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『愛』について

 愛にも色々ある。

 異性愛、同性愛、夫婦愛、家族愛、兄弟愛、姉妹愛、兄妹・姉弟愛、師弟愛、隣人愛、友愛、性愛、偏愛、博愛。

 今挙げたもの以外にも、すべてに愛を見出すことができる。


 だが、あり過ぎるあまり愛とは何かと聞かれると答えられない。

 本当の愛とは何か?

 漫画なり、小説なり、歌なり人間が作り出すものに共通して存在するテーマはだいたい、友情、努力、勝利、愛ではないだろうか。


 ジャンルやテーマは違っても、愛は昔も現在もこれからも物語に必要不可欠な要素だと思う。

 愛がなければ何も生み出せない。

 人間は昔も今もこれからも飽きることなく愛に飢え続ける愛の亡者。


 誰かに愛されたいと思っているし、愛したいと思っている。

 自分を愛して欲しい、誰かを愛してあげたい。

 だが現実世界ではそうそう愛を実感できない、体現できない。

 誰かと一緒にいても常に孤独を感じてしまう人もいる。


 フランツ・カフカは誰かと一緒にいても孤独を感じてしまい、自分はこの場に必要のない人間なのだと思い込み友人に何も言わずに集りから抜け出したことがあるらしい。


 そのことを知った友人は「何も言わずに抜け出すな」と怒ったらしいという話が残っている。

 一人でいるときの孤独なら救いようはあるが、他者と一緒にいるときですら孤独を感じてしまうのなら救いようがない。

 だからカフカはそんなもっとも惨めな孤独を味合わないために一人でいることを好んだ。


 この疎外感のような孤独感を感じてしまうのはカフカだけではない。

 人間は常に孤独を抱えて生きている。

 そういうとき、愛が欲しいと思うのだと思う。

 誰かに抱きしめて欲しい、愛して欲しいと無償の愛を求めたことはないだろうか。


 何故そう思うのかわからない。

 わからないが、そういう心情になったとき人間は愛に飢えたときなのだと思う。 

 無償の愛が、自分を包み込んでくれる愛が欲しいのだ。

 現実世界ではそんなこと言えない。

 

 誰かに自分を抱きしめて欲しいなどと言えれば、おかしな人、心を病んでいるのだろうかと思われてしまうだろう。


 だがそう思われても、もし言うことができれば少しは心にぽっかりと開いている穴を、孤独感を埋められるのかもしれない。

 が、そんなこと言える人はなかなかいないのではないだろうか。


 日本人は恥ずかしがり屋が多く、海外のようなハグの文化がないから気軽には言えない。

 しかもコロナでさらに肉体的な距離が開いている。

 ハグ文化は人間の心の安定に少しは繋がっているのかもしれないな、なんて科学的根拠がないことを考えたりする。


 話しはそれたが、その愛とは何だろうか?

 心を癒し満たしてくれる愛とは何だろうか?

 愛は科学的データで計ることができるのだろうか?

 愛にも色々あって一概にはいえないが、ここで言う愛とは、性愛ではないことだけは断言しておく。


 誰かの肉体を求めても、心の穴は埋まらない。

 愛はお金では買えないという。 

 そういう愛、つまりお金では買えない無償の愛とは何か? 

 子供に与える、好きな人に与える、見返りなど求めていないただ一方的に与える愛だろうか?


 確かにそれも愛だ。

 だがそれは愛とも言えるし、差別とも言えてしまう。

 ヴィンランド・サガという漫画で、ある神父がクヌートという王子に愛についての思想を語るシーンがあるのだが、それを聞いて目から鱗が落ちた。


 私たちが思う、誰か特定の個人を一方的に愛する愛は、『愛』ではなく差別だという。

 ちょっと長いが、私的に好きな場面なので、クヌートと神父の会話の一部始終を引用したい。 


クヌート「……愛とはなにかだと? ラグナルは私を愛していなかったというのか?」


神父「……はい……」


クヌート「……ならば問うのは私のほうだ。ラグナルに愛がないのなら、正しく愛を体現できる者はどこにいるのだ」


神父「そこに居ますよ、ホラ」


 神父は死体を指さした。


神父「彼は死んで、どんな生者よりも美しくなった。愛そのものといっていい。彼はもはや憎むことも殺すことも奪うこともしません。すばらしいと思いませんか? 彼はこのままここで打ち捨てられ、その肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう。風にはさらされるまま、雨には打たれるまま、それで一言半句の文句も言いません。死は人間を完成させるのです」


