幼女の新世界、新生活
俺が逃げ込んだ身体の持ち主は、愛し守ってくれる親のいない孤独な存在という点で、俺と同じものだった。
それでも幼女には行き場だけはあった。彼女は、保護者を持たない子供たちを集めて養育する施設への入所が決まっていた。
ところが、巨人騒動に巻き込まれて、一度死んで――そのせいで、幼女は行き場を失ってしまったんだ。
悪いことをしてしまったと、俺は思った。
まあ、俺のせいで行き場を失ってしまった幼女は、今では俺自身なわけだが。
そんな幼女に対して責任と罪悪感を抱いたのは、俺を消し去った二人の人間も同様だったらしい。
結局、パパとママは、自分たちの戦いの巻き添えで一度は死んだ不幸な孤児を、自分たちの手許に引き取ってくれたんだ。
ママは、パパに押し切られた。
パンガイア世界では、人間は簡単に死んだ。戦乱、飢餓、荒天、神の気まぐれ。死の原因はどこにでも転がっていた。
子供を捨てるのも拾うのも、気軽にできることだった。しかし、この世界ではそうではないらしい。
この世界では、人間を一人一人、生まれや住居地ごとに管理しているのだそうだ。
一度は作成された死亡診断書を破棄して、幼女が入所する予定だった養護施設に再入所の手続きをするのが、本来の正しい対応だったらしいが、パパは断固として、それを拒んだ。ママに無茶だと反対されても、ママ以外の誰に反対されても、絶対に嫌だと言い張った。
それで、最終的に、幼女の死亡診断書は破棄されず、両親に虐待されていた不幸な女児は事故で死んだことになった。
ある権力者に願い出て、戸籍と個人登録証を新規に作成してもらえることになったのだそうだ。
そうして、俺はめでたく、パパの娘として、人生を生き直すことになった。
パパとママは、俺に『ナデシコ』という名をつけてくれた。
最東撫子――さいとう なでしこ。
それが俺の新しい名前だ。
その名になったのは、幼女(俺)が、ナデシコの花の刺繍がされたハンカチを持っていたから。
実の両親が持たせたものとは思えなかったが、事故で着衣も焼け焦げ、それだけが俺自身の持ち物だったらしい。
「このお花と同じ名前だよ」
そう言って、ママが、ピンク色の小さなナデシコの花の画像を見せてくれた。
その花が可愛らしかったので、俺はその名を喜んで受け入れた。
小さな板 (スマホというそうだ)、大きな板 (タブレットというそうだ)、鍵盤のついている板 (パソコンというそうだ)――この世界には、見たい絵や文字や動画がすぐに表示される、ものすごい道具がある。
この世界には、パンガイア世界よりはるかに高度な科学技術があるんだ。
至高の十二神の大神殿より大きな建築物が当たり前のようにあるんだから、比較すること自体が無意味で無謀なことなんだが。
パンガイア世界で生きていた俺は、神たちのように人間の心を惹きつけるカリスマは持っていなかったが、その体躯は神々の数倍大きく、しかも強靭。不死の神たちを殺すことはできなかったが、復活するまでに数百年がかかるほどのダメージを与えることはできた。
不死であるがゆえに野心も向上心も持たない神たちと違って、目標を定め、そのために努力することもできた。人間に崇め奉られる存在であることに満足し、緊張感も警戒心も持っていない神たちより、知恵の使い方を知っていた。
奴等にとって下等な怪物にすぎない俺の方が、知を司る神よりはるかに知力を活用していたんだ。
だが、あのちっぽけな最高神によって異世界に転送されたせいで、俺は、強靭な体躯と膂力を失った。
今の俺が持っているのは、あの瘠せっぽちの最高神より更に小さな身体と、更に非力な小さな手。
しかも、この世界は、俺が生まれ育ったパンガイア世界よりはるかに発展した高度な技術を有していて――当然、この世界の住人は俺より頭がいいだろう。
俺は、この世界では、他人より優れた力をただの一つも持っていない、本当に最底辺の存在だということになる。
それらのことを考慮して、俺は、この世界の覇者になることは早々に諦めた。
この世界の人間の成長速度がどれほどで、すべての人間の頂点に立つ人間に持ち得る力のレベルがどれほどなのかはわからないが、当分は――せめてママくらいの背丈に成長するまでは、世界支配の野望などは持たずにいた方がよさそうだと判断したんだ。
俺の当座の目的は『生き延びること』。
そのために、俺は、パパやママに心身を守ってもらわなければならない。
