幼女の幸せ
順風満帆の時が永遠に続かないというのは、パンガイア世界の支配者だった神々やパンガイア世界の覇者になり損ねた俺の例を挙げるまでもなく、あらゆる世界における普遍の真理らしい。無論、この世界でも。
順風満帆、幸せいっぱいの日々を堪能していた俺の上に降りかかってきたトラブル。それは誘拐事件だった。
ナデシコが――つまり俺が――誘拐されたんだ。
しかも、誘拐犯は人間じゃない。パンガイア世界産のチンピラだ。
おそらく、例の最高神が、自分の手に負えない強力な亜神をこの世界に転送した時に、運悪く近くにいて巻き添えを食ってしまった雑魚亜神。
メインキャストの亜神はパパたちに消されたんだろが、こいつはこっちの世界に来た時、俺みたいに暴れたりせず、ビルの陰にでも逃げ込んだから、パパたちに見付かることもなく、この世界で生き延びていられたんだろう。
半透明で、地面を歩くクラゲのような姿をした亜神だった。
これまで何を食って生き延びていたのか。身体も弱っているが、それ以上に心が荒んでいるようだった。
一方、奴と同じく元亜神の俺はというと、神や亜神がいないこっちの世界に慣れ、強い人間の大人たちに常に守られている状況に慣れ――つまり、完全に油断していた。
公園の人気遊具の順番待ちをしている時だったから、パパもママもトラブルが起こるとは思っていなかったんだろう。誘拐犯が人間だというならまだしも、半透明の亜神では、パパたちにも防ぎようがなかっただろうな。俺自身、亜神の手で動きを封じられた時、悲鳴の一つもあげることができなかった。
しかも、動きがぬるぬると妙に速い。
身体の総体積なら、この世界の成人と大差はないだろうが、手足がそれぞれ三メートル、他に四本の触手が五メートルは伸びて、手と同様の作業ができる。クラゲとタコの中間形態。
そいつは、俺がこの世界に飛ばされてきた時には既に、こちらに飛ばされてきていたらしい。
見知らぬ世界で、死ぬこともできず、たった一人で、かなり苦労したんだろう。
パンガイア世界からこちらの世界に送られてきた亜神たちは、大抵、見知らぬ世界でパニックを起こして暴れ、パパたちに消されているからな。
暴れて信号機を倒すほどの力を有していなかったばかりに、異世界で生き続けることになり、孤独に苛まれ――その心労苦労は想像できなくもないが、だからといって、ナデシコのようにいたいけな幼女を保護者の手から奪う暴挙が許されるわけではないぞ。
――という俺の考えを、俺は俺の同郷クラゲに訴えるわけにはいかなかった。
俺は、この世界の言葉を理解しているが喋れない。この世界の言葉を喋っているのはナデシコだ。
ナデシコの中にいる俺はパンガイア世界の言葉を理解できるが、ナデシコはパンガイア世界の言葉を喋ることはできないだろう。
たとえ喋れたとしても、喋るわけにはいかない。俺は、誰にも――この亜神クラゲにも、パパやママたちにも――自分の正体を知られるわけにはいかないから。
しかし、ここはどこだ。
ナデシコがいつも遊びに行っている都立公園とは全く規模が違う、小さな児童公園――? クラゲ野郎は、ナデシコにどれほどの距離を移動させたんだ。
「おまえは新兵器か何かなのか?」
クラゲは、パンガイア世界の言葉で、俺に訊いてきた。
新兵器? 何のことだ。
こいつは、俺 (ナデシコ)にパンガイア世界に繋がる何かを感じ取って、ナデシコ(俺)を誘拐したんじゃないのか?
