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藤が咲くたび思い出せ

作者:

 螢田さんですか。

 と尋ねてきた声が少し震えていて、私は相手の緊張をなだめるように大きめに微笑む。

「はい、そうです」

「わあ、あの……いつも応援してます。私、一ノ瀬です」

 落ちつかなげにバッグの紐を握りしめているのは、私よりいくつか年下だろう、かわいらしい女の子だ。これが、と思いながら「あ、『いちのせ』さん。いつもありがとうございます」と言って立ち上がる。一ノ瀬さんの顔がぱっと明るくなり、「覚えててくださったんですか、嬉しい」と言う。

 ここ半年毎日のように私の通知欄に現れる「いちのせ」さんは、苺のイラストのアイコン。私が小説を投稿すると必ずブックマークといいねをくれる人だ。ニュアンスカラーに染めた髪を肩の上で切りそろえ、ややきれいめの服装に合わせて上品なトートバッグを肩に提げている。若くてかわいくて同人イベントに来慣れている。

 既刊と新刊を一冊ずつ買ったあと、一ノ瀬さんはトートバッグから小さな紙袋を取り出し、「紅茶がお好きだって聞いたので、良かったら……あの、お手紙も書いてきたので、中に入ってます」と差し出してくれた。「ありがとうございます」と手を伸ばして紙袋を取ったが、受け取れなかった。

 一ノ瀬さんが紙袋を離さない。

 ――顔が、思いの外近かった。

 黒目がちの大きな瞳だ。いや、カラコンを入れている。その瞳が私の瞳をまっすぐに見つめ、どこか遠く、一番奥の、何かを射すくめている。

 私の想像を超えた何かを。

 戸惑いは一秒にも満たなかった。一ノ瀬さんはすぐに手を離し、「お会いできて嬉しかったです。感想、書きますね」と小さくお辞儀して、人混みの中に消えていった。

 パイプ椅子に座り直し、少し首をかしげた。顎のほくろに触れ、眼鏡を直す。ミントグリーンの紙袋は何事もなかったかのように私の膝に収まっている。落ち着かない気分だったので、深呼吸した。自分の体に意識を寄せると、服の内側から香る藤の匂いが私を包んだ。


 螢田湯水の名前で小説を書き始めて六年ほどになる。就職活動の息抜きに始めたが、思いの外のめりこみ、小説を書く時間が十分取れそうな職場を選んだ。書くのは掌編や短編ばかり。こまめに小説投稿サイトにアップロードし、印刷所に頼んで本を作っては、年二回ほどイベントに出る。地味なストーリーと目を引くところのない文章で、ランキングとはほぼ無縁だが、長く続けていればそれなりに読んでくれる人も現れる。イベントでは三十冊ほどをさばいた。実力に対して妥当な数字だと自分では考えている。

 だから、こういう手紙をもらうのは初めてではない。

 風呂から上がったあと、残部と釣り銭と差し入れを整理する。一ノ瀬さんのくれたティーバッグは苺の香りの紅茶だった。一ノ瀬さん以外にも二人、知り合いがお菓子とお茶をくれた。それぞれ台所の引き出しにしまって、最後に一ノ瀬さんからの手紙を開く。

 小花柄の便箋に小さな文字で、螢田さんの文章がとても好き、先日アップロードしていた短編では思わず泣いてしまった、というようなことが書いてあった。

 書いてはあったが、うまく内容がつかめず、もう一度頭から読み返す。

「スカートを翻すところの描写なんて、え……天才……? って呟いちゃいました。本当にどうしてこんな文章が書けるんだろうっていつも思います。才能がすごすぎて……語彙力分けてください……!」

 スカートを翻すところの描写とやらがどの文のことか分からず、しばらく考え込んだ。たしかにラストシーン近く、主人公が振り返るところでスカートのことを書いたような気がするが、こんなに褒められるほどの文章だっただろうか?

 アカウント名は書かれていたが、IDは添えられていなかった。「覚えててくださったんですか」とは言っていたが、当然誰だか分かるはずだと思ったのだろう。スマホでツイッターを開いて通知欄を見ると、一番上に彼女のアイコンがある。タップすると、「今日はお疲れさまでした!いろんな人と会えて嬉しかった~!」との投稿に、私のものを含む数冊の冊子の写真が添えられている。いいねを押して更新すると、「あこがれの螢田さんに会えたのも嬉しかった……螢田さんマジの美女だった……」というのが追加されていて、どういう表情をすればいいのか悩む。そちらの投稿はスルーして、「イベントに来てくださったみなさま、ありがとうございました。通販は少数ですが明日から開ける予定ですのでよろしくお願いします。」と投稿する。すぐに二人からいいねが飛んできて、そのうちの一人はもちろん一ノ瀬さんだった。

 ふと思い立って、一ノ瀬さんのアカウントを見直す。体感だが、一次創作小説を読む人の過半数は何らかの創作をしている人だ。特に私のような弱小サークルの本を買うのは。しかし、一ノ瀬さんはその例外のようだった。pixivのアカウントはあるが、投稿はない。

 ベッドに横になり、そのままだらだらとツイッターを見続ける。仕事とは違うタイプの疲れにやわらかく押しつぶされて、このまま寝てしまいそうだ。

 誰かがリツイートした文章が目にとまった。曰く、創作・発表をする人はもれなく感想に飢えている。誰かの創作が好きだと思ったら一言でもどんな感想でもいいから書いて渡そう、創作者はそれさえあればどこまでも行けます、とのこと。年に一度ほどは誰かが同じようなことを言って同じようにバズる。

 でも、そうなのだろうか。目を閉じて、藤の香りを思い出す。感想は嬉しい。ありがたいなと思う。でも一ノ瀬さんの感想は、女子校時代の後輩たちのことを思い起こさせた。

 私の親友はいわゆる女子校の王子様役で、確かにきりっとして整った顔立ちと素敵な声をしていたが、内面は格好いいというより繊細な人だった。手紙やバレンタインのチョコレートをもらうたび苦笑いして、私のことなんて知らないのに、どうして好きだなんて言えるんだろう、と言っていた。特に迷惑な好意を受けたときには、どうしても何も、何にも考えてねえんだろうな、と吐き捨てていた。その何にも考えてない女の子に、一ノ瀬さんとその感想は似ているのだった。

