『幸福』について
前回苦を扱ったので、今回は流れ的に幸福を考えてみたい。
幸福と言っても、様々な幸福があって論じ始めれば、幸福論くらいの文字数になってしまう。
そうなってしまえば私の精神的にも、あなたの精神的にも厳しいから、これだけは書きたい、と私が思うところだけを書く。
まず幸福の定義とは何か?
幸福とは、これも一元的なものではないから、挙げればきりがないが、幸福に共通する定義は一般に、心が満ち足りている状態を指す。
心が満ち足りるとはなにか?
人間、何をすれば心が満ち足りるのか?
それは欲望が満たされたとき。
自分の思い通りに物事が運んだとき。
好きな人と一緒にいるときだろう(他にもあるのかもしれないが、今は思いつかない)。
幸せには本能的、生物学的な幸せと、社会的な幸せに分けられると私は考える。
食事だとか、睡眠、性交、などの本能が欲している欲求を満たせたときに、生物学的な幸せを感じることができる。
社会的な幸せとは、人間が社会生活をするうえで得られる、成功や地位、名誉などを満たせたときに感じることができるものを指す。
原始欲と文明欲と言ってもいい。
そうなると、その例と反対の状態のときは不幸ということになる。
原始欲は直接、生存に関わる欲望で、満たす必要が必ず生じるが、文明欲は直接生存には関係ない。
言ってしまえば過剰欲だ。
社会で成功できなくたって、地位や名誉が満たされなくても、衣食住があれば何とか生きていける。
だが、それでは幸福ではないと考えるから、人間は頑張り苦しむのだ。
昔なら、衣食住と少しの娯楽があれば、人間は満足し幸せを感じていた。
インターネットなどもなく、周りの幸せと自分の幸せを小さな村社会ではそれほど比べることもなく、みんな殆ど変わらない平等な立場だったからだ。
だが、現代はどうだろう?
現代は少しの幸福では満足できなくなっている。
現代は沢山の娯楽や幸せが増えたが、人間の欲望は無限大で、刺激にもすぐになれ、つまり馴化し、更に強い刺激を求めるようになってしまう、麻薬のようだ。
だから、現代人は頑張るのだ。
社会で成功するために、沢山お金を稼いでより多くの幸せを感受するために。
人間は幸せになるために、不幸になっている。
現代社会の幸福は肥大化し過ぎてしまっている。
つまり文明欲は社会が生み出す欲望。
生まれる時代、環境、国、世界が違えばその社会の幸せの定義も違う。
原始時代に生まれていれば、狩りが上手い人が幸福になれただろうが、今はそうではない。
幸せとは夢幻。
この世には幸や不幸など存在せず、人間の脳が幸や不幸を生み出しているに過ぎない。
仏教でいうところの色即是空、空即是色みたいな考えだと思ってもらえればいい。
色即是空とは、この世のすべてのものは恒常な実体はなく縁起によって存在するという考えをいう。
そして空即是色とは、物の本性は空だが、それがそのままこの世の一切のものであるということ(私も意味を真に理解しているわけではない)。
縁起によって存在するとは、思考だと考えても差し支えないと思う。
思考=縁起。
人間は物事を考えることで、思考することで幸や不幸を生み出しているのだ。
釈迦は幸も不幸もない涅槃の状態こそが、最高の幸せだと説いた。
つまり、幸による刺激も、不幸による刺激も感じない、無刺激こそが幸せなのだ。
無刺激なら馴化することもない。
だが、現代でそんな無刺激で生きるのは辛い……。
周りには娯楽や、楽しいことが溢れ過ぎているから。
どうして私たちは幸や不幸を感じるのか。
それは、他者と自分を比べてしまうからだと私は思う(その他にもあると思うけど)。
他者と自分を比べるのは、子供から大人に成長するときに必要な通過儀礼なのだ。
俗に社会脳と言われる個所の、ミラーニューロンという脳細胞の働きで、他者と比べるようになっている。
子供の時幸福を感じられたのは、他者と自分を比べる社会脳が未発達だったからだ。
