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『トロッコ問題』について

 トロッコ問題という道徳倫理実験を知っていますか? トロッコ問題とはイギリスの哲学者であるフィリッパ・フットが1967年に提起した「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という倫理学上の問題のことなのだそうです。

 

 この問題本当によくできていて、人間の道徳理念をこれでもかとえぐってきます。答えがないから、答える人によって最適解が違ってくるのですよ。では、どのような問題かというと、線路を走っていたトロッコの制御が不能になってしまい、このままでは前方で作業中だった五人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう、というもの。


 その光景をあなたは見ていて、あなたは運よく分岐器のすぐ側にいたのです。あなたがトロッコの進路を切り替えれば五人は確実に助かるけれど、切り替えた先の別路線には一人で作業してる人が運悪くもいるのですね。


 あなたが五人を助けるために分岐器のレバーを変えれば五人は助かるけれど、代わりに一人で作業していた作業員がトロッコに轢かれて確実に死ぬ(声を上げて「逃げろ!」と言っても聞こえない状況だということが前提となりますが)。


 もしそのような状況になったら、あなたは路線を切り替えて一人を犠牲にして、五人を助けるでしょうか? 普通に考えれば犠牲は少ない方がいいに決まっていて、五人を助けるために一人を犠牲にするのは仕方のないことだという判断になるかもしれません。


 だけど、その一人は何の罪もない一般人です。そうすればあなたは何の罪もない人を、あなたのエゴによって間接的に殺した殺人犯になります。あなたはあなたの判断で、何の罪もない作業員一人の命を奪ったのです。


 その場合「五人を助けるために一人を犠牲にするのは仕方なかったことなのだ」と自分の判断を正当化できる人もいるだろうけれど、できずに罪の意識にさいなまれる人も少なからずいると思います。


 生物学者マーク・ハウザーという人がネット上でこれに類する三十以上の質問を行い、問題の回答者に「何故そのような判断を行ったか」の理由を聞くと、回答した五百人の内三割ほどしか自分の判断を正当化できなかったらしいです。


 正当化した人も、心のどこかで自分の判断が正しかったのか自問自答することでしょう。自分を裁くのは、突き詰めると自分なのですから。まあ、五人を助けるために一人を犠牲にするのは仕方なかったと今は正当化することにして、少し質問の内容を変えてみましょう。


 もし一人で作業している作業員があなたにとって大切な人、あるいは知り合いならどうですか? あなたの大切な人を助けるために、分岐器を切り替えず五人を見殺しにするか? それとも大切な人を犠牲にして、五人を助けるか? この問題は命の重さを計るものだと思うのですよ。


 今現在私たちが暮らす民主主義の社会では、命の重さはみんな同じだとされていますが、実際にそのような状況に差し掛かれば「命の重さはみんな平等」だと言えるのでしょうか。たぶんほとんどの人が、口には出せないけれど「命の重さは平等ではない」と思っていると思うのです。


 本来、自然界では命はみんな平等ですが、社会で生きる人間のように認知能力が発達した集団生活をする生き物になると、そうも言えなくなってしまいますよね。例えばですよ、例えば、総理大臣と普通の一般人の命なら、どちらがより尊重され、重んじられるでしょうか? 民主主義社会では、政治家は国民の公僕と言われていますが、命の重さを考えると、そうです、たぶん、今あなたが思った通りです。


 その他にも色々例を出せますが、例えはこのくらいにします。つまり、人間は物事に優先順位を付けたり、階級を付けたり、自然と差別化するようにできているのですよね。進化の過程でそのようになるのが一番理にかなっていたから、利己的に差別化するのは仕方のないことなのです。


 人間は自分たちの価値観で世界を見る生き物で、そうなれば価値観の違いが出るのは仕方のないことです。五人を犠牲にしても、大切な人を助けたいと思う差別は仕方ないことなのだと思います。


 差別ゼロなんて綺麗ごとが言われますが、いや、そのようなスローガンは良いのです。夢は大きく持った方が。だけど、実際問題、差別ゼロは不可能なのです。人間が生きて、社会を保つためには差別は必要不可欠なのですから。


 では、あなたは大切な人の命を助けるために五人を犠牲にできるか? と問われるとまた違う問題ですよね。そうです、この問題はどこまで行っても『答えなどない』のです。出せるわけがないのです。でも、もしもの例ですが、どちらを助けるかを選ばなければならないのです。


 そんな状況になったら、どちらを殺すか、助けるか? 人間は差別する気はなくても、そのように優先順位を付けて差別するようにできているのです。私は差別を“無意識の差別”と“悪意の差別”の二種類に分けられると考えています。


 悪意ある差別は、誹謗中傷やヘイトスピーチなど故意に相手を傷つけようと行うものなので、当然許されるものではないですが、無意識の差別となると唸ってしまいます。今のトロッコ問題の話も同じように、人間は無意識のうちに選別という名の、差別をしてしまう生き物なのです。


 無意識の差別を含めて本当に差別をなくそうと思うなら、人間の脳の構造から変えなければなりません。そうすれば、色々と弊害もでるでしょう。それは不可能だから、無意識の差別を含めて差別をできる限り表面化させないように人間一人一人がちゃんと学ぶ必要があるのだと思います。


 どのようなことが差別になるのかを学ぶことで、差別を小さくすることはできます。トロッコ問題から差別の問題に話がそれてしまったが、トロッコ問題に対してこのようなことを言う人もいますね。


「そのようなことを言われても、実際にそんな命の選択をする状況になるものではないじゃないか。そんなこと考える必要などない」


 確かに昔なら、そのような命の選択をするのは医者だとか、政治家のような選ばれた人間だけだっただろうけれど、現代のようにグローバル化して、色々な情報を手軽に手に入れられるようになった社会では、一般人も考えないわけにはいかなくなっていると思うのです。


 以前、北海道であった某いじめ事件が世間を騒がせましたよね。いじめを受けていた少女と親は学校に何度も助けを求めていたのに、学校も教育委員会も取り合ってはくれず、いじめられていた少女が凍死自殺したというものです……。


「なぜ先生はイジメた子の味方なの?」と少女は泣いたといいます。いじめ事件がニュースで取り上げられるたびに思いますが、ヒトはいじめを辞められないのですよね。いじめゼロのスローガンを掲げるのは良いですが、いじめゼロにするために、いじめを隠蔽するのは良くありませんよ。


 だからこそ隠すのではなく、被害者をどう助けるかを考える必要があると思うのは、完全な傍観者の綺麗ごとですが、考えてより良い最適解が導き出せるのなら、より多くの人が考えて、より良く結果を変えることもできると思うのですよね。


 また、話がまたそれましたが、事件そのものも残酷極まりないですが、その少女の母親に教頭が言った言葉が本題です。「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。 1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」に衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか。

 

 この教頭の言葉は間違いなくトロッコ問題ですよね。教頭は何の罪もない一人を犠牲にして、十人を助けたのです。だけど、その十人は子供だとしても残酷ないじめの加害者たち。そりゃあ、加害者10人+加害者の親族みんなと、被害者1人+被害者の親族なら、被害者側を切り捨てる方が、犠牲は少なくて合理的な答えではありますが。


 だけど、このような場合、本当に教頭の選択は正しかったのでしょうか? この北海道のいじめ事件以