 そこまで考えて、はっと目を開けた。これは、いくらなんでも失礼すぎる。何も知らないわけじゃなくて、ちゃんと私の小説を読んで、その上で好きだと言ってくれているのだ。自分の褒められたいところと相手の褒めたいところがずれているからといって、こんな風な拗ね方はよくない。そう、拗ねているだけだ。一ノ瀬さんが悪いわけではない。

 起き上がって、洗面所の鏡を開けた。イベントの時や不安なときにだけ使うことを自分に許している香水瓶には、藤の花のイラストが細い線で描かれている。空中に向かってプッシュし、その霧の中をくぐり抜ける。慣れた香りが肺を満たす。柔らかくて甘い、華やかではないが美しい香り。

 藤野さん、と呟いた。声は霧と共に消えた。


 二次創作はほとんどしないのだが、好きな漫画の好きなカップリングのアンソロジーに誘われて承諾した。そのとたんに仕事が忙しくなり、珍しく遅くまで残業するのでなかなか書く時間が取れない。金曜の十二時、同じアンソロジーに参加予定の友人が開けているdiscordでもうだめだ、もう間に合わない、とうめいていると、一ノ瀬さんが音声通話に入ってきた。

「あー、一ノ瀬さん」と友人の速水は明るい声を出し、「どうもです。入って大丈夫でしたか?」と一ノ瀬さんも慣れた声だった。

「ほたるさん、一ノ瀬さんと相互だっけ」

「うん相互。一ノ瀬さん、イベントではありがとうございました」と言うと、「螢田さん! こちらこそです、ご本読ませていただいてて……あの、通話入って大丈夫でした?」ともう一度聞く。ぜんぜん大丈夫ですよ、と言わせたいのだろう。

「いや、今度のアンソロが間に合わなさそうで焦ってたところで……十四日が締め切りで」

「励ましてあげて、マジでギリギリなんだって」と速水の声は明らかにニヤニヤしている。「いや、間に合いはしますよ。間に合いはするんですけど、私余裕もって仕上げて見直したい派なんですよ。速水とは違うから」

 こうして喋ってないで書けって話ですけどね、とエディタをスクロールする。起承転結で言うと起が終わったあたりだ。

「螢田さんは、普段どうやって書かれてるんですか?」

 明るい声音で一ノ瀬さんが聞いてくる。そうですねえ、と少し考えてから、「まずざっと最後まで書いて、時間置いて見直して四分の一くらい書き直して、また時間空けて見直して書き直して、その繰り返しですね。本当は校正にも二週間くらいかけたいなあ、書くときは急いで書くぶん、誤字脱字がすごく多いので……」と答える。一ノ瀬さんは細かく相づちを打っていたが、「なるほど……」と言って黙った。書かない人にはそれ以上コメントすることもないだろう。

「速水は頭から最後まで全部決めてから書くんだもんね。私もそれができたらな」

「その分書き出すまで七転八倒よ」

 だらだらと雑談を続け、一時を回ったところで速水がもう寝ると言い出した。私もだいぶあくびが止まらなくなってきたので、エディタを閉じる。じゃあおやすみなさい、と挨拶を交わしているところで、一ノ瀬さんが「あの、一瞬だけいいですか」と袖を引くようにやや甘い声を出した。

「良かったらなんですけど、校正やらせてくれませんか」

「……校正ですか?」

「私、誤字脱字見つけるの得意なんです。何回も書き直すんですよね、きりのいいところで渡してもらえたら何回でもやり直します」

 どうやって断ろう、と考えた。校正が嫌なのは本当だが、人に頼むほどではない。「ああ……お気持ちはありがたいですが……お礼もできないですから」と言うと、「いや! 下心めっちゃあるんです、好きな人の文章どう変わってくのか、すんごい見たいんですよ」と語気を強められた。この人はいつもお芝居のような喋り方をする。

「……何回もお願いするの申し訳ないですし」

「全然大丈夫です!」

 やわらかい苛立ちが上ってくるのを感じたが、もう退出したと思っていた速水が「いいじゃん、今回だけ頼めば?」と私より面倒くさそうに言うので、抵抗する気が失せた。「じゃあ……遅くとも週明けには第一稿が出せます。それでいいですか」と言うと、一ノ瀬さんの声は花が咲くように輝いた。


 一ノ瀬さんの校正は予想以上に質が高かった。単なる誤字だけでなく、表記揺れや登場人物の一人称の誤りも指摘が入る。一方でストーリーや文章そのものについてはまったく触れず、感想も言ってこない。第一稿の半分ほどを書き直した第二稿を渡しても嫌な顔ひとつせず、ややこしい指摘は音声通話でわかりやすく説明してくれた。おかげで無事に脱稿し、アンソロジーの主催者からの評判も上々だった。

 これだけ丁寧に読んでくれていて、なぜ彼女の感想は的を外しているのだろう。

 この間のイベントで頒布した本についても、少し前に感想を送ってくれていた。五本入った短編のひとつひとつについて書いてくれたが、どれも突き詰めれば「感動しました」「個性的ですごい」「語彙力がある」としか言っていない。何に感動したのか、個性的とはどういうことなのか、語彙力っていったい何なのか。テーマには触れず、読んで思ったことや考えたことは教えてくれず、「才能」という言葉が頻出する感想を読んでいると、そればかり考えてしまう。

 プチオンリーイベントを一回りし、アンソロジーの本を受け取って、会場の外で一ノ瀬さんを待っている間、自分に言い聞かせ続けた。思ったような感想がもらえないのは自分の実力不足で、拗ねたすえに相手を軽んじるのはよくない。少なくとも校正をしてもらったことで、ろくに読んでいないんじゃないかという疑いは晴れたのだ。読んでくれている人に感謝以外の気持ちを持つのは恥ずべきことだ。

 深呼吸し、藤の香りを吸い込んで、気持ちが落ち着いたところで一ノ瀬さんと合流した。透け感のある深緑色のトップスを着て、心底嬉しそうな笑顔をこちらに向けている。私も大きめの笑顔で出迎えて、数駅先の喫茶店に入った。