「見たところ、普通の人間だ。この世界の普通の人間の子供。だが、見た目通りのものを、あの亜神掃討員たちが後生大事に守っているはずがない」
「……」
『あの亜神掃討員たち』というのは、パパたちのことか。『亜神掃討員たち』に『あの』がつくのは、パパたちの身体能力と使用している武器が尋常のものではないことを知っているから――だろうな。
パパたちは、確かに普通の人間じゃない。遺伝子編集によって強化され、日々の鍛錬で磨きのかかった身体能力や戦闘力だけじゃなく、天に与えられた容姿も。
それは俺も認めるが、ナデシコに関する推測は、全くの的外れ。ナデシコは正真正銘、ただの人間の子供だ。身体能力も知能も普通。それを新兵器とは、誤解も甚だしい。
そんな誤解のせいで、ナデシコ(俺)は亜神クラゲに誘拐されることになったのか? 冗談じゃないぞ。勘弁してくれ。
――と、俺が心の中で頭を抱え込んだ時。
「この辺りだ」
パパの声がした。
「うん」
ママも一緒。
早いな。俺が公園から連れ去られてから一時間も経っていないだろうに。
足音が二人分だけじゃない。武士お兄ちゃんと水樹お兄ちゃんと光輝お兄ちゃんもいる。
五人揃って来たのか? こんな雑魚亜神のために?
――と首をかしげた数秒後に、そうじゃないことに俺は気付いた。
“あの”五人が揃ってここに来てくれたのは、ナデシコを救うためだ。誘拐されたのがナデシコだから。雑魚亜神の力を過大評価してのことじゃない。
ナデシコは、パパとママの大切なナデシコ。当然、武士お兄ちゃんと水樹お兄ちゃんと光輝お兄ちゃんにとっても、特別な女の子なんだ。
「やはり、おまえは、ただの人間の子供じゃなく、俺たちを倒すための新兵器なんだな!」
亜神クラゲがナデシコの身体を掴んでいる触手を伸ばし始める。同時に、クラゲ本体は、後ずさるようにナデシコとの間の距離を広げて――。
それは用心深さではなく、臆病から来る行動のようだった。
しかも、こいつは、かなり頓珍漢な誤解をしている。突然、わけのわからない異世界に飛ばされて、まともな判断力を失っているんだろう。
その上、パンガイア世界出身者は、パパたちの特別に大切なナデシコが、GPS機能が搭載されたお子様用携帯電話を持たされていることも知らない。パパたちがあっという間に誘拐犯の居どころを突きとめたことが、亜神クラゲの混乱に拍車をかけてしまったようだった。
それはさておき、問題は、亜神クラゲがパンガイア世界の言葉で叫んだ的外れ発言の内容を、パパたちが理解した――らしいことだ。
「新兵器……とは、何を言っているんだ、貴様」
パパがこの世界の言葉で発した質問内容を、パパの声に似てるけどパパの声じゃない声が、パンガイア世界の言葉に変換し、発する。パパの声に似た声は、ナデシコの洋服のポケットの中の子供用携帯電話から出ていた。
これはどういうことだ? 亜神クラゲと一緒に、俺まで混乱状態に陥ってしまった。
ともかく、確実なことが一つ。
パパたちは、パンガイア世界の言葉を理解できている。ナデシコの携帯電話が、パパの言葉をパンガイア世界の言葉に翻訳し音声にしたということは、パパ自身がパンガイア世界の言葉を理解しているのではなく――ナデシコが持たされている子供用携帯電話に、パンガイア世界とこの世界の言葉を翻訳する機能がついているということだ。大人用は、もっと高性能なのに違いない。
これは――俺 (ナデシコ)が油断して下手なことを言うと、それが亜神クラゲにもパパたちにも筒抜けになるということだ。迂闊なことは言えない。
今の俺は幼い人間の子供だ。その正体が、異世界からやってきた亜神だと知られるわけにはいかない。亜神クラゲにも、パパたちにも。
クラゲはともかく、パパたちに知られてしまったら、俺はパパたちの特別に大切な女の子でいられなくなる。