口惜しいことだが、俺のステータスは、そこまで非力なものにまで落ちてしまったんだ。
まあ、俺は、パンガイア世界の怠惰な神たちとは違って、目標を定めたら、その目標達成のために粉骨砕身努力できる男(幼女)だ。取り戻せないもののことは綺麗さっぱり諦めて、『この世界で生き延びる』という目標のために努力するのみ。
それが俺の生き方だ。
どうせパンガイア世界には、二度と戻れないのだろうから。
失われ、取り戻せないものは諦める。
二度と戻れない故郷のことは忘れる。
そう決意した俺だったが、一度だけ――一度だけ、二度と尋ねないつもりで、パパとママに尋ねてみたんだ。失われて、取り戻せない“俺自身”のことを。
俺は、『あの亜神を倒したのは、おまえたちか』と問うたつもりだったんだが、ナデシコの唇と声は、
「あの大きなお化けを倒したのはパパとママなの?」
と言っていた。
ナデシコ(俺)は、『亜神』という言葉とその意味するところを、自分の知っている言葉に置き換えることができなかった――いや、懸命に考えて、置き換えた結果が『大きなお化け』だったんだろう。
ママの返事は、
「あの大きなお化けはダンボール紙で作った作り物。パパとママは、特撮ドラマの俳優なんだよ」
だった。
それは、事前に用意しておいた嘘の返事だったろう。
子供なら――子供でなくても、この世界の人間なら――言いくるめられていただろうが、なにせ俺はこの世界の住人ではなく、パパとママに倒された当人だ。自分が紙でできた作り物でないことは、誰よりよく知っている。
パパとママが俺を騙しているとは思わなかった。パパとママは、ナデシコのためにそう言ってくれているんだ。
それくらいのことは、俺にも――子供じゃない俺だからこそ――わかった。
とはいえ、大きなお化けが作り物というのはともかく、パパとママが俳優だというのは、完全な嘘ではないようで、実際に行われた亜神消去作業をごまかすために、パパとママは本当に特撮ドラマを作っているようだった。
特撮ドラマというのは、演出に自然物だけではなく人工物を取り入れた演劇のことらしい。
パンガイアの人間世界では、政治や戦争はもちろん、公の場で行なわれる演劇や合奏、合唱、格闘競技会や運動競技会に女が参加することは禁じられていたが、この世界は逆。
外敵との戦いにおいてですら、女を参加させないと、それは『許されない差別』と見なされて、社会的罰を受けるらしい。
『女』の中にも、強い女や戦いを好む女がいるだろうことは、俺も認める。自ら戦いを望む女を戦いに参加させないのは不公平というものだろう。しかし、『女を必ず戦いに参加させなければならない』という決まりはどうなんだ。
ナデシコのママは、屋内に迷い込んできたてんとう虫をいちいち外に逃がしてやるような――正直、無意味としか思えない優しさを、当たり前のことのように示す人間だというのに。
無論、彼女がパパと二人で俺を倒してのけたことを忘れたわけではないが――それは忘れたくても忘れられない事実だが。
ナデシコのママは強い。極めて高度な戦闘能力を有している。それは確かだ。
だが、何というか――彼女は、戦いを好む人間には見えない。他に人材がないのなら致し方ないかもしれないが、そうでないなら、あえて戦いに参加させる必要などないと思うぞ、俺は。
まあ、それをいったら、ナデシコのパパも、特に戦いが好きなようではなかった。ナデシコのパパには、好戦的なところが全くない。
というか、ナデシコのパパは基本的にぐーたらな男のようだった。本人は『省エネのための無為』と言っている。
パパは必要最小限のことしかしない。表情を大きく変えないのも、何も感じていないからではなく、感じたことを表に出すのが面倒だから、らしい。
いや、それはともかくだ。パンガイア世界の覇者になるために、威張りくさった神たちと戦い、奴等を倒すことを、自身の存在証明かつ生きる目的と定めていた俺に言わせれば、ナデシコのパパとママはどちらも戦いが好きではないし、向いてもいない。
だから、二人の本職が戦士ではなく、役者だという説明に、俺は(一応)納得したんだ。
女も演劇に参加できるのなら、役者は女の仮面をつける必要がない。となれば、魔女や亜神を演じるのでない限り、顔の造作が整っている人間の方が役者向きだしな。
ちなみに、ナデシコのパパとママが参加している特撮ドラマというのは、観客を集めて舞台で行なうものではなく、特別な場所で演じ、その様子を記録し、動画として、不特定多数の人々に視聴させるもの――ということだった。