 無事脱稿したとき、校正のお礼を何か渡したいと言ったのだが、一ノ瀬さんは本以外は何も受け取らないと主張した。しばらく問答したあと、あのお芝居のような声音で「じゃあお茶でもおごってください」と言われ、しまった、と思ったものの断れなかった。一ノ瀬さんがあらかじめ調べておいてくれたカフェは外観も内装も愛らしく、周囲は若い女の子ばかりだ。

 それぞれのケーキが運ばれてくるまでの間に本を渡すと、一ノ瀬さんは身を乗り出して、「ずっと感想言うの我慢してたんですよ!」と言う。

 一ノ瀬さんは本をめくって、ここの文章が良かった、と指してくれたが、特に何の考えもなく書いた一節だったので微笑むに留めた。

「みんなかわいくて、高校時代を思い出すっていうか、青春! って感じできゅんきゅんしちゃいました」

 と言ったのを見計らって、「一ノ瀬さんは、どういう高校生だったんですか」と尋ねた。一ノ瀬さんは笑顔のまま、「え……どうって、普通です」と答えたが、声は少しこわばっていた。

「普通にもいろいろあるでしょう、何部でしたか?」納得のいかない感想を聞かされるより、よく知らない人の話を聞いた方がずっと面白い。

「えーっと……」とようやく笑みを消して、一ノ瀬さんは窓の外に視線を泳がせた。ちょうどケーキと紅茶が運ばれてきて、配膳と写真撮影が済んだ頃、一ノ瀬さんは「あ。ギター部でした」とたった今思い出したかのように言う。

「ギター部?」

「クラシックギターっていうんですか。何人かで合奏するんです」

「へえ、うちの高校にはそんな部なかったな。強かったんですか?」

「……まあまあ、ですかね?」

「すごいじゃないですか。今はやらないんですか?」

「あー、まあ、もう弾けないと思います、全然」

「そういうものですか。体で覚えてるんじゃないですか」

「いや、そういうものかもしれないですけど、私は弾けないです」

 微妙な言い方だったので聞き返そうとした瞬間、「螢田さんは?」と聞き返された。話したくないらしい。

「バスケ部。まあまあ……かなり下手でしたね」

「あはは、運動部ちょっと意外です」

「友達に誘われて……割とゆるい部だと言うから入ったんですけど、その友達が背が高くて上手で、一年からレギュラーになったら結構勝ち進んでしまって。次の年からはガチっぽい子が増えてしんどかったな」

 引退までついに一度もレギュラーにはなれず、私の主な仕事は後輩たちの練習指導と、エースとなった親友のサポートだった。彼女の外見とコートの中での振る舞いしか知らない後輩たちは想像もできなかっただろう。彼女はちょっとしたことでひどく落ち込み、よく泣いていた。「もういい、イラスト部に転部する」と言うのを何度なだめたことか。今でもよく思い出す。

「お好きだったんですね、その人のことが」

 と一ノ瀬さんが言う。

「そうですね。とても」

 一ノ瀬さんはしばらく黙っていたが、「今でもお好きなんじゃないですか?」と尋ねてきた。何を言われているのかしばらく分からなかったが、彼女に恋しているのか、という意味だった。まさか、と私は笑った。「上下のない姉妹のような感じですよ」

 私たちは毎日一緒に練習し、ご飯を食べ、漫画を回し読みしては感想を語り合い、くっついて眠り、慰め、励まされ、ほとんど自分と彼女の境目が分からなくなるほどだった。漫画の趣味がとても合って、彼女の好きなキャラクターのことを私も好きだった。彼女を慕う後輩たちへの薄い軽蔑も、もともと私のものだったのか、それとも彼女のものだったのか、今となっては判然としない。

「ただ……別々の大学に入って、少し離れてみると、彼女と私はまるで似ていないってことに気づいたんです。今でもたまにおしゃべりしますけど、あのころほど深く結びついている感覚はもうないですね。彼女は小説をまったく読まないので、私の文章も読んでいないはずです」

「ああ、たまに会ってるんですね?」

「なにかあるとすぐ電話かけてきますね、仕事辛いらしいです」

 ケーキを食べ終えて、「恋の話が聞きたいんですか?」と尋ねた。一ノ瀬さんはきょとんとして、苺を刺したフォークを空中にとどめている。

「恋の話……ですか」

「あれ、違いますか。女の子は恋バナが好きかと思って」

「螢田さん……小説のときの繊細な話運びはどうしたんですか。認識があまりにも雑じゃないですか?」

「一ノ瀬さんは、私のことを知りたいんでしょう?」

 一ノ瀬さんの大きな瞳が少し冷えた。

「本当は、一ノ瀬さんのことを知りたいと思って来たんです。でも一ノ瀬さんはあんまり喋りたくないみたいだから、私の話をしてもいいですか?」

 彼女はは表情をやや固くしたまま小さく頷いた。私の好みではないイヤリングが揺れた。

 それでも本当に言うか、少し悩んだ。さっきあれほど、彼女への苛立ちを抑えようと自分に言い聞かせたのに。今言おうとしているのは、結局彼女にそれを押しつけることだ。

「恋ではないけど、恋に似てるくらいに思っていた人がいます。藤野さんという人です」

 スマホを出して、藤野さんのツイッターアカウントを開いた。更新は三年前で止まっている。一ノ瀬さんに画面をちょっと見せると、彼女は真顔のまま首を傾けた。

「本名はもちろん、どこで何をしている人なのかほとんど知りません。たぶん女性で、小説とエッセイを書いていることくらい。私の中で彼女に顔はありません」


 藤野さんのアカウントをフォローしたきっかけはもうほとんど思い出せない。多分小説を書き始めたころ、一次創作をしている人を片端からフォローしたのだろう。同じように、藤野さんがいつフォローを返してくれて、いつからそれなりに会話をするようになったのかもよく分からない。

 彼女が書くのは、ジャンルとしてはソフトSFだったが、ファンタジーに見えるときも純文学に見えるときもあった。力強くスピード感のある文章で思いもかけない結末に着地する。不親切に見えるほど切り詰めた文体、途中のストーリーをカットしたのではと思えるほどの跳躍、小説は短ければ短いほどよいと信じているらしかった。少ないが確実なファンがついていて、私もすぐその一人になった。