俺はそれは嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。
今のまま――俺が、パパたちの特別に大切なナデシコでいるためには、どうしたらいいか。
俺は考えを巡らせた。俺のパンガイア世界での百年分の記憶と、ナデシコの四年分の知識を、四歳のナデシコの脳で整理し、解析し、応用方法を考える――。
かなり面倒な作業だと思うんだが、四歳のナデシコの柔軟な脳は、それを可及的速やかにやり遂げてくれた。
ナデシコは、この世界の言葉で、はっきり言い切ったんだ。
「ナデシコは新兵器じゃないよ! パパたちがナデシコを守ってくれるのは、ナデシコがとっても可愛いいい子だからだよ!」
と。
幼い子供は、声を潜める方法を会得していないものだ。ナデシコは、声を張り上げて言った。
余人には、自信満々の発言に聞こえていただろう。
実際、ナデシコは自信満々だった。
俺は、ナデシコがその言葉を、“考えて”言ったのか、直感で(というより本能で)言ったのか、我が事のはずなのに、よくわかっていなかった。
亜神クラゲも、ナデシコの断言の意味は理解できなかったらしい。
一瞬間、あっけにとられたようにナデシコの腹部に絡めていた触手の力を緩め、すぐに思い直したように力を込め直す。
ナデシコの断言に、誰より早く――俺より早く――反応を示したのは、他の誰でもないナデシコのパパだった。
例によって、大して表情は変えず、だが、いたく満足したように深く首肯する。
「おまけにナデシコは賢い。ものがわかっている」
武士お兄ちゃんたちは、そんなパパに呆れてる。
武士お兄ちゃんたちが呑気に呆れていられるのは、クラゲがあまり賢くない上、さほどの攻撃力も有していないことに気付いたからのようだった。
「しかし、とっても馬鹿で、全く可愛げのない未成年者略取犯はやっつけるぞ」
言うなり、パパは右手の平から零下二百度の冷気圧を放射して、亜神クラゲの本体を凍らせてしまった。
その衝撃で、長く伸ばしていたために凍結を免れた触手が千切れ、ナデシコの身体を掴んだまま、宙に跳ね上がる。
武士お兄ちゃんたちが、哀れな冷凍クラゲの本体を粉砕するのと、
「ナデシコちゃん!」
五メートル以上の高みに放り投げられたナデシコの身体を、同じくらいの高さまで跳躍したママが抱きとめるのが、ほぼ同時。
ママは、小鳥が木の枝にとまる時みたいにふんわりと、ナデシコの身体を抱きかかえて、地面に下りた。
「ナデシコちゃん、怖かった? もう大丈夫だからね」
ママが、俺の心を気遣って微笑む。
本体を失って動かなくなった亜神クラゲの触手は、光輝お兄ちゃんが一瞬で焼き尽くしてしまった。
亜神クラゲの完全消滅を確認したパパたちが、ナデシコの側にやってくる。
「ナデシコを誘拐するなんて、馬鹿な奴だ。基本、怠け者の秀人を勤勉本気モードにしちまった」
「何か誤解をしているようだったな。ナデシコのことを新兵器とか何とか」
「誤解ではないだろう。実際、新兵器だ。秀人を真面目で勤勉な正義の味方にする起動スイッチ」
武士お兄ちゃん、水樹お兄ちゃん、光輝お兄ちゃんは、それぞれにナデシコの無事を喜んでくれた。もちろんママも。
「ナデシコちゃんが怖がるようなこと言わないで。……ナデシコちゃん。何があっても、絶対に僕たちがナデシコちゃんを守るから、安心しててね」
パパは相変わらず無表情で無口だが、ナデシコを見詰めるその瞳を見れば、パパこそが誰よりいちばん、ナデシコの無事に安堵していることがわかる。
俺も、ナデシコの無事が嬉しかった。ナデシコに無事でいてほしいというパパの願いが叶ったことが、嬉しかった。
同時に、俺は心を安んじた。亜神クラゲが、ナデシコの中にいる俺に気付かず、余計なことを言わずに消えてくれたことに。
