『自由』について
よく使われる『自由』という言葉。
私たちはどのように自由を定義しているのだろうか。
自分で好きなことができて、好きな所に行けて、好きな物が食べられて、ようは自分の思い通りに物事ができることを一般的に自由と言うのだろう。
確かにそれが自由であると私も思う、が深く考えてみるとこの世界に自由などないのだと思いもするのだ。
私たちは何も自由に選べていないのではないか?
ただ与えられた選択肢の中から、好きな方を選択できているに過ぎないのだ。
例えばコーヒーがいいか、紅茶がいいか?
肉がいいか、魚がいいか?
どちらか好きな方を選べる、つまり自由とは当たり前だけど選択の自由があるかどうかでしかないのだと思う。
そのわずかに与えられた選択の自由すら、強くなければ勝ち取れない。
何度も述べているが、私たちは生まれたいか生まれたくないか、性別も、ハンデを持つ持たざるかも、環境も何も選べない。
生まれた場所、環境によってかなりの選択肢が絞られる。
都心近くで生まれるか、郊外で生まれるかでもかなり選択肢は絞られる。
生まれ育った環境で将来の選択肢も絞られる。
生まれてきた性で色々な要因に縛られている。
男に生まれれば男の性に、女に生まれれば女の性に縛られ、人間としての本能にも縛られなければいけない。
すべての生物は遺伝子がプログラムした本能によって縛られ、遺伝子の要求を満たす奴隷のような気がする。
百歩譲って、そのような性による束縛を束縛と考えなかったとして、完全な自由を手に入れても、人間は完全な自由では何もできない。
そもそも生きることすらできないだろう。
昔のように神のいうことがすべて、神の言うことが絶対だと思考停止した生き方ができればこれほどまでに苦しくはないだろう。
魔女狩りのような間違っていることでも、群衆に混じり没個性化できれば、神がいうこと、群衆がいうことは正しいと思えてこれほど苦しいことはないだろう。
だが、現代人は違う。
神のいうことでも絶対ではないし、神による束縛も特に日本ではない。
言うなればかなり自由だ。
だが完全な自由を与えられればニヒリズムに陥りやすい。
自由とは孤独なもので、本当に自由になりたければショーペンハウアーやニーチェが言うような超人にならなければならないのだ。
独りで生きるということである。
誰かと関わりを持てば人間は自由ではない。
ショーペンハウアーはこのような言葉を残している。
『人間は孤独でいるかぎり、かれ自身であり得るのだ。だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ』
まさにその通りだと思う。
独りでは何かをしようという気力が湧かないものだろう。
近年では「一人○○」というのが増えてきているけれど、それでもまだ一人○○をしている人は「多数○○」をする人よりも少ない。
やはり人間は集団主義をやめられないのだ。
人間何かをしようと思うのは一人より多数でいるときだ。
人間は自由を求めるくせに、孤独を恐れ自ら束縛されにいく。
色々面倒くさいことが多い他者との関りを求めてしまう。
本当に人間は複雑で面倒くさい生き物だ。
本当に自由を求めているのなら、SNSなどで誰かと繋がりたいとは思わない。
本当に自由を求めているのなら、めんどくさいコミュニティーに参加しない。
こんなエッセイを書いて誰かに読んでもらおうとも思わない。
人間以外の生き物は他者に肯定されなくても、孤独でも強く生きている動物が多いと言うのに。
生態ピラミッドの上層部に位置している個体数の少ない動物たちは精神的に人間など比べ物にならないほど強い。
だから動物たちが強く自然界で生きている姿を見ると、彼らの強さに心打たれてしまう。
彼らに比べて、人間は精神的に弱いのだ。
人間は独りで生きられない弱い生き物だから、他人を必要とする。
超人思想を説いているニーチェですら精神崩壊を起こすほどに、他者からの肯定を求めた。
本当にニーチェが超人なら自身の思想を認めてもらおうとせず、その思想を自分自身で肯定し自己完結して墓場まで持って行くはずだ。
だが、彼は自分の思想を他者にも認めてもらおうとした。
ニーチェも自分で自分を肯定することのできない弱い人間だったのだ。
だから人間は集団からはみ出ることを恐れるし、出る杭を打ちたがる。
本当に人類を救おうと思うなら、エヴァンゲリオンで言うところの『人類補完計画』のようなことでもしなければ人間は救われない。
知らない人のために簡単に説明すると、人類補完計画とはエヴァンゲリオンの中でゼーレという秘密組織が秘密裏に進めていた人類救済計画のことだ。
人類補完計画が成功すると全人類は「知恵の実」と「生命の実」が付与された状態となり、単一の意識集合体として永遠に集約される。
簡単に説明すると、他人と自分の境界線がなくなり、個体としての自我を失うそうだ。
単一意識体となるので、争い事やもめ事はもちろん、喜怒哀楽といった感情もなくなる。
また人類は生身の肉体から解放され、不老不死で永遠の存在となる。
当然肉体の概念がなくなるわけだから、人の形を保てなくなり、空気のような存在となるそうだ(ciatr 引用)。
うん、人間の意識が繋がり一つになるのだから、孤独という概念すらなくなり、人類は孤独に苦しむことがなくなる。
一個人の思考個性がなくなり、究極の没個性化だ。
かなりヤバい思想だけれど、本当のユートピアとは無菌室のように穢れがない無味乾燥な社会になるということに他ならない。
『ギヴァー 記憶を注ぐ者』という映画をこの前観た。
ギヴァーの世界では、人々は感情を抑制させる投薬が毎日行われ、記憶すら持たず、最適な職業も主席長老に決められる。
機械のようにすべてが管理され、差別や貧富の差もない。
酷い言葉はすべて、別の言葉に言い換えられる。
そもそも、酷い言葉という概念すらない。
他にも本当に救われたいのなら、伊藤計劃氏の『ハーモニー』のような社会になるしか救われないのだと思う。
ユートピアとはディストピアと表裏一体。
完璧なユートピアをディストピアと思ってしまうのだから、そもそもこの世界にユートピアを造り出すことはできない。
これから科学が発展して、自分の脳をネットワークに接続できるようになり、世界中の人たちと脳を繋げられるようになれば話は別だが、私たちが生きている百年ほどではできそうにない。
よって人間は救われない。
フロムというドイツの社会心理学者は『自由からの逃走』という書の中で自由な人間の弱さを述べている。
中世社会では封建制で成り立っていた。
封建制とは、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度ことを言う。
この封建制の下、人民たちは諸侯に与えられた仕事を行っていた。
生まれながらに就ける仕事が決まっていたようなものだ。
束縛を嫌う人間からしてみれば、そのような制度は苦痛以外の何ものでもないだろう。
だが中世社会はその封建制のおかげで、個人が存在価値がちゃんと確立されていたのである。
つまり人々は他者から無条件に肯定される環境だった(とはいっても、昔は昔で苦しみはある。いつの時代も苦しみはある)。
昔は現代のように世界中が繋がっているわけではなかった。
だから周りには自分と同じ境遇の者たちばかりで、他者を羨み、他者と自分を比べて劣等感を感じることはそれほどなかったのである。
皆、生活する上で必要な仕事を与えられ、ちゃんと社会から必要とされている実感があった(上に立つ君主、諸侯が暴君なら地獄だが)。
だが現代はどうだろう?
大量生産の陰に隠れる、人間を人間とも思わない扱い(これでは自分が社会にとって必要な存在だと自己肯定しにくい環境だ)。
君主、諸侯の力が衰退すると、貴族たちが立ち上がり個人を尊重する、つまり自由を求める運動ルネサンスが花開く。
確かにルネサンスの時代は色々な芸術、文化が発展したが、ルネサンスで賑わっていたのは貴族たち、一部の技術者たちだけだったらしい。
一般の人民は封建制の安定を失い、貴族、一部の技術者たちにいいように操られるだけの存在となったそうだ。
現代でもそうだが、知識格差により世界人口のわずか数パーセントの知識人に人々は操られている。
人類をいい方向に導いてくれるなら悪いとは言わないが、これからの時代は更に、世界人口数パーセントの知識人と、残りの無知識人(庶民)のレベルが開き、使う者、使われる者の二極化すると思う。
問題は使われる者、使う者どちらの立場に立ちたいか? だ。
話を戻す――現代の資本主義社会では封建制の時代と違い、人間は自由になったが、自由になった人間は自由を持て余し、生きる目的を失うニヒリズムに陥る人が増えた。
フランスの哲学者、小説家、劇作家でもあった、ジャン=ポール・サルトルは「人間は自由という刑に処せられている」いう言葉を残している。
上手くこの心理を表していると思う。
長い間束縛されていた人間は、いざ自由になっても何もできない。
勉強しかしてきていなくて、勉強はできても遊び方を知らないのと同じ。
自由を勝ち取るための革命と言う名の目的(束縛)があったから、人間は一致団結して行動を起こせた。
目的とは束縛とイコールなのだと思う。
人間は目的、目標があるから頑張れる。
それは束縛。
革命は成功して自由を勝ち取っても、また弱い群衆は束縛を求めてしまう。
独裁国家、王権社会を革命の名の下に打倒したにも関わらず、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に再び依存した弱い群衆たちの心理は痛いほどわかる。
自分たちで判断するよりも、偉大な神のようなリーダーにすべてを任せてリーダーの言うことは絶対と思考停止した方が楽だ(中には疑問に思っていた人もいるけど、疑問を口にできなかった例も多くあるとは思うけど)
人間には自己顕示欲と言う欲望が存在し、他者に自分を認めてもらわなければ、自分を肯定できない生き物。
他者に認められなくても、超人なら生きていけるだろうが、弱い人間は孤独では生きていけない。
幸せも何もかも、他者の肯定を必要とする。
人間は弱い。
人間は何かに依存しなければ生きていけない。
どう見ても怪しげな宗教などに依存してしまうのも、人間が依存を求めるから。
怪しげな宗教に依存して、自ら自由を手放している。
だが宗教にでも何でも依存している人は、ある意味では救われているともいえる。
信じる者は救われる。
自分が救われていると思えば救われているのである。
点滴依存症の人に生理食塩液を打つようなものだ。
何の効果もない生理食塩液を打っているだけなのに、本人は打つことで救われている。
思い込みとはすごい力を持つ。
話は少しそれてしまったが、つまり人間は何かに依存することで、一時しのぎの心の安定を得ているのだ。
それは何も悪いことではない。
人間が人間である限り仕方のないことなのだから。
だけど、だからと言って怪しげな宗教や、負の依存には陥らない方がいいということが言いたい。
依存した人は救われるかもしれないけれど、周りの人々を不幸にする。
だから、怪し気な宗教が必ずと言っていいほど謳う「救われる」という言葉は信じては駄目だ。
救われる訳がないのだ。
生きることは苦しむことで、人間が救われる方法などないのだから。
その苦しみも含めて生きているということだから。
苦しみがないのなら、生きているとは言わない。
いつの間にか苦しみについてみたいな話になっていたが、自由について語っているんだった。
結論として、遺伝子がプログラムする本能の束縛を抜きにして、自由になりたいのなら孤独を愛するしかないのだと思う。
そうなるとやはり、人間は超人になるしか救われない。
ショーペンハウアーやニーチェですら、超人にはなれなかった。
たぶん、人間は生物学的、構造的に考えて超人にはなれないのだと思う。
誰かに助けを求められるのも、誰かと共に生きることができるのも強さだと思う。
本当に強い人とは、できないことをできないと認め、弱さを認め、助けを求められる人なのだ。
独りで生きられることだけが強さではない。
共に助け合い生きられるのも強さなのだ。
正解などない。
弱ければ弱いなりに、人間は助け合って生きるしかないのだ――。




