畿内巡りの道中にて1
「ちちうえ、ははうえ、こっちだ! はやくはやく~!」
駆けだした紫紺が振り返って大きく手を振ってくれました。
私は市女笠の衣をめくり、手を振って返します。
「待ってください。あんまり走ると転んでしまいますよ!」
「だいじょうぶ、ころばない!」
紫紺は自信満々に返事をすると、また駆けだしていきます。
私たち家族は今、京の都をでて山の街道を歩いていました。
朝早くに畿内巡りの旅に出発したのです。
ここは山道の街道だというのに紫紺は危うげなく走っています。山で鍛錬を積んだ子なので、あの子にとっては悪路の山道も遊び場なのでしょうね。
でも。
「あうあ〜! あいっ、あいっ」
弟の青藍はそうはいきませんよね。まだ赤ちゃんなんですから。
それなのに青藍は抱っこしてくれている黒緋の腕から脱出して紫紺のあとを追いかけようとします。
「あう〜っ。ばぶっ、ばぶっ」
「おいこら、暴れるな」
「あうあ〜、あぶぶ!」
青藍が小さな手で黒緋をぐいぐい押しました。
ここから降ろせというのです。
「赤ん坊が生意気だな」
「あう〜~」
青藍がぷーっと頬を膨らませます。とっても怒っています。
京の都を出てからずっと黒緋が抱っこしてくれているのに。
「青藍、わがまま言ってはいけません。あなたはまだハイハイしか出来ないじゃないですか」
「……ばぶぅ。うっ、うっ」
あ、今度は大きな瞳がうるうる潤みだしました。
思い通りにならなくて泣くしかないと思ったようです。
「おい鶯、青藍が泣いたぞ」
黒緋が少し困ったように私を見ました。
青藍が泣き虫だと分かっていても赤ちゃんが泣くとたじろぐようです。そうですよね、天帝が泣いた赤ちゃんをあやすなんて聞いたことがありませんから。
そう思うと、こうして黒緋が青藍を抱っこして宥めようとしてくれることが嬉しいです。
「黒緋様、青藍をこちらへ。ずっと抱っこしてくれていてありがとうございます。ここからは私が見ます」
私は両手を差し出しました。
でも黒緋は困ったように私を見ます。
「まだしばらく山道は続くぞ。せめて峠までは俺が連れたほうがいいだろう」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私、伊勢から京の都まで歩いたことがあるんです。お忘れですか?」
そもそも私は伊勢の斎宮から京の都まで逃げてきたのです。危険な山道や街道を一人でひたすら歩いたのですから、その時に比べれば青藍を抱っこするくらい問題ありません。
これは自慢ですが体力には自信あるんです。思わずえっへんと胸を張りましたが。
「え、なんであなたが怒ってるんですか……」
黒緋は苦虫を噛み潰したような顔をしていました。
思わず目を丸めた私に黒緋が苦悩します。
「……お前、頼むからもう少し自分を大切にしてくれ」
「ええ、なんですかいきなり」
「女が一人で旅をするなんてなにを考えてるんだ。道中でなにかあったらどうする。山賊や盗賊に襲われたらどうする。いや人間だけじゃない、厄介な鬼や妖怪だっているんだぞ」
「その鬼に狙われたから京の都まで逃げたんですが」
「そうだが……っ」
黒緋は納得しきれないのか渋面です。
「あの時のお前はまだ天妃の力を取り戻してなかっただろ。夜になれば山は闇に覆われ、悪意をもった人間も鬼も妖怪も闊歩する。あの時のお前ではまだ対処が難しかったはずだ」
「そうかもしれませんが、そもそも逃げるのに必死でしたから」
私はそう言い訳しながらも笑みを浮かべてしまう。
心配してくれているのですよね。それがとても嬉しいのです。
そんな私に黒緋が面白くなさそうに目を細めました。
「なにを笑っている」
「いいえ、そんなつもりは」
袖で口元を隠します。
ああダメ、嬉しくて口元が緩んでしまう。
「ごめんなさい。あなたは心配してくれているのに、嬉しいと思ってしまう私を許してください」
「鶯……」
黒緋は私の名を呟くと、長いため息をついて苦笑しました。
「……悪い、俺もお前に怒っているわけじゃないんだ。俺はただ自分が腹立たしい。お前をもっと早く見つけてやれなかった自分が許せないだけだ」
「黒緋さま……」
私は驚きに目を瞬いて、次にはほろりと口元をほころばせました。
今のあなた、私が心配なのですね。
私に心を寄せてくれているのですね。
今が夢みたいで、私はほろりと笑んでしまう。




