はボロネーゼのパスタがフォークで彼女の口へと消えていくのをぼんやり眺めていた。
「……美味しい?」
ウェイトレスのお姉さんがランチセットを運んでくるのを待つ間、僕は守原さんに尋ねてみた。
彼女は唇をペーパータオルで拭いた後で答えた。
「美味しいわ」
「パスタ、好きなの?」
「好きというよりは、嫌いじゃないというところかしら」
「ふうん」
会話終了。
居心地の悪い沈黙に、僕は人に何かを尋ねるなんて慣れないことはしなければよかったと後悔した。
「…………」
窓の外を走る車のうち、白色をしたものを数える。
1台、2台、3台……案外多いな。白色が流行っているのかもしれない。
「落田くんは? 好きな食べ物とかあるの?」
思いついたように守原さんが言う。
「好きな食べ物ね……。いや、特にないかな。僕は割と好き嫌いなく食べる方だよ」
「偉いわね」
「ああ、どうも。逆に訊くけど、守原さんは?」
「私、貝類が苦手なの」
「アレルギーとか?」
「だったら言い訳もできるのだけれど、あの風味がどうもダメなのよ。だから、苦手な食べ物が無い人、尊敬するわ」
あの守原さんに尊敬されてしまった。
ちょうどそこへ、僕が注文していたランチセットが運ばれてきた。
和風ハンバーグとサラダのセットだ。
「じゃあ、僕も食べちゃおっかな」
「どうぞ。と言っても、私がお金を払うわけではないけど」
と、守原さんがフォークを僕に渡してくれた。
「ありがとう」
「きちんとお礼が言える人、最近は少なくなっているように感じるわ。礼儀正しいのね、落田くん」
「……あのさ、僕から一つ要望があるんだけど」
「何かしら」
パスタをフォークに巻き付ける手を止め、守原さんが僕を見る。
「僕の一挙手一投足を肯定してくれるって話だったけど、さすがにそれはやめてくれないかな」
「……ごめんなさい。やっぱり嫌よね」
守原さんが悲しそうに俯いた。
それだけで僕は、何か大きな罪を犯してしまったような気持ちになった。
神によって滅ぼされたソドムとゴモラの街に思いを馳せながら、僕は言葉を続けた。
「嫌っていうか……守原さんに余計な気を遣わせてるみたいで申し訳ない」
「他人の気持ちを思いやれる人なのね、すごいわ――と言いたいところだけど、落田くんに不快な思いをさせてしまっているのなら謝るわ。ごめんなさい」
「いや謝られるようなことでもないんだけど」
「でも、孔子が過ぎたるは猶及ばざるが如しと説いたように、何事もやりすぎは良くないわ。これからは3回に1回くらいにする」
「3回に1回か」
「ええ、3回に1回」
「……パスタ、冷えちゃうよ。早く食べなよ」
「ありがとう」
守原さんは微笑み、フォークに巻いたままだったパスタを頬張った。
僕もフォークで付け合わせのサラダを食べた。