 藤野さんが初めて書いてくれた感想のことはよく覚えている。

「面白かったです。一本の薔薇によって一瞬で世界が変わっててしまう、その鮮やかさにしびれました。次の話も待っています」

 まず、誰も私の小説など読んでいないだろうと思っていた。よく書けたと思ってもアクセス数やブックマークの数字はほとんど伸びず、感想をもらうことはほとんどないと言ってよかった。

 そんな中で、あの美しい文章を書く人から褒められた、と思うだけで胸がかっと熱くなったが、それ以上にその短い感想が私を驚かせた。薔薇について、たいした考えがあって書いたわけではなかったからだ。

 しかし改めてその作品を読み返して見ると、「一本の薔薇によって世界が変わってしまう」という指摘はまったくその通りだった。そうだ、薔薇は愛と、それによる世界の変貌の象徴に決まっている。どうしてそれが書いている自分に分からなかったのだろう。そしてこの人はなぜそれを過たず言い当てられるのだろう。興奮のあまり部屋の中で立ったり座ったりを繰り返し、結局「ありがとうございます。次も頑張ります」とだけ返信した。

 その日を境に、私の小説は格段に良くなった。なぜここで起きた出来事が重要なのか? この登場人物はなぜこのような発言をしたのか? 何が何の象徴なのか? 私の中に答えはあっても、それを直視することがなかった。しかし羅針盤を得た今、登場人物に一貫性を持たせ、テーマに奉仕するようなモチーフを盛り込み、意図を示唆するよう文章を整えることが可能になった。それによってかえって頭でっかちになり失敗してしまった作品も数え切れないが、しかし全体で比べれば、勘で書いていたときに比べて明らかにエッジが立ち、輪郭がはっきりしている。書けば書くほど面白くなって、次々に投稿した。ブックマーク数もフォロワー数もぐんと増えた。

 藤野さんがカーテンを開けてくれたのだ。開け放たれた窓を通して私の文章に風が通り、屋外の美しい景色が見えた。外の人たちと会話もできた。

 藤野さんが感想をくれるのは特によく書けたものだけだった。

「風邪の描写が良くて、私の喉まで痛くなってきました」

「彼らはこれから海を見るたび言わなかった言葉を思い出すのだろうと思いました」

「一文目の勢いが好きです」

「この世から音が消える日のことを考えてしまいました」

 どれも一言二言の短いもので、確実に的を射ていた。的は私の意図したものであることもあれば、あの薔薇のように意図しないものもあった。私よりも私の文章を分かってくれている人がいるというのは、頼もしかった。

 いつしか私は、藤野さんに褒められることを目標にするようになった。

 嬉しい感想を書いてくれるから、というだけではない。力量がついた――と言えるほどのものではないにせよ、自分が書くことに慣れてくると、藤野さんの文章の良さがさらに分かるようになった。簡潔にして雄弁、少ない文字数で多い情報量を伝える術を知っている。エッセイになると文体は急にやわらかくユーモラスになる。街で見かけた人のことや家族との思い出を書いたブログは、小説よりも人気があったようだ。ツイッターもそちらに寄っていて、眠いとかお腹がすいたというようなぼんやりした日常ツイートはひとつとしてなく、誤字すらもほとんどなかった。いつまでも安心して読んでいられる。

 かなり過去まで遡ってツイートを読み、新しい投稿を見逃さないようリストに入れた。毎日藤野さんの文章に浸った。まるで恋のように。

 この人に認められたい。この人に失望されたくない。

 偶然見つけてもらったことを無にしたくない。

 文学フリマに出ます、というツイートを見たのは春だった。二次創作でのイベントのことは知っていて、友達と一緒に行ったこともあったが、一次創作でのことはよく知らなかった。藤野さんのお知らせの文章をまじまじと読んだ。

 同じ頃、藤野さんが、ある化粧品ブランドの新作香水を「欲しい」と言っているのを見かけた。期間限定の藤の香りだという。彼女は藤にまつわるものを集めているらしかった。「オンラインだと即売り切れだろうけど近くに店舗ないし厳しいかも」と言っているのを見て調べてみると、私の家のわりと近くに直営店があった。

 二サイズあるうち、小さい方の価格は三千円ほど。差し入れにしては少し高いけれど、感謝を伝えるなら、藤野さんの喜ぶ顔を見られるなら、いいんじゃないか。

 顔?

 そこで急に心臓が高鳴った。そうだ、藤野さんは生身の人間なのだ。顔があり、ものを食べて、香水をつける体がある。文章の化身ではないのだ。

 そう思うと、藤野さんの小説もツイッターも、急に違って見えてきた。どんな人だろう? どんな声をしているんだろう? 考えてみても、具体的なイメージはわいてこなかった。

 藤の香水は発売日に手に入れた。テスターをかいでみると、藤野さんの文章に似つかわしい、品のいい香りがした。この人に嫌われたくない、と、また思った。

 しかし、本物の藤の香る文学フリマ当日、ブースには誰の姿も無かった。

 パイプ椅子は閉じて机の上に置かれていた。私は四回ほど前を通り過ぎ、ついに意を決して隣のブースの人に尋ねてみると、「来てないみたいですね」とだけ言われた。他のブースを見て回り、タリーズでお茶を飲み、見本誌のコーナーで時間を潰して、それでも最後まで藤野さんは来なかった。ツイッターは前々日の告知を最後に更新されていなかった。いいねもしていないようだった。

 それきり、藤野さんはツイッターからもすべての投稿サイトからも姿を消した。

 事故にでもあったのか、すべての人から縁を切りたくなったのか、最悪の事態や冗談のようなシチュエーションを想像して、勝手に落ち込んだりあきらめようとしたりした。藤野さんが黙って見ているのではと想像しながら、共通のフォロワーと「どうしたんでしょう」「心配ですね」とリプライを交わし合った。

 半年が過ぎ、藤野さんのことは誰の口の端にも上がらなくなり、私の作品数は五十を超えた。

 あるとき、やけくそのようにキーボードを叩いてできあがった掌編が、普段の五倍のアクセス数を得た。感極まった様子の感想がいくつか来た。どうやら私よりフォロワーの多い誰かが紹介してくれたらしかった。しかし、自分で読み返してみてもいいのか悪いのかさっぱり分からなかった。作品との距離がうまく取れないのだ。更新ボタンを押すたびアクセス数はどんどん増えていく。