おかげで俺は、これまで通り、パパの可愛いナデシコでいられる。パパたちの特別に大切な女の子でいられる。
十中八九、他の強大な力を持つ亜神の巻き添えで、最高神によって、この世界に転送されてしまっただけの亜神クラゲ。奴は、見知らぬ世界でパニックに陥り、とち狂った行動に出てしまっただけで、この世界の住人を虐殺しようとか、この世界を破壊しようとか、ましてや、この世界の覇者になろうなんてことは考えてもいなかっただろう。
もともと大した悪党じゃなかった。それどころか、この世界に飛ばされさえしなければ、ただの非力で善良な亜神の一人として、平穏な一生を終えていただろう。
たまたまこの世界に飛ばされ、たまたま俺を攫ったせいで、問答無用でパパたちに消されてしまったことは気の毒だと思う。
が、とにかく、パパたちの特別に大切なナデシコに手を出したのが、奴の致命的ミスだ。
恨むなら、俺やパパたちじゃなく、自分を異世界に飛ばしたパンガイア世界の最高神を恨んで、消えてくれ。
俺は、哀れな亜神クラゲのために、心の中で瞑目した。
にしても。
ナデシコのパパたちが人類最強の五人だというのは、どう考えても特撮ドラマの設定などではなく、事実のようだ。
ママは宙に投げ飛ばされたナデシコを救うために、特別な道具も使わず、助走すらせず、軽く五メートルも跳んでみせた。それが尋常の人間にできることじゃないのは、ナデシコにもわかる。
ナデシコは四歳の子供として標準的な身体能力を備えていると思うが、助走なしで飛び上がれる高さは、せいぜい二十センチだ。
そう。ナデシコは、ごく普通の人間の少女だ。パパたちのために何ができるわけでもない。むしろ、クラゲに誘拐されて足手まといになることしかできない、ちっぽけな子供。できるのは、パパたちに守られることだけ。パパに見捨てられたなら、三日と置かずに死んでしまうだろう。
だが、そんなナデシコを、パパたちは守ってくれる。
あんな雑魚亜神クラゲだって、普通の人間なら怖がって近付くこともできないのに、パパたちは怯みもせず、戦いを挑んでいく。
ナデシコを守るために、怠け者のパパは勤勉本気モードになってくれるんだ。
パンガイア世界で至高の十二神に守られていた最高神も、こんな気分だったんだろうか。
あの最高神は、俺に対して情け容赦なかったが、自分を愛し守ってくれていた神たちを倒されてしまったのだから、倒した俺を憎むのは当然のことだ。もし、パパたちが誰かに倒されてしまったら、そいつの正義や都合など考えもせず、俺は最高神と同じことをするだろう。
愛されているという確信が、俺にそうさせる。
パンガイア世界で誰かに愛され認められていたら、俺は、神を倒して世界の覇者になろうなんてことは考えなかった。そんな、疲れるばかりで楽しくない作業を思いつきもしなかった。多分、きっと。
今、この世界で、俺は、世界の覇者どころか、権力、戦闘力、体力、知力、どの分野でも、間違いなく弱者に分類される存在だ。
なのに、どの分野でも、飢えを感じない。自分に何かが欠けているとは思わない。つらいと感じない。寂しくない。不幸だとも思わない。
もちろん、自分が弱者だということは認識している。
その一方で、『可愛い、いい子』はパワーだということもわかっている。
人類最強の五人がナデシコを守るために、命をかけて戦ってくれているんだ。
自分が戦うより、楽で、安全で、ずっといい。
おまけに、
「パパ、パパ。ナデシコ、あのおリボンがほしい!」
「パパ、ママ。ナデシコ、遊園地、行きたい!」
「パパ。ナデシコ、歩くの疲れた。抱っこ!」
俺の望みは、大抵叶う。
そのために、玩具のお片付けや、手洗いうがいをしなければならないが、それで『可愛い、いい子』ポイントが貯まって、パパたちの言いなり度が増すんだから、俺にはお得な話。
俺は今、あの忌々しい最高神の気分だ!
