『魂』について
魂は心と混合されがちだが、ここでは別物として考えていきたい。
魂という謎の物質または、非物質があるのか、ずっと気になっていた。
人間は死ぬと数グラム軽くなるという話もある。
現代は道徳的な問題で魂の質量を測定することはタブーとされているから、魂の質量について研究することはできない(道徳的な問題もあるだろうが、私はキリスト教などの宗教の存在も大きいと考えている)。
が、もし魂に重さがあるなら、魂の存在は疑いようがなくなる。
漫画やアニメなどである霊体や魂が動き回ることも、幽体離脱も証明できる。
梵我一如の状態に至るのも夢ではない。
魂があるのなら、この思考したり苦しんだりする魂はどこからきたのか?
魂はどこに帰るのか?
もし魂があるのなら、死後の世界の存在を信じられる。
生命活動は魂と言うものが行っているものであって、死ねば魂が抜けるから生物は機能停止するのだから。
宗教では必ず、死後の世界というものに言及されている。
死後体から抜け出た魂は、天国や地獄、黄泉の国や冥界、あの世や常世など様々な呼ばれ方をして、「人間は死ぬと、天国に行くか、地獄に行くか審判されるのだ」と宗教や神話は説いてきた。
ユダヤ・キリスト・イスラム教では、良い人は天国へ、悪い人は地獄へ行くとされる。
ギリシャ神話では、ハデスの統治する冥界があり、死者はそこに行くとされる。
北欧神話も、勇敢な戦士はヴァルハラというところに行くことができ、ラグナロクに備えているとされる。
エジプト神話もオシリスが統治する冥界が存在して、死者は死後裁判にかけられる。
日本神話も黄泉の国が存在している。
仏教でも死後、天道、修羅道、人道、畜生道、餓鬼道、地獄道という六道の中をずっと輪廻すると考えられている。
仏教は涅槃・解脱することでこの終わりのない生のサイクルを終わらせることを目的としているのだから。
魂と言う概念が存在しなければ考えられない世界だ。
ネットで少し調べても、臨死体験をした人の話や、あの世の存在をほのめかす記事や動画を見つけることができる。
そのような話題が人気を集めるのを見ると科学が発展した現代でも、死後の世界というものは未知であり、人々の関心を寄せる話題なのは間違いない。
世界には死後の世界を本当に信じている、または信じたいと思っている人が想像以上に多いと思う。
宗教などを信じている人は死後の世界を信じているだろう。
世界は未だに宗教が強いのだからなんら不思議ではない。
だから、人は死んでから地獄に行かないために、善良であろうとする。
今まで、色々な人たちが魂と言うものについて考えてきているが、明確な答えが出せていない。
カラマーゾフの兄弟の登場人物イワンですら、神の存在、死後の世界について悩み苦しんでいる。
哲学者であり、数学者のデカルトは疑いようのない真理を考えて「我思う、故に我あり」という答えにたどり着いた。
簡単に言ってしまえば、この世のすべてが夢幻だったとしても、考えている自分だけは存在するという考えだ。
つまり疑いようのない我とは、考えている自分、我である。
我=魂だということ。
ではその我=魂はどこから来たのかという問いに、デカルトは神の存在を挙げており、それ以上の答えを出すことはできなかった。
確かに、この世のすべてが夢幻でも、考えている自分がいるのだから、その存在だけは疑いようがない。
考えている自分とは何だ?
と、なったら、肉体ではなく魂だろう。
魂がなければ、人間の体はただの肉の人形だとも考えられる。
長々と語って来たが、これは私の考えを述べるエッセイで、私は魂とは存在しない、魂とは脳と体双方が作用しあって生み出されている機能だと考えているから。
よって死後魂が向かうとされる天国と地獄はないと考える。
魂とは人間が思考したり、苦しんだり、楽しんだりする脳と体の活動につけた名称なのだ。
魂とは脳活動全般を抽象的に指した便利な言葉。
動物の活動は肉体あってこそで、魂が肉体という入れ物に入っているわけではない。
だから、どれだけこの世で悪事を働こうと、地獄に落ちることはないし、どれだけ善行を積んでも天国に行けるわけではない(だからと言って、悪さを働いてはいけないが)。
悪さをすれば死後の世界に裁かれずとも、現世でちゃんと裁かれる。
一番怖いのは死後の世界など恐れない、信じない人と、神ために戦っているのだから死後天国に行けると極端に信じて命をかえりみない人々だ。
死後に受ける裁きが人々の欲望の制御装置になっていのは間違いない。
死はどのような者に対しても平等。
脳活動の停止=死。
魂がない=死後の世界がないという私の結論に絶望した人も、希望を感じた方もいると思う。
私は死後の世界がないと思うことで、希望を感じた側の人間だ。
仏教でも説かれている通り、輪廻するとは苦しみでしかないのだ。
涅槃・解脱に至らなくても、輪廻しないと考えたことで、少しだが救われたのだ。
前世も、来世もなく、あるのは現世だけ。
天国も地獄も死後の世界にはなく、この世界に存在する。
辛く苦しく、楽しく、幸せを感じられるのも今だけ。
ネット小説で流行っている転生のようなことは起こらない。
トラックに轢かれたからと転生はできない。
現世の生が終わってしまえば、完全な静寂に包まれる。
思考することもないのだから、苦しい、辛い、楽しい、嬉しいを感じることもない、考えることもない。
心を乱されて苦しくなることもない。
仏教が説くように、何も感じない考えない涅槃の静寂状態こそが幸も不幸も超越した完全な状態。
たまに、死んでいるのが普通の状態で、生きているのが奇跡の状態だと強く感じることがある。
まるで、胡蝶の夢のように。
胡蝶の夢とは、中国の戦国時代の宋の蒙生まれの思想家の荘子が、眠ったとき蝶になった夢を見たという話だ。
目覚めてみると人間の体に戻っていたが、荘子は今この状態は蝶が見ている夢ではないだろうか、と逆説的な考えに至る。
その胡蝶の夢と同じで、死んでいる状態こそが真実で、生きている状態は偽りではないか、という考えに囚われることがある。
まあ、よく考えてみると、死という無から、有である生の夢を見られる訳がないから、この考えは初めから破綻しているのだけど。
話はそれてしまったが何が言いたいかって、生きているあなたは、変わりが利かない絶対的なものであるから貴い存在なのだ、ということ。
どんな苦楽も生きていなければ経験できないこと。
生きることが苦であるか、楽であるかは個人の捉え方、考え方でどうとでも変わる。
死ねばなにもかも終わりで、来世も何もないのだから、生きれるまでは生きていた方が、功利主義的な考えになるけれど、幸か不幸かで考えると幸なのかもしれないと思う――。