 仕事で疲れ切った木曜日の深夜、コンビニに走って印刷した。紙に印刷されたものを読むと、確かに悪くないように思われた。しかし次の瞬間、耳元で声がした。藤野さんはどう言うかな、と。

 重たい体を引きずって、しまい込んでいた紙袋を取り出した。ギフト包装を破き、小さな瓶を眺めて、天井に向かって一噴きした。

 藤の香りが降ってきた。

 目を閉じて、嗅覚に身を任せた。不可視の藤棚の向こうに、藤野さんがいる。ねじれた樹、絡まり合いながら腕を伸ばす枝。カーテンのように垂れ下がる花房のひとつひとつから、やわらかな甘い香りが漂ってくる。想像の中の藤野さんには顔がない。ただ空気の動きだけがある。

 藤野さんがいなくなっても、気持ちが消えていないことが分かった。――この人に認められたい。

 目を開けて、深呼吸した。

 初めての本ができあがったのはその三ヶ月後だった。藤の香水をつけてイベントに出た。文章と身体が分離してしまいそうな時には、藤の香りの中で呼吸した。この香りが藤野さんそのものであるように感じられた。

 そして三年が経った。


 一ノ瀬さんはしばらく黙っていた。紅茶はすっかり冷めて、夕日がテーブルの上の手に届いていた。

「その人のために書いているんですか」

 夕日が作るグラスの影をなぞって、「それはちょっと違う」と答えた。

「ただ……藤野さんに恥じないものを書きたいと思う。ここでいう藤野さんっていうのは、もう本当の藤野さんじゃない。藤野さんのことを生身の人間として扱うことが出来なくなって、もう理想や概念みたいになろうとしてる……という感じですかね」

 言いながら顎のほくろを触り、眼鏡を直した。その手が小さく震えていることに、他人事のように気づいた。

 藤野さんのために書いているのか、という問いが、私の中で少しだけ変換されて、胸の思いの外深いところに刺さっていた。

 感想のために書いているのか?

 私は驚いて、香水をつけた左手首を握った。温められて、甘い香りが立ち上る。

 藤野さんはもういない。藤野さんが私の小説を褒めてくれることはもうない。一ノ瀬さんのように、ずれた感想をくれる人はいても。

 本当は気づいている。棚にしまってある香水は、もう半分ほどに減っている。

 冷たくなった紅茶を一気に飲み干すと、声が勝手にこぼれた。

「……でも本当は、自信が無いのかもしれません」

 眼鏡を触り、唇をなぞって、左手首からの藤の匂いに鼻をうずめる。

「このままこの香水も無くなって、藤野さんが本当にいなくなったとき、書き続けられるのか。どうして書くのか」

 ほとんど囁くような声だったが、すべての言葉が一ノ瀬さんに吸い込まれていくのが分かった。

 一ノ瀬さんは私をじっと見ている。あの人工的な黒い瞳で。私は顔を上げることができずに、藤の香りを見つめていた。

「そんな風に考えること自体、……書くのをやめたほうがいいということかもしれませんね」


 それから一ヶ月ばかり、何も書かずに過ごす。

 書かないでいれば書かないでいるで、それなりに日常は忙しく、働いて、本を読み、食事のことを考えているうちに日々は過ぎた。公園に行ってベンチに座ると、秋の日差しはあたたかく、風は涼しい匂いがして、藤の香りは遠い幻としてしか思い出せなかった。読もう読もうと思って手をつけたことのなかった日本の近代文学を図書館で借りてきて次々読んだ。

 新宿の本屋で好きな作家が選書フェアをすると言うので出かけて行くことにして、久しぶりにツイッターを覗いた。一ノ瀬さんのツイッターは特に変わりないようだった。選書フェアのお知らせのツイートにいいねして、速水の新作を読みながら新宿に向かう電車に乗る。

 三角形のことを考える。

 本屋は広い。ここにある本の一冊一冊に著者がいて、それぞれの努力の末にこうして商品として売られている。その小さな市場に入ろうとなんとかもがいている人がいる。いずれその中に入る人もいる。そして私や速水のような、プロになることに何の興味もない、楽しみのために書いているアマチュアがいる。その広大な裾野。

 一冊を手に取る。これが三角形の頂点。私の短い人生では、その頂点のほんの一部しか読めないのだと思う。志賀直哉すらつい最近読んだ私は、死ぬまでに何冊読めるだろう。このフロアにある冊数にも届かないに違いない。

 それなのに、みんな人生には限りがあるのに、私の小説を読んでくれる人がいて、感想をくれる人がいて、それを喜べないどころか疎ましく思うのは、やっぱり間違っているのだろう。感情の動きは、間違っているからといってやめられるものではないけれど。

 私のことなんて忘れてもっといい小説を読めばいい、と私は祈る。こんなことを考えたうえ相手にぶつけるような、失礼な人間以外の小説を好きになってほしい。これもまたわがままだ。

 二冊選んでレジに持って行き、階段を降りると、そこに一ノ瀬さんがいる。

 一ノ瀬さんのことを考えすぎて幻覚を見ているのかと思ったが、一ノ瀬さんは不気味なくらいいつもの笑顔で「螢田さん」と呼びかけてきた。

「はい」

「螢田さん」

「はい」

「……来てしまいました」

「……そのようですね」

 警戒感が湧き上がる。たぶん私のいいね欄を見たのだろう。でもだからといって今日、確信もないだろうに、それもいきなり、来るか。一ノ瀬さんも私の警戒を見て取ったのだろう、一歩下がり、「どこか座りませんか」と外を指した。仕方なく後をついて行く。

 土曜の新宿に座れるところなんてない。

 さまよい歩いたあげく、二人ともくたくたになってサブウェイに入った。ホットの紅茶を前に、窓際の席に座る。私は念のため入り口側の席を取る。

「来ちゃって、すみませんでした」

 言葉に反して、声には甘えるような響きがある。少しだけ鼻にかかった甘い響き。かわいい女の子として扱われてきた人の声だ。私は黙って紅茶で手を温めた。

「あの……螢田さんに言いたかったのは……私は、螢田さんの書くお話が本当に好きで、ずっと書いていてほしいと思ってるってことで、その……藤野さんて方みたいに、書く人に読んでもらわないとだめなのかもしれないですけど……」