クヌート「……愛の本質が……死だというのか」


神父「はい」


クヌート「……ならば親が子を、夫婦が互いを、ラグナルが私を大切に思う気持ちは、一体なんだ?」


神父「差別です。王にへつらい、奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません。ラグナル殿にとって王子殿下は他の誰よりも大切な人だったのです。おそらく彼自身の命よりも……。彼はあなたひとりの安全のために、62人の村人を見殺しにした。差別です」


クヌート「……そうか。わかってきた……。まるで、霧が晴れていくようだ……。この雪が愛なのだな」


神父「……そうです」


クヌート「あの空が、あの太陽が、吹きゆく風が、木々が、山々が……。

……なのに……なんということだ……。世界が……神の御技がこんなにも美しいというのに……。人間の心には愛がないのか」


神父「……私達が……このような生き物になってしまったのは……遠い祖先が、神に背き罪を犯したせいだといわれています。私達は楽園から追放されたのです」

 

 ここまでがクヌート王子と神父の会話だ。

 死とは愛という言葉は誤解を招きやすいが、つまり神父が言いたかったことは死という誰にでも与えられる平等性を愛だと言っているのだと解釈する。


 家族愛、異性愛、きょうだい愛も愛と言えるが、特定の人物にだけ対して示される愛なのだから、差別とも言い換えられるのだ。

 極端に分類すると、愛には博愛と偏愛の二種類しかない。

 そして、家族愛、異性愛などは偏愛に当たる。


 つまり特定の人物を特別視、差別化しているに過ぎない。

 そのような特定の個人を特別視する偏愛と、特定の人を特別視して差別するのは紙一重なのだ。

 差別をなくすということは、そのような差別化した愛もなくすことになる。


 トロッコ問題的にもし愛する人と、まったく見ず知らずの人の命どちらか一つしか助けられないとしたら、愛する人を助けたいと思うだろう。

 ラグナルがとった行動も同じだ。

 王子一人の命を助けるために、何の罪もない六十二人の村人を見殺しにした。


 そうなると王子一人の命は六十二人の命より重かったことになる。

 命の計算は愛する人と見ず知らずの人を区別=差別したということだ。

 人が特定の個人を特別視する感情がある限り差別はなくらない。


 人間は無意識のうちに差別化するように作られているから。

 だが差別化が悪いというものでもない。

 差別にも、「負の差別」と「正の差別」がある。

 誰かを傷つける差別は負の差別。


 誰かを愛したり幸せにする差別は正の差別。

 キリスト教では愛によってしか人間は救われないと説いていた意味がやっとわかった気がした。

 雪が、空が、太陽が、風が、木々が、山々が、この世界が与えてくれる災害や恵みは愛なのだとクヌートは気が付いたのだ。


 普通に考えればそんなもの愛ではない災難なだけだ、という意見もあると思う。

 だが、世界は人間の考え方でどうとでも変わるもので、シェイクスピアもハムレットの中で『物事に良いも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなる』と述べている通り。


 仏教でもこの世界は空であり、すべては人間が作り出した夢幻に過ぎないと説かれている。

 つまり考え方次第で、この世界のありとあらゆることから愛を見出すことができるのだ。

 雪が、空が、太陽が、風が、木々が、山々がこの世界が与えてくれるものすべてに愛を見出すことができる。


 考え方次第で人間は世界に抱擁され愛されていると思える。

 人間は常に愛されている!

 この世界から肯定されている!