子供は自己中心的だから、幸せをいっぱいに感受できる。
だが、大人になると自己中心的ではいられなくなり、協調性が生まれ社会脳の働きを強化することになる。
協調性はいいことでもあるが、悪いように作用することもあるので良し悪しだ。
文明欲が満たされないとき、不幸だと感じるのは他者と比べてしまうからだ。
今昔物語集の中に『片目の猿』または『両目の猿』というお話があるという。
少しストーリーを変えて話すが、大まかな話は同じだ。
ある一帯に生息している猿たちには、片目しかなかった。
産まれてくる猿はみな片目なのだ。
だがあるとき両目を持つ猿が産まれた。
片目しかない猿は両眼を持つ猿に驚いた。
両目の猿も周りと、自分が違うことに劣等感を感じただろう。
どうして、自分はみんなと違うのだろう……。
片目じゃないのだろう……。
こんな片目なんていらないのに……。
集団生活する生き物は、仲間と違うことを恐れる。
仲間から嫌われてしまえば、生きていくことができないからだ。
私たち人間も同じだ。
他者と同じことに心の安定を得て、幸福を感じるようにできている。
だから、奇形に産まれてしまった人や、目に見えて何かしらの障害がある人、みんなと違う行動や考えを持っている人を差別する。
「どうしておまえは目が二つあるんだ。おかしな奴だな」
片目の猿たちは自分たちと違う、両目の猿を差別する。
両目の猿は片目の猿たちのもとにいられなくなり、その一帯から去ることにした。
道尾秀介さんの『片目の猿』という小説にもこの片目の猿の話があって、うろ覚えだが、そちらの話では両目の猿は、みんなと同じになるために、自分で片目を潰したような記憶がある。
片目を自分で潰す方が実際のストーリーだったかな?
で、放浪の末、両目の猿は自分と同じように両目がある猿たちのグループを見つけた。
どこの猿を見ても、みんな両目があるのだ。
そして両目の猿は気が付く。
「両目であることが普通だったのか」
つまりこの話で提起したいのは、昔と現代で幸せの形が違うように、文明欲とは生まれる時代、環境、国、世界によって変わるということだ。
これも同調性から発生していると私は考える。
人は異端者を嫌い、同調を求める。
みんなと同じであることに幸福を感じる。
文明欲を満たすには、その文明内で幸福だと定義されている『幸福』を手に入れられるように頑張るしかない。
現代の文明的な幸福とは、高学歴、高収入、名誉、地位、幸せな家族を手に入れることだろうから、文明欲を満たし、幸せになりたければ幼い頃から勉強に明け暮れ、良い小学校、良い中学、良い高校、いい大学に入り、そしていい企業に就職して、出世し、地位や名誉を手に入れ、高収入を得え、良い人と結婚し子供をもうけることだ(偏り過ぎか……。文明欲もそれだけではないと思う)。
幸福と不幸は表裏一体。
本当に不幸を無くそうと思うなら、幸福を無くさなければならない。
つまり格差をなくさなければならないのだ。
そう、共産主義のスローガンは正に格差をなくすこと。
だが共産主義が夢物語だったことを歴史が証明している通り、みんな平等は不可能なのだ。
人間は非合理的な生き物で、自分が不幸になっても、相手を幸せにさせてたまるかというやっかいな心理や、他人の不幸に喜びを感じるシャーデンフロイデという心理をもつ。
悲しいけれど人間の醜さに絶望するときがある……。
人間の醜さに絶望するとは、自分に絶望するのと同じ。
このシャーデンフロイデ心理になるのは男性に多い傾向があるそうだ。
脳の進化上仕方のないことなのだ。
他人の不幸、例えば病気や怪我、そのたもろもろの色々な要因で、自分が幸せになるということが実際あるから……。
戦国時代の武将になったつもりで考えれば、もし敵国に不幸があれば喜びたくもなるだろう。
もっとわかりやすく例えると、芸能人が不倫などで叩かれているのを見ると、快感を感じる人もいるのではないだろうか?