そう実感する時以外、俺はあまりパンガイア世界のことを思い出さなくなっていた。
時折――半月に一度くらいの頻度で、都内のあちこちに亜神が現れて、パパたちが退治に向かうから、完全に忘れるということはなかったが。
武士お兄ちゃんたちやスタジオビルで働いている人たちのお喋りを漏れ聞く限りでは、俺がこっちの世界に来てから、総帥の予見通り、亜神出現の頻度が増しているんだそうだ。
多分、俺が至高の十二神のうち十一柱を倒してしまったせいだろう。
今、パンガイア世界の最高神周辺の防衛力は、限りなくゼロに近い。
我が身と残された神々を守るために、ここではない異世界にいる最高神は、神々に反逆を試みる亜神たちを異世界に転移する以外の対処ができなくなっているんだ。
最高神が自分の戦闘力を養うか、至高の十二神以外の神々が強くなるか、至高の十二神が復活を果たすかして、パンガイア世界での揉め事をパンガイア世界の内で収められるようになるまで、この世界での亜神出現は続くだろう。
至高の十二神が活動できずにいる今、俺より強い亜神が生まれることは考えられないから、パパたちが敗北を喫する可能性は極小だが、それでも戦いというものには、思いがけないトラブルがつきもの。勝負には、相性というものもある。
パパたちは、五人揃っていれば、弱点らしい弱点もなく、力量の定かでない敵に対しても全く隙のない態勢で臨み勝利を収めることができるが、ナデシコを預かったせいで、パパたちは万全の態勢で敵に対峙することができなくなった。
そのせいで、亜神を倒せないという事態は生じなかったが、負傷することはあった。
常にパパたちに気遣われ守られていることに幸福感を覚え、満たされている俺なのに、パパたちが怪我をすると、とてもつらくて悲しい。まるで自分が怪我をしたかのように、胸に痛みが走る。
パパたちに大切に守られている自分を、この上なく幸せな子供だと思うのに、そのせいでパパたちが傷付くのは嫌なんだ。それくらいなら、俺が傷付く方がはるかにましだと思う。
「ナデシコにも、悪者をやっつけられる力があったらいいのに! ナデシコがパパたちを守ってあげるのに!」
パパが初めて目に見えるところ――右目の目尻の脇――に裂傷を残してナデシコの許に帰ってきた時、俺は半ば本気でそう叫んだ。
この世界に飛ばされてくる亜神たちは、どいつもこいつも、俺に比べれば力の劣る雑魚亜神だ。そんな奴が、パパの綺麗な顔に傷を残すなんて、不遜にも程がある。
俺は、自分の小さな身体が悔しくてならなかった。自分の非力が悲しくてならなかった。
「ナデシコは優しいな。ありがとう」
表情に乏しく不愛想なパパが、瞳を覗き込めば微笑んでいることがわかる笑顔を、ナデシコに見せてくれる。
「秀人の傷は、しばらくすれば消えるから、心配しないで」
ママがそう言って、泣きべそをかいているナデシコの髪を撫でてくれた。
「ナデシコちゃんは、今だって、僕たちを守ってくれてるよ。僕たちは、ナデシコちゃんが大好きだからね。ナデシコちゃんの元気な笑顔が、僕たちの力の源になってるんだよ」
ママの笑顔は、いつもの倍増しで優しい。
「秀人が、『世界の平和を守るため』などという漠然とした目的のためには頑張れないが、『ナデシコを守るため』という超個人的かつ具体的な目的のためになら頑張れる男だとわかったのは、有益だった」
「仲間が怪我したり、ピンチに陥ったりするまで、秀人がやる気ゼロモードなのって、そういうことだったんだなー。俺、ずっと、秀人は、超ものぐさで、恩着せがましくて、美味しいとこ持っていきたがりなんだとばかり思ってた」
水樹お兄ちゃんと武士お兄ちゃんに、褒めてるんだか貶してるんだかわからないことを言われても、パパは無反応無表情。
光輝お兄ちゃんに、
「遠大崇高な大義は理解できず、目の前の障害だけ取り除く――というのは、知能が鶏程度だということだろう」
