第10話
「その他に覚えていることは?」
「それ以外には別に……。どうしてそんなこと訊くの?」
守原さんは少しの間黙ったままだった。
そして、信号が青に変わって僕らが同時に歩き始めたとき、ようやく口を開いた。
「なんでもないの。私の方から質問しておいて申し訳ないけど、この話はここまでにしましょう。それより、今週末は映画を観に行く約束だったわね。落田くんはどんな映画が好きなのかしら」
ずいぶん無理やりな話題の変え方だなと思ったけれど、僕もこれ以上僕の記憶について話す気も話すネタもなかったので、思考を今度観に行く映画のことに切り替えた。
「ああ、何といってもラブロマンスだね。スタンリー・キューブリックは最高だよ」
「……落田くん、本当にキューブリック監督の映画を観たことがあるの?」
「いや……」
思いついた映画監督の名前を言っただけだった。
「今上映しているラブロマンス映画ってどれかしら」
守原さんは自転車を押しながら、バッグからスマホを取り出して片手で操作し始めた。
公開中の映画を調べてくれているらしい。
「別にラブロマンスじゃなくてもいいよ。とりあえず言ってみただけだし」
「あら、そうなの。面白そうな映画があったのに」
そう言って守原さんは顔を上げた。
「じゃあ、一応それを候補としておいて、守原さんは好きな映画とかないの?」
「私? 私は――」
守原さんの視線が、彼女が巡らせている思考を表すように宙をさまよった。
それがいけなかったのだろう。
守原さんの足が自転車のペダルに引っかかり、彼女の細い身体が傾くのが見えた。
僕は咄嗟に守原さんへ向けて手を伸ばした。
がしゃん、と自転車が倒れ、守原さんのバッグが歩道に転がった。
「……大丈夫?」
「あ、え、ええ。大丈夫……」
間に合った。
守原さんが自転車と一緒に倒れてしまう前に、彼女の身体を引っ張りあげることに成功した。
サッカーで鍛えた反射神経が役に立ってよかった。
と、一安心した僕は、やたら近くにある守原さんの顔を見て、自分の置かれた状況を把握した。
僕は倒れそうになった守原さんの腕を掴み、自分の方へ引き寄せると同時にその背中を空いていた右手で支えた。
つまり今、僕は守原さんを抱き寄せているような状態だ。
守原さんの腕を握っている方の手からは彼女の腕の細さが、そして守原さんの背中に当てている方の手からは彼女の華奢さが、さらに、密着している胸の辺りからは守原さんの心臓の音とその柔らかさが―――。
いや。
落ち着こう。
なあに、僕はただ倒れそうになった守原さんを助けただけじゃないか。
神美少女とはいえ、守原さんは同級生だ。同級生の女子が至近距離にいるというだけで動揺していては童貞がバレる。
僕は努めて冷静に言った。
「ええと、守原さん。君に怪我がなくて本当に良かった。僕は別に下心なんて何もなく、純粋に君が転んでしまう事態を避けたかったにすぎないんだ。もちろん今の僕は極めて平常な心を保っていて、微塵も焦りなど感じていないよ」
守原さんは無言のまま、激しく何度も頷いた。
彼女の心臓の音が徐々に大きくなっていって、そしてその頬がみるみる赤くなっていくのが分かった。
「……本当に大丈夫? 熱中症?」
守原さんは、今度は首をぶんぶんと激しく横に振り始めた。
そのまま守原さんの細い首が千切れてしまいそうだったので、僕はそっと彼女から手を放し、倒れていた自転車を起こした。
それから僕が地面に落ちたままになっていた守原さんのバッグを拾い、自転車のカゴに戻したとき、守原さんは我に返ったように何度かまばたきをして、言った。
「あ……ありがとう、落田くん」
「どういたしまして。僕も安心だよ。守原さんに万が一のことがあれば、僕は学校中の男子から袋叩きにあうだろうからね」
「それは――私のことを買いかぶりすぎよ」
照れ隠しなのか、口元に微かな笑みを浮かべながら、守原さんは自転車のハンドルを握った。僕は自転車から手を放した。僕と守原さんは、何事もなかったみたいに、さっきと同じように並んで歩き始めた。
「ところで、守原さんの好きな映画は?」
「そんな話をしていたところだったわね。ええと」
言いながら、守原さんは手に握ったままだったスマホの画面を見た。
「別に、僕に合わせてラブロマンスなんて言わなくていいからね」
「分かってるわよ。……ああ、そうそう。落田くんを褒めるのを忘れてしまっていたわ。さすがの反応速度だったわね。倒れそうになっている人を瞬時に助けるなんて、なかなかできることじゃないわ。もしそういう競技の世界大会があれば、あなたは間違いなく金メダリストになれるわよ」
「ああ、ありがとう」
レスキューの世界大会とかは普通に実在しそう。
本気で狙ってみようかな。
いや、そこまでのやる気はない。やめておこう。
「映画の話だけれど」
「うん」
「そうね、私はこの『シン魔法少女マジカル☆ろここ』―――」
「…………」
ごほん。
守原さんが咳払いをした。
「――の下にある、『トリガミ家の一族』ね。泣けるホラーとして評判だそうよ」
「泣けるほど怖いってこと?」
「感動するらしいけど」
本当かよ。
どんな映画だよ。