 自然は生物を平等に愛してくれても、神父が言ったように人間は平等愛、博愛を本当の意味で体現することは生物学的にできない。

 生きていれば差別化を無意識のうちにしてしまうから。

 本当の愛を体現できるものは、別次元の存在か、または意思をもたない自然現象、神父の言うように死体くらいだと思う。

 

 自然は優しく残酷な愛を平等に与えてくれる。

 どんな生物にも差別せず、世界は優しく残酷。

 自然現象、物理法則、この宇宙全体すべてが人間の気持ちなど関係なく平等に恵みを私たちにもたらし、そして奪ってゆく。


 死も同様に。

 どのような人間、王族だろうと、貴族だろうと、人民だろうと、奴隷だろうと、善人だろうと、悪人だろうと平等に死ぬ。

 現代では実感できないだろうが、遥か昔、野畑や、森や山、道に人間の死体が当たり前のように転がっていたと思う。


 野ざらしにされた死体は、ゆっくりと自然に帰ってゆく。

 その光景を見た昔の人は、愛について今とは違った考え方を持っていたのかもしれない。 

 

 生物は死体になることで本当の愛を体現することができる。

 だが本当に、生者には博愛を体現できないのだろうか?

 否、生者でも本当の愛を体現したと言われる人たちもいる。

 誰もが知っているイエスもその一人だろう。


 イエス・キリストは、どんな者も平等に愛したと言う。

 今までイエスの愛が何だと言うのだ、と思っていた。

 イエスの施した愛で誰が救われたのか?


 多くの苦しみを生み出しただけではないのか?

 イエスが人間の罪をすべて背負って、磔刑に処されて誰が救われるというのだ、と冷めた気持ちで思っていた。

 だが今になって思うと、人類を救う救わない関係なしに、博愛を体現していたのは間違いないと思える。


 イエスは真の愛を、身をもって私たちに示してくれていたのだ。

 偏愛ではなく、平等の博愛で苦しむ人間を救おうとした。

 特定の誰かニ三人、または数百人を救おうとしたのではなく、全人類を差別なく救おうとした。


「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」や「汝の敵を愛せよ」


 と言ったイエスの言葉の意味も少しだがわかった気がする。

 真の愛が神父の言う通りすべてを平等に愛する愛、つまり博愛こそが本当の愛だとすれば、世界中のみんなが隣人を平等に愛することで人間は救われる。


 イエスはそう言うことが言いたかったのだ。

 イエス以外にも、愛によって人間を救おうとした人たちは沢山いる。

 中国戦国時代に活動した諸子百家の墨家の開祖である、墨子も無償で弱い国に赴き、傭兵となって戦ったという、兼愛(博愛)主義者だった。

 

 フロムも愛とは、平等に愛する博愛だと説いているし、ガンジーも行動を持って博愛を実行している。

 だが、イエスや墨子のような何者も平等に愛せる人間などいるのだろうか?

 絶対にいないとは言えないが、そんな聖人いると思えない……。


「人類のために死んでくれ」と言われて素直に自己犠牲できる人などいるだろうか?

 いないとは言わないが、世界人口の数パーセントほどくらいしかいないだろう。


 誰だって好きな人、特別な人には見ず知らずの人よりも優しく接したり、愛したりするものだ。

 差別化してしまうものだ。

 それは何も人間が人間である以上悪いことではない。


 負の差別は良くないが、正の差別は限度はあれじゃんじゃんするべきだ。

 世界中の人が自分を愛するように、隣人を愛する。

 世界中の人が自分を愛するように、隣人を愛せるようにようになれば、廻りまわってすべての人が救われるだろう。


 隣人を愛せとはそういうことだったのではないだろうか。

 すべての人間を愛によって救うことができなくても、自分の身の回りにいる人は、愛によって救うことができるかもしれない。


 そして、特別な人に注いだ愛に少しの余裕あるのなら、その愛を平等に想い遣りというかたちで誰かに与える。

 なかなか人間には難しいことだけど希望は捨てたくないものだ。

 綺麗ごとに聞こえるけれど、そのように誰かに想い遣りの愛を平等に与えることで世界はより良くなるのだと思う。

 

 フロムが言う通り、愛されたいなら愛さなければならない。

 私たちにできるのは、身の回りの人たちを愛し、愛に少しの余裕があるのなら誰かにおすそ分けすることだけだ――。

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