と言われた時だけ、パパはこめかみを引きつらせた。
「それくらいナデシコちゃんが可愛いってことでしょう」
ママがやわらかい微笑で執り成して、可愛いナデシコが可愛く笑うと、それで緊張感はあっさり消滅。
パパたち五人の間では、ナデシコ誘拐事件以降、そんな他愛のないやりとりが、一日に一回は必ず取り交わされるようになった。
おそらく、ナデシコが無事で元気でいることを確認するために。
人類最強の五人の集いの中心にいるのは、いつもこの俺。小さくて非力なナデシコだ。
気持ちいい。愛されていることは気持ちいい。
愛されていることを実感できる日々。
これを幸福と言わずして、何を幸福と言うのか。
パンガイア世界で、俺は常に一人だった。
俺は、神と人間という異質生物の間に生まれた、神にとっても人間にとっても異形のもの。
神に蔑まれ、人間に恐れられ、同類である亜神たちからも疎んじられ――誰からも愛されなかったから、俺は神を憎み、人間や亜神たちの命を軽んじたんだ。
俺は自ら望んで異形異質のものに生まれたわけじゃない。
俺に責任のないことで生じた不遇不公平に、俺は憤りを覚えずにいられなかった。
誰にも顧みられない自分の存在を否定しないために、俺は、自分が持つ唯一のもの――戦闘力――を過大評価することになった。
力がすべて。人であれ、神であれ、亜神であれ、強いことに価値がある。弱者が死ぬのは当然。弱いことは罪。パンガイア世界で、俺は、そう思っていた。
この世界に転送され、ナデシコという弱者になって改めて、俺は、世界のありようの更なる不公平を思い知った。不公平の複雑さを思い知ったんだ。
ナデシコは、ごく微弱な力しか持っていないのに、世界でいちばん幸せな女の子だ。
世界はいったいどうなっているんだ。
すべてを決めるのは運か?
神に生まれた者は幸運。強く生まれた者は幸運。多くの人に愛される環境に生まれた者は幸運。
そうではない者は、虐げられ苦しんで死ぬのみ。自身の不遇を嘆き続けるのみ。
すべてを決めるのは運なのか?
だが、その運を決めるのは誰なんだ。
パンガイア世界には、運命を司る神なんてものは存在しなかった。
この世界では、神自体が存在していない。
『神』という概念や言葉はあるし、世界各地に神話という物語は存在しているようだから、かつては存在していたのかもしれないが。
神だけではなく、ヤマタノオロチやドラゴン、フェニックス、ガルーダ等、どう考えても亜神と思われる生き物の記録もある。
おそらく、あの最高神は、俺をこの世界に転送する以前にも、自分に反逆した神々や強大な力を持った亜神たちを、この世界に転送していたんだろう。
この世界の神話や怪物たちの物語は、パンガイア世界の最高神によって、この世界に送られた者たちが巻き起こした騒動を記録したものと考えれば、辻褄が合う。
だが、この世界に、今は、神も亜神も存在しない。
この世界では、非力な人間たちが覇権を握っている。それはつまり、非力な人間たちが、この世界に送り込まれてきたパンガイア世界の亜神や反逆神たちをすべて退けた――ということだ。
彼等の記録が、神話や架空物語になっているのは、ここ数千年、最高神が反逆神や亜神たちをこの世界に送り込んでいなかったから。
最高神の手を煩わせるまでもなく、至高の十二神が倒してしまうので、その必要がなくなっていたんだろう。
最近になって、亜神出現の頻度が上がったのは、俺が至高の十二神のうち十一柱までを倒してしまったからなのに違いない。
確実に言えるのは、パンガイア世界の最高神にとって、この世界が不用物を捨てるゴミ捨て場なのだということ。
『自分のいる世界さえ無事ならいいのか!』と腹は立つが、その原因を作ったのは俺だ。俺が彼女を守る至高の十二神を倒してしまったのが、ゴミ増加の原因だ。