その動画作成のための施設がスタジオで、ナデシコのパパとママはそこに住んでいる。
パパとママ以外の役者や、その他の大勢のスタッフも。
スタジオは、例の巨大な箱だ。亜神の俺より大きかった箱。あれは、ビルと呼ぶのが一般的らしい。
パパとママが暮らしているスタジオのビルには、高い尖塔もついている。
三十階建てで、地下と地上一階から五階までは、広いホールやいろんな機械が置いてある部屋がある。それから、食堂やカフェテリア、病院、スポーツジム。みんなで使う共有スペース。
六階より上は、スタジオ関係者の居住階。
二十九階と三十階は、特別に偉い人用。
屋上には、ヘリポートというのがあるんだそうだ。
スタジオ関係者の住居になっている六階から二十八階までは、ほとんどが個室になっていて、百人前後のスタジオ関係者が、日々の暮らしを営んでいるらしい。
ナデシコのパパとママは、ビルの真ん中らへんの十五階に、それぞれの家を持っている。
同じ間取り、同じ広さ。3LDKというそうだ。
同じ間取りなんだが、パパの家とママの家を比べると、パパの家には物がほとんどないので、ナデシコの部屋はパパの家の方に作ることにした。
パパの家の方に、何もない空き部屋が二つもあったんだって。
ご飯は、三階の食堂や四階のカフェテリアで、好きなものを食べられる。
パパは料理が上手いらしいけど、大人用のご飯しか作れない。
ママは、料理ができないわけじゃないけど、その分の時間と労力を別のことに使いたいから、ここ一年くらい、キッチンに立ったことがなかったんだとか。
このスタジオビルの食堂は、子供用の食事やおやつについては考慮されていないから、対応策を練るって、ママは言ってた。
スタジオビルでパパたちと暮らすようになってから、ナデシコは、パパとママの名前や部屋番号を覚えた。
パパの名前は最東秀人。二十三歳。瞳が青黒い鉱物のような――美しいが無機質に感じられる美形。
ママの名前は最東優理。二十二歳。花のように優しい印象の美人。不愛想なパパの分も、いつもにこにこしてる。不愛想なパパの分、外交を一手に引き受けているような感じだ。
パパは青砂石。ママは鈴蘭水仙の花といったところか。
ナデシコは、パパがお気に入りだ。
パパは、『パパ』と呼んで、じっと見詰めると、何でもナデシコの言うことをきいてくれる便利な男。
自分からナデシコのパパだと言い出しただけあって、ナデシコに関することの全責任を自分が引き受けようと考えているようだった。
自分には、ナデシコを幸せにする義務があるのだと。
血も繋がっていない子供のために、どうしてそこまで強く重く思い込めるのか、少々不思議ではある。
ナデシコとは逆に、俺は、どちらかというと、ママの方が好みだ。何といっても、俺が選んだママだからな。
美人で聡明。知らないことを訊くと、何でもすぐに、この世界初心者の俺にもわかりやすく説明してくれる。ナデシコの言いなりになっているパパを制御する手腕も見事だ。
聡明というのは、人の心を慮ることができるということで――パパはナデシコに甘いが、優しいわけではない。ママはナデシコに厳しいが、それはナデシコのためを思ってのことで、つまりは優しさだ。パパとママのナデシコの愛し方は違う。
どちらが、この世界の親として標準的なのかは、俺にはわからない。
そもそも、この世界は、俺にはわからないことばかりなんだからな。
この世界のことを知りたくて、俺は毎日、パパとママを質問攻めにした。
『あれは何』
『これは何』
『そうなるのはどうして』
俺は、この世界に生まれた者なら訊かないようなことも訊いてしまっていたかもしれない。
幸い、医者がナデシコの現況に関して、『言葉は忘れず、エピソード記憶を忘れるタイプの健忘症だろう』と言ってくれていて――だから俺は、ナデシコがショックで言葉以外はすべて忘れてしまったことにした。実際、その通りだったしな。
俺は、この世界での常識と生活力を身につけるために頑張ったんだが、口を開けば、『あれは何』『これは何』『そうなるのはどうして』の俺に、パパはぐったり。
「ナデシコは、どうして、いつもこう、質問攻めなんだ」
げんなりした顔でママにそう言うパパを見た時、ナデシコは身体が震えた。
ナデシコはパパのためにも、いろんなことをいっぱい覚えようとしていたのに、パパはそんなナデシコを鬱陶しがっている。