あの心理だ。
人の不幸は密の味なのか……。
そのような人間の悪意が不幸を生み出す。
よく道徳哲学などで、アーシュラ・K・ル=グウィンのSF小説『オメラスから歩み去る人々』という短編の問題が取り扱われる(私は読んだことがない)。
『この短編では、隔離され、虐げられ、救うことができない一人の子供の苦しみにより、住民の繁栄と都市の存続がもたらされるユートピア都市オメラスが描かれている。
大半の住民はこの状態を認めて暮らしているが、この状態を良しとしない者もおり、彼らはこの都市に住むことを嫌って"オメラスから歩み去る"。
オメラスの存続のためには、その子供は虐げられなければいけない。
同様に、社会の存続にも、虐げられる者は常に存在するという事実が付随する(ウイキペディア 引用)』
もし私がオメラスに暮らしていて、虐げられた子供たちの存在を知らなければ、その幸福を感受できるだろうが、知ってしまうと罪悪感に苦しむと思う。
その一人の子供を救ってやりたいと思うだろうが、弱い自分を言い訳にして何も行動を起こすことなく、罪悪感を抱えながら、一人の子供の犠牲の上に成り立っているオメラスで、偽りの笑顔を浮かべて生きていくだろう。
だが、そのような犠牲があると知ってしまえば、もうその世界で生きることを幸福とは思えない。
今の自分の幸福は、色々な人の犠牲の上になりっているのだ。
美味いものを食べるために、家畜を食うのと同じ。
私は殺される家畜のことを思うと、どうしようもなく悲しくなる。
それなのに、ヴィーガンになることなく肉を食べている。
オメラスの話と似ているように思わないか?
これはフィクションの話ではなく、今のこの世界も同じだ。
いや、今のこの世界の方がもっと酷い。
オメラスは一人の子供の犠牲を除けば、完璧なユートピアだ。
私たちが知らないだけで、この社会を維持するために過酷な環境で虐げられた人たちや、私たちが安価でものを手に入れるために、賃金の安い発展途上国などで過酷な労働をしている人たちが星の数ほどいる。
それを国は容認している。
オメラスから去ることもできず、私たちは容認している。
私たちが幸福を感じるために、不幸な目に遭ってくれている人たちがいる。
不幸な人を生み出すのは必要犠牲なのだ。
だから自分が幸福だと感じるとき、私は同時に悲しくなってしまう。
世界中には苦しんでいる人たちが沢山いるのに、自分だけが……。
世界には苦しんでいる人たちが、何億、何十億人といるのに、自分だけがのうのうと生きている。
幸福だと感じる自分に、のうのうと生きていることに罪悪感を感じる。
つまり不幸は、小さくすることはできても、無くすことはできない。
あなたが幸福になれば、誰かが不幸になるのは絶対だから。
幸福そうなあなたを見て、羨み、嫉妬し、劣等感を抱き不幸になる人が必ずいるからだ。
それは幸福があるから生み出される不幸だ。
SNSなどで幸せそうな人を見て、羨み、嫉妬し、劣等感を抱いた人は多いと思うがそれと同じだ。
それも他者と自分を比べるから生じる不幸認識。
できるだけ、幸福になりたければ他者と自分を比べてはならないが、これも脳が他者と自分を比べるように作られているから、ロボトミー手術などをするしか解決策がない。
人間の幸福とは誰かに認められて、肯定されて初めて感じることができる脆く危ういものなのだと中村文則氏の『R帝国』で述べられている。
幸福になるには、死ぬ以上に強い勇気がいると私は思う。
『嫌われる勇気』や『幸福になる勇気』などの書籍がある通り。
幸福になるにも勇気がいる。
幸福とは多くの人を踏み台にし、蹴落とし、多くの人の犠牲の上に手に入れるものなのだ。
他人を不幸にする勇気がなければ幸福にはなれない。
幸福に上限はない、幸福=欲望だから。
人間の欲望は無限大で、だからこそ知足を知ることが幸福になるには求められること。
知足とは足るを知ることだ。
足るを知らない限り、人間は幸福にはなれない。
誰かにサポートしてもらうことはできても、本当に自分を幸せにしてくれるのは、自分自身しかいないのだ。
自分を肯定してやれるのは自分だけ。
自分を幸せにしてやれるのは自分だけ。
人間は勝手に一人で苦しんで、勝手に一人で救われるしかないのだと思う――。