 少し長い前髪はきれいに巻かれて、白い額に均等に落ちている。丁寧にグラデーションされたアイシャドウ、太めの眉、どのパーツを取っても流行に丁寧に乗っ取ったメイク。落ちつかなげに唇やカップを触る指の、爪の色は彼女の推しのイメージカラー。

「蛍田さんの才能が失われるのは耐えられない。書き続けてほしいんです。私のために書いてくれませんか」

 かわいい子だな、と思った。生まれつきの顔の造作とは関係のないところで発生するかわいさ。無害な小鳥。彼女の口から出る才能という言葉の、なんという薄さ。

「それはあなたに見る目がないだけです」

 一ノ瀬さんは唇を噛んで黙った。その様子が小さな動物のようでかわいらしい。この女を言い負かしたい、痛めつけて黙らせたい、という気持ちが腹の底からせり上がってくるのを感じた。それに身を任せると、大きな声を出したときのような爽快感があった。

「私より上手い人、いくらでもいますよね。いいものが読みたいなら、プロの作品を読んではどうですか。ていうか、私、たいしたものも書けてないのに、あなたの感想はつまらないって思ってます。もっといい感想が欲しいって思ってるし、あなたを見下してるんです。とっても失礼な人間なんです。やめた方が良いですよ、こんな人応援するの」

 言いながら恍惚としてきて、私はうっとりと目を伏せた。

 一ノ瀬さんへの嗜虐心ではない。自分への嗜虐心だったのだ。言いながら傷ついている、自分に才能がないこと、ちっとも上手く書けないこと、よくできたと思った次の瞬間には裏切られていること。

 もし私に本当に才能があって、もっと納得のいくものが書けていれば、一ノ瀬さんの的を射ない感想だって、何の引っかかりもなく流せたはずだ。この程度の感想しか得られない、この程度の文章だと、認めるのが辛いから気にかかるのだ。

 瞼を閉じる。暗闇の中に美しい模様が見える。藤の花房のように規則的な模様。甘い香りすらしてくるようだ。

 くつくつ、と音が聞こえた。

 一ノ瀬さんの笑い声だと気づくのに、少し時間がかかった。目を開けると、一ノ瀬さんはおかしくてたまらないというように顔をゆがめて笑っていた。唇が大きくつり上がっている。

「螢田さんって、可愛いんですね」

 声は相変わらず芝居がかっていたが、役が変わったように別人に聞こえた。艶と奥行きのある豊かな声。腹の中に別のなにかがいるような。

「才能はあって、自信はないくせに、選り好みしちゃって。ふふ。可愛い」

 黒い目は細められて、大きな口は三日月のようだ。私が身を固くすると、一ノ瀬さんは大きく身を乗り出して、私に顔を近づけた。

「螢田さん――あなたの本当に好きなところを教えてあげます。過去をたくさん覚えているところです。それも鮮明に。子供時代を舞台にした話、あれみんな自分のことですよね。この間のバスケ部の話や、藤野さんの話だってそう。あなたに覚えられている人は幸福ですね。あんなふうに語ってもらえるなら」

 奇妙な抑揚をつけた声で言って、またくすくす笑う。脇の下と背中に汗をかき始めているのに気づく。

「あのね、どうしてあなたにこうやってまとわりつくんだと思います? あなたに覚えていてほしいからです。私は絶対にあなたを忘れるから」

「忘れる?」と尋ね返す声がかすれている。気がつけば私は椅子の上で可能な限り身を引いている。

「そう。私、親友のことも初恋の人のことも忘れました。あんなに頑張ったはずのギターのこともほとんど覚えてない。多分あまりにも普通すぎるんですね。みーんな忘れてその場限りで生きていくんです。でもそんなのつまらないじゃないですか? 欠落がこっちにしかないなんて不公平です」

 すねたような口調、いつもの幼い声なのに、ずっと年上の女が話しているようだ。

「だからせめてあなたの記憶に残りたいの、変な女として。そのためだったら私、私じゃなくなったって構わない」

 ぬるりと手が伸びてきた。身を引くが、すぐに背もたれに突き当たる。椅子の足がこすれてギッと不快な音を立てる。彼女の指が私の頬に触れ、輪郭をなぞった。彼女に触れられているところが粟立つ。

「ねえ……まだ気がつかないんですか?」

 何に、と聞き返すより早く気づいた。花の香り……甘いけれど穏やかな、藤の香り。彼女の手首から。

 私が目を見開いたのを見て、一ノ瀬さんはにっこりと笑い、左手に持ったものをかるく振ってみせた。細い線で描かれた藤のイラスト。私の頬を包んだ彼女の右手から、気づいたとたん、むせかえるような甘い香り。

「メルカリにあったんですよ。探しちゃいました。……ねえ、螢田さん」

 恋人がするように、顔をすこし引き寄せられる。一ノ瀬さんの瞳しか見えなくなる。

 一ノ瀬さんの感想がつまらない理由が分かった。

 この人はずっと、私の文章ではなく、私を見ていたのだ。

「これで、この香りをかぐたび、思い出すのは私のことですね」


 その日から、一ノ瀬さんはどこにも姿を現わさなくなった。ツイッターの投稿はなくなり、いいね欄も更新されなくなった。pixivのアカウントは消えていた。掌編をアップロードしても、一ノ瀬さんからの反応はなかった。

 次のイベントの申し込みをした。書きためた作品の数と文字数を計算し、書き下ろしを一編入れることにして、プロットの構想に入った。

 仕事をして、ご飯を食べ、休日には散歩した。

 失恋したという親友を慰めた。会社の飲み会に出た。セクハラを見かけたので相談窓口に電話した。高い化粧水を衝動買いした。爪を切り、セロリをだめにし、高校の友人の結婚式に出て、水族館でサメのぬいぐるみを買った。

 毎日書き続けた。

 気がつけば桜が散って、一ノ瀬さんと最後に会ってから四ヶ月が経っていた。

 印刷の締め切りに余裕を持って書き終えた。校正は自分でした。体裁を整え、入稿し、イベントに出す本を告知するための画像を作り、無料配布のための掌編を書いた。小銭を貯め、机にかけるための布にアイロンをかけ、イベント当日を迎えた。