パンガイア世界で、俺は、自分の憤怒にのみに囚われて、十二神を失った最高神がどういう行動に出るのかなんてこと、考えもしなかったんだ。
そのせいで、今、パパとママが苦労している。亜神が出現さえしなければ、ナデシコと遊んでいるはずの時間を亜神退治に奪われ、負傷することさえある。
叶うことなら、時を戻したい。パンガイア世界で荒み、暴れ、至高の十二神を倒して悦に入っている俺を、『馬鹿なことはやめろ!』とたしなめ、殴ってやりたい。
しかし、俺にその力はない。時間を戻すなんてことは、あの最高神にもできないこと。
だから――時間を過去に戻して、十二神を生き返らせることができないから――あの最高神は、我が身と自分が支配する世界を守るため、亜神たちをこの世界に“捨てる”ことを続けているんだ。
くそ。『後悔先に立たず』とは、よく言ったもんだ。この世界の人間は、上手い言葉を思いつく。
パパたちが亜神出現の連絡を受けてナデシコの側を離れるたび、俺は過去の自分の無思慮軽率を、心の底から後悔した。
でも、パパたちは必ずナデシコの許に帰ってきてくれたし、パパたちの無事な姿を見ると、俺は単純だから、その後悔を忘れてしまう。
パパたちと一緒にいる時間は、それくらい楽しくて、満ち足りたものだったんだ。
重たいフリル付きのスカートや長いリボンのついたブラウスを買ってくれないママに、パパとタッグを組んで挑み、撃沈されるのも楽しかった。
『甘いジュースの飲みすぎは駄目』っていうママの言うことをきいて、全然甘くない麦茶を飲んで、『ナデシコちゃんは、本当にいい子』って褒めてもらうのも嬉しかった。
公園に行くのに急いで駆けて、転んで、膝小僧流血の惨事に見舞われるのも、そんなに嫌じゃなかった。
そんな時には必ず、すぐにパパかママがナデシコを抱き起こして、『痛いか? ナデシコを転ばすとは、生意気な道だな』だの、『お膝をすぐに綺麗な水で洗えば大丈夫だよ。歩いたり走ったりする時は、足元をちゃんと見ようね』だのと言ってくれる。
パパとママはいつも――パパとママがいない時にも必ず別の誰かが――ナデシコ(俺)の側にいてくれる。ナデシコ(俺)を見ていてくれる。
それだけのことが、俺は嬉しくてならなかった。
俺はこの世界で、強い方から数えるより弱い方から数えた方が早い、非力でちっぽけな生き物になってしまったというのに。
あのふざけた最高神を消し去れば、パンガイア世界の覇者になれる――世界の頂点に立つ。俺は、その直前までいっていたのに。
あと一歩が足りずに、俺は世界の支配者になり損ねたのに。
得意の絶頂から奈落の底に転がり落ちたのに。
なのに、俺は、それが少しも悔しくない。
野心や欲を失ったわけじゃない。
野心や欲なら、今の方が以前より強く大きいくらいだ。
綺麗な服を着たいし、好きなだけ甘いケーキを食べて、好きなだけ甘いジュースを飲みたい。リボンや靴は幾つあってもいいと思うし、欲しい玩具もたくさんある。
パパとママにはナデシコのことだけ見ていてほしいし、いつもナデシコの側にいてほしい。たくさん遊んでほしい。
武士お兄ちゃんたちには、一日に十回くらい、『ナデシコは可愛い』って言ってもらいたい。
『秀人はどうしようもない親馬鹿だ』でもいい。
『優理が厳しいのは、秀人がナデシコに甘すぎるからだよ』や『優理の言うことをきいていれば、ナデシコは可愛いいい子でいられるさ』でもいい。
世界のすべての人間、神、亜神を、俺の足で踏みつけるより、パパたちの目が俺だけに注がれ、パパたちの手が俺だけに差しのべられていることの方が心地良い。
この世界で強い方から数えるより弱い方から数えた方が早い小さなナデシコは、間違いなく、この世界で不幸な方から数えるより幸福な方から数える方が断然早い子供だった。
俺は幸せだったんだ。間違いなく。