パパはナデシコを叩くかもしれない。ナデシコを蹴飛ばすかもしれない。
叩かれるのも、蹴飛ばされるのもいい。そんなことは我慢する。でも、パパに嫌われたくない。
ナデシコは身体を縮こまらせた。痛いのが怖いからじゃなく、パパに嫌われるのが怖いから。
でも、パパはナデシコを叩いたりしなかった。蹴飛ばしたりもしなかった。
ぐったりしたパパを見て、ママが笑う。
「体力自慢の秀人が情けないこと言ってるね。小さな子供には、『なになに期』と『なぜなぜ期』っていうのがあるんだよ。世の中のお父さんたちはみんな、この時期を乗り超えてるんだ。秀人より体力がなくても」
「俺だって、ギブアップしたわけじゃない」
「うん。ナデシコちゃんは、事故のショックで、エピソード記憶の大部分を忘れてしまっているそうだから、二歳児の『なになに期』と三歳児の『なぜなぜ期』の両方を、最初からやり直しているんじゃないかな」
と言ってくれた。
怒ってない。少なくともママは怒ってない。
ナデシコ(俺)は、恐る恐る、俯かせていた顔を上げた。
パパも――怒ってはいないようだった。
「つまり、ナデシコが、『あれは何』『こうなるのはどうして』と訊いてくるのは、ナデシコの知能が順調に発達しているからか? ナデシコが賢いから」
パパが、いつも通り無表情で、だがママより瞳を輝かせて言う。
「賢いから――というより、賢くなろうと頑張ってるってことだね。もしかすると――」
いつものようににこにこしていたママが、少し暗い顔になる。
「もしかすると?」
「エピソード記憶を忘れたからじゃなく……ナデシコちゃんはもともと、『なになに期』や『なぜなぜ期』に、必要な知識を両親から与えてもらえなかったのかもしれない」
「……」
パパの瞳が凍りつく。心が凍ったみたいに冷たい目。
ナデシコは、別の意味で、パパが怖くなった。
怖い気持ちは、すぐ消えたけど。パパがナデシコを抱きしめてくれたから。
突然パパに抱きしめられて、ナデシコの身体の大きさ――というより小ささ――に慣れきっていない俺は、ちょっとびっくりした。
パパは、だが、ナデシコの身体が潰れないように、ちゃんと力の加減をしてくれていた。
パパはナデシコの身体を抱いて――抱きしめたままで、何度もうんうんって頷いてる……?
「大丈夫。大丈夫だ。俺が、ナデシコを、世界一可愛くて賢い女の子にしてやる。俺も優理も、実の親なんかいなくても立派に成人した。大丈夫だ。ナデシコは、優理のように優しくて賢い美人になるんだ」
パパに抱きしめてもらった上に、ママみたいな美人になるという確約までもらえて、俺はいい気分だった。
血もつながっていない。その約束に何の根拠があるわけでもない。本当に不確かな約束。
だが、きっと実現すると信じてしまえる不思議な約束。
そうか。パパとママにも親がいなかったのか。
死んだのか、捨てられたのか。
パパが――結局はママも――ナデシコを引き取ってくれたのは、そのせいもあったんだな。
自分たちと同じ境遇の子供。それは、パパとママには、できる限り幸せにしてやりたい子供だったんだろう。
俺、頑張って、可愛いいい子になるよ。約束する。
「うん。ナデシコ、がんばる」
パパの腕の中で、無責任に、実現できるかどうか全くわからない約束をする幸せ。
「優しくて賢い美人――って、微妙に褒められてる気がしないんだけど……」
ナデシコの頭を撫でながら、ママが不満そうにぼやいた。
スタジオビルの中にあるパパのおうちで暮らすようになってから最初の一週間、ナデシコはパパとママと一緒に、毎日買い物に行った。
あの大きな甲虫――自動車という乗り物に乗って。
俺はあれが、大きな虫が人間を食べたり吐き出したりしているのだと思っていたのだが、そうではなかった。
あの甲虫は金属でできた入れ物で、中に人間が入り込み、動かすものだったんだ。わかりやすく言えば、馬に繋がっていない荷車だ。それを人間が自由に動かす。
この世界の人間たちは、荷物を運んだり、自分が場所を移動するのに、この甲虫を使うことが多いらしく、一歩家の外に出ると恐ろしい数の甲虫が道路を走りまわっている。
その道路も、甲虫が移動しやすいように平らに均されていて、凹凸がほとんどない。地表のほとんどを平らに均すために、いったいどれだけの人間がどれだけの年月をかけたことか。考えただけで、俺は気が遠くなった。
しかし、更に驚くべきは、途轍もない速さで移動している無数の金属甲虫たちを、三つの色を表示するだけの信号機というものが統制しているという事実。
初めて車に乗った時は、本当に驚き、ものすごく興奮した。信号機に出会うたび、止まったり、素通りしたりして、一度も他の甲虫にぶつかることなく移動する金属甲虫たち。
すごいすごいすごい。
俺は、亜神で巨体だったから、パンガイア世界では馬に乗れなかった。場所を移動する時には、自分の足で走るしかなかった。
初めて自分の足以外の手段で場所を移動することを経験して、俺の心臓はばくばくした。
「馬は使わないの?」
ママに訊いたら、
「ナデシコちゃんはお馬さんに乗りたいの?」
と、逆に訊き返された。
この世界にも馬はいるのか。
自動車に乗ることを経験してから馬に乗ったところで、さほどの感動が得られるとは思えないが、馬にも一度は乗ってみたい。
「乗りたい」
ママに頷いた時、俺は、それが車に乗ることの百倍も面倒なことだとは知らなかった。
ナデシコがポニーという馬に乗れたのは、それから三ヶ月もあとのこと。
その頃には、パパやママの運転する車に乗ることにはすっかり慣れていたのに、年寄りポニーの背に乗るのはものすごく怖かった。
ナデシコくらいの歳の子は、ポニーに乗ると半分以上が泣き出すんだって。ナデシコは泣かなかったぞ、もちろん。
思いきり、話が逸れた。
最初の一週間の買い物の件だ。
最初の日は、ベッドと衣類と靴と食器。歯磨きセットとタオルを買ってもらった。
二日目は、衣類を入れるチェストと帽子。リボンや玩具。スリッパ。櫛とブラシ。
三日目は、バッグと絵本とハンカチと、洗面台用の踏み台と、ベランダ用のサンダル。
パパの家で暮らしていると、次から次に足りないものに気付いて、買い物をした次の日も必ずまた買い物に行かなきゃならなかったんだ。
パパとママとの買い物は大変だった。
ママは、買い物に行く前に、いつもものすごく買い物の勉強をしてきてて、ナデシコやパパが『これ』と選んだものに、『だめ』ばっかり言うんだもん。
「ナデシコちゃんの成長スピードを考えると、そのベッドはすぐに使えなくなるから、もう少し大きいものにして」
「その布は通気性が悪いからだめ。可愛いけど、肌によくない」
「その袖は、腕を上に上げにくいでしょ。機能性を欠いた服は怪我のもとだよ」
「その食器は、取っ手が掴みにくいから、他のにしよう」
「その靴は、綺麗だけど、きっと靴擦れを起こしちゃうよ」
パパとママとナデシコの買い物は、可愛いものを選びたいパパとナデシコチームと、安全快適重視のママとの戦いだった。
パパは、最初は、買い物に行くのが面倒で、『ネットで全部揃えればいいじゃないか』と言ってたらしい。でも、ナデシコとママと買い物をしているうちに、買い物バトルが楽しくなったみたい。
勝つのは、だいたいママなんだけどね。
長くて大きなリボンのついた薄オレンジ色のスカートは、ママに大反対された。
「そのスカートは、長いリボンが引っ掛かったら危ないから、こっちのリボンのついてない水色のスカートにして」
って、ママは言うの。
でも、ナデシコは、そのリボンがついてるのがよかった。
パパも、ナデシコには水色よりオレンジ色の方が似合うって言ってくれた。
「怪我したらどうするの」
「リボンは、普通の蝶結びじゃなく、ボンボンみたいに すべてループになるように結べばいいだろう。長い尻尾がなければ、挟まったり引っ掛かったりはしない」
「ナデシコ、このスカート着た時は、おしとやかにする」
って、二人で頑張って、ママのOKをもらった時は、パパと二人で、
「やったー!」
って歓声をあげて、大喜びした。
服を一着手に入れることが、こんなに大変なことだったとは。
パンガイア世界で生きていた頃の俺は、クマやシカの皮を剥いで、適当に身体を覆っていた。クマの毛皮の色やシカの毛皮の色は変えられない。変えようと思ったこともない。水色よりオレンジ色のスカートの方がいいなんて気持ちは初めて経験するものだった。
パパは、パパとナデシコの戦利品を着たナデシコの写真を撮って、仕事仲間にばら撒いた。
髪は二つに分けて結んで、お花のリボン。いろんなポーズを決めて何十枚も撮った写真の中から厳選した五枚。
その結果、なぜか、ナデシコのお披露目パーティが催されることになったんだ。
パーティといっても、同じスタジオビルに住んでいるパパとママの仕事仲間が三人、パパとナデシコのおうちにやってきて、自己紹介をし合うだけのささやかな集会だったけど。