 藤の香水をつけて家を出た。

 印刷所から届く段ボールを開けるとき、いつも大きく息を吸い込んで、匂いをかぐ。切り立ての紙の断面とインクの匂い。世界にたった三十冊の私の本。

 知らない人の警戒心を解くために、笑顔は意識してはっきりと。目が合ったら「こんにちは、よかったらどうぞ」と声をかける。近寄ってくれる人や手に取ってくれる人を見すぎないように注意する。買ってくれる人には大きく頭を下げ、丁寧な動作で本とおつりを渡す。何度もイベントに出て、そういうことが自然にできるようになった。一人でも多くの人に読んでもらいたくて。

 行き交う人を、気づかれないように見つめる。みな大きめの鞄を持っている。談笑し、あるいはきょろきょろと見回し、パンフレットを見ながら歩き、ブースに立ち寄っては笑う、楽しそうな人々。

 ふいに一人の女性が目に入った。かなりの高齢に見える。どこかのブースを探しているのか、ブース番号を確かめつつ、カートを押して歩いてくる。紐のない運動靴が祖母のものとそっくりだった。

 女性はふと顔を上げ、私のブースに向かってまっすぐ歩いてきた。少し驚いて、じっと見すぎない、という鉄則も忘れて見つめてしまう。赤いカートを私の机の前に寄せて、見本誌も見ずに「新刊、一冊お願いします」と財布を取り出そうとする。

「あ、はい。ありがとうございます」

 もたもたと用意しながら、女性を窺う。えんじ色のチュニックに、手作りだろうか、レース糸とコットンパールのネックレスがかわいらしい。女性は私の視線に気づくと、「螢田さん。いつも読んでますよ」と言った。

「えっ、そうでしたか、ありがとうございます」と答えながら、体温が上がるのが分かる。温められた香水の香りは、自分の体からというより、地面から立ち上っているように感じられる。

 女性はローズピンクの唇でにーっと微笑み、「おばあちゃんの読者は初めて?」と尋ねてくる。私は思わず笑って、「あの、……はい。同世代ばかりだったので、意外でした」

 女性はふふふと文字に書いたように笑った。「創作は想像の外から人を招き入れる窓だと言いますものね」

 私がその言葉を咀嚼する前に、女性は「じゃあどうも、ありがとうございます」と言って、またカートを押して背を向けた。私は立ち上がって大きく頭を下げた。

 しばらくぼんやりして、藤の香りに足を浸していた。

 もう一度行き交う人を観察した。歩いているのは誰も彼も知らない人だった。知らない人、知らない人、知らない人ばかりだ。どんな人生をどんな生活を送っているのか、どんな気持ちで何のために創作に関わっているのか、知るよしもない。藤野さんも一ノ瀬さんも速水も、かつては知らない人だった。

 次にやってきたのは私と同年代らしい男性だった。本を渡しながら、「どこで知ってくださったんですか」と尋ねてみる。少し戸惑ったような顔をしながら「あ、カタログ見て……」と答えて、そそくさと立ち去ってしまう。悪いことをしたかなと思いつつ次の女性にも同じ質問をすると、「実はツイッター見てて。あ、フォローはしてないんで知らないと思います」とにこやかに答えてくれる。会う人、会う人、同じ質問をしてみる。迷惑そうにして答えない人、前から読んでいるという人、表紙と目が合ったからという人、見本誌を見たという人、端から端まで買っているのだという人、いろいろな理由があった。その一人一人の顔を見つめ、目をのぞき込んだ。あの日の一ノ瀬さんのように。

 六冊を残して、イベントの終わりを告げるアナウンスが響いた。二十四人分の顔が瞼の裏に渦巻いて、くらくらした。


 仕事をして、調べ物をして、肌に合わなかった化粧水を友人に譲り、文章を書き、通販で売れた本を発送し、有休の手続きをした。アマゾンで買い物をし、速水と通話し、厚揚げを焼いて食べた。残業に次ぐ残業でなんとか仕事を終わらせ、冷蔵庫に残った卵を巨大なオムレツにしてかきこみ、出発した。

 新幹線を降りてみると、仙台の空気はぬるかった。せっかくなので牛タンを食べずんだシェイクを飲んでから、さらに電車に乗る。仙台から数駅行った住宅街が目的地だった。

 そのあたりを歩き回り、ちょうど良い公園を見付ける。藤棚の下にベンチがあって、散りかけの藤の花が少し積もっている。舞台装置のようだ、と思って、彼女のあの芝居がかった口調を思い出した。彼女はおそらく芝居に似たものを引き寄せる。

 だから彼女は二日目の夕方に現れる。

 私を見て立ち止まったが、表情はなかった。私も表情を作らないまま立ち上がり、手を振った。

「もう忘れてしまいましたか?」

 一ノ瀬さんは少しだけ微笑んだ。「そうですね。もう、忘れるところでした」

 私は藤棚の下のベンチに一ノ瀬さんを誘ったが、彼女は太ももの裏をベンチにあてるだけで座らなかった。以前より少し化粧が薄い。髪が少し伸びて、夕方というのにきれいなワンカールの毛先が鎖骨のあたりをくすぐっている。

「どうやって分かったんですか」と尋ねられたが、私は肩をすくめて答えなかった。新宿に現れたときの彼女と似たようなことをしただけだ。いまは彼女の本名も年齢も知っている。新しい苗字も。

「婚約おめでとう」と言ってみると、髪が浮くほど勢いよくこちらを振り返って睨みつけてくる。左手にはまだ指輪はない。

「何の用ですか」

 私は大仰な動作で高く足を組み、その膝に頬杖をついた。あたりは暗くなってきて、子供たちも帰っていき、まばらに並ぶ遊具だけがひそやかに立っている。

「あなたはいくつか間違っていた」

 と私は指摘する。

「この香りをかぐたび思い出せと言ったけれど――」とポケットから小さなアトマイザーを取り出して見せる。一ノ瀬さんが怪訝そうな顔をしたので、「ああ。持ち運びに不便だったので詰め替えてきたんです。中身はあの香水」と説明する。

「実は藤からは香水が作れないんですよ。これは藤の香りをイメージした香水にすぎない。ほら」と頭上の花房を指す。「違う香りがするでしょう? 比べてみますか?」

 一ノ瀬さんは黙り込んで答えないので、どんどん続ける。今日は私が芝居のように話す番だ。

「それから、香水はつける人によっていくらか香りが変わる。私の肌につけたときとあなたの肌につけたときでは違う香りになる。プルースト効果のことを言いたかったんでしょうが、あなたの企みはそれほど効果的ではないと思いますよ。そんなことで思い出を奪取することはできない」

「そんなこと言うためにわざわざ来たんですか」

「わざわざ来たんだからもう少し言わせてください」

 私は傍らに置いた紙袋を持ち上げて膝に乗せた。猫を撫でるように抱きかかえる。

「あなたのことが怖くてムカついて嫌だったので、一生懸命考えました。あなたと私の何が違うのか。藤野さんに執着した私と、私につきまとったあなたと、どんな違いがあるのか」

 そして考えてみれば、あまり違いはないのだ。私は藤野さんの文章を通して、私を肯定してくれる誰かを見ていた。一ノ瀬さんは私の文章を通して、彼女を覚えていてくれる誰かを見ていた。彼女の執着が私にとって気味の悪いものであったように、私も同じ気持ち悪さを持っている。こうして同じように待ち伏せまでしている。

 紙袋を差し出した。「開けてください。プレゼントです」

 彼女は少しためらったあと、受け取った。中にはアマゾンの緑色のラッピング袋に包まれた箱が入っている。

「自己正当化できる言い訳を考えました。あなたは誰かの記憶に残りたい。私は誰かの記憶に残したい。それが違いです。だとしたら、私から言えることは一つだけ」

 一ノ瀬さんがリボンを引いて中身を取り出す。四角い箱のなかには薄い機械が入っている――ポメラD200。文章作成のための小さなワープロ機。私が執筆に使っているものと同じ機種だ。

「あなたも書いてください。小説を」

 一ノ瀬さんはしばらく絶句したあと、「こ……これだから……」と絞りだすように呟いた。

「これだから?」

「これだから、才能のある人は……! そういうことができるならとっくにやってるんですよ! できないからあなたにまとわりついたりするんでしょ!?」

 藤の花が目の前に落ちてきて、私は片頬で微笑む。

「できないというのは、上手くできないということですか。上手にできない?」

「違います、私が書いてもしょうがないんです! 私の中には書くべきことなんて一つも無い、平凡で、今だけで、適当にやってるから!」

 ポメラの箱を乱暴にベンチに置いて、一ノ瀬さんは両手で顔を覆う。あたりはすっかり夜で、傍らの街灯の光が彼女の頬を白く照らしている。

 彼女がもうすぐ結婚するということを知って、初めに思い出したのは、才能、という言葉だった。私に才能があるとやたらに繰り返す彼女からは、自らの平凡さ、才能のなさを恨みつつ誇るようなところを感じていた。彼女はそれを恐れながら信じているのだ。

「だから書くんです。あなたが書くんです。平凡で、今だけの、あなたの小説を」

「ナンバーワンよりオンリーワンってやつですか? 花屋に並べられる花がある人はいいですね」と軽蔑を隠さず吐き捨てる。

「確かに、あなたがこれから書き始めたとして、ものになることはまずないでしょう」私はワンフレーズだけ歌った。「私もあの曲大嫌いです。オンリーワンであることに価値なんてありません。人によって香水の香りが多少変わっても、何の価値がありますか。それでも書くんです。なぜなら」

 立ち上がって一ノ瀬さんに近づくと、彼女は肩を震わせたが動かなかった。吐息の触れる距離に来て初めて、彼女が私より少しだけ背が低いのが分かった。肩と肘とを掴んで、目をまっすぐにのぞき込む。

 カラコンのない瞳が、街灯を映して光っている。

「あなたのことを知らないから。藤野さんじゃない、変で嫌で最悪なあなたのことを」

 わざわざ窓を開けて、私たちは外を覗く。同じような窓を開けて、同じような香りをまとって。この窓である必要なんて、本当はなくても。それぞれの香りに価値は無くても、窓を開けないとどこにも行かない、その香りを知るために。

「あなたが書く意味は、あなたが書くから。どんなに平凡でも、同じような人が一億人いようとも、あなたにとってあなたはただ一人だからです」

 一ノ瀬さんはぽかんと私を見つめ返していた。私はだんだん自信がなくなって、視線を泳がせ、さんざん迷った末、「……私にとっても」と小さい声で付け足した。愛の告白みたいになってしまったじゃないか。

 一ノ瀬さんの視線が一瞬やわらかくなり、かと思うと急激に、怒りとも感動ともつかない感情が下瞼のほうからせり上がってくるのが見えた。彼女は私の手を振り払い、「どうしてここまで言うんですか」と呟いた。

「なんで私にそこまで言うんですか。私のこと、嫌いでしょう」

「そんなの」私はようやく安心して笑う。本物の藤の、甘やかな香りが肺を満たす。「私がそう思うからです。私がやってきたことを、肯定したいからに決まってるじゃないですか。私と同じことをやらせて、私を正当化したいからですよ」

 一ノ瀬さんはベンチにどすんと座り、鞄から水のペットボトルを取り出すと、一気に飲み干した。しばらく膝の間に頭を落とした後、急に起き上がってポメラの箱を掴む。開ける方向が間違っていてポメラの本体が地面にたたきつけられそうになり、「うわーっ」と二人の声が重なる。

 一ノ瀬さんの膝の上でポメラが開かれ、液晶の光が下から彼女を照らす。彼女の指先に、藤の花がひとかけら落ちてくる。

 私はそれを少し離れて見ている。キーボードの上に手を置いて、どうしたらいいのか分からず苛立つ彼女を。ポケットに手を入れると、アトマイザーが触れたので取り出した。小さく投げ上げ、キャッチする。一ノ瀬さんは眉間にしわを寄せ、口元と手で押さえて、真っ白な画面をにらみつけている。投げ上げて、キャッチする。自分と、多分私への怒りを抑えきれない彼女を、今までで一番きれいだと思う。

 投げ上げて、キャッチする。投げ上げすぎて、藤の枝に少し当たる。さらに強く投げ上げると、ぱさっという軽い音とともに、藤の花びらと香りが二人の頭上に降り注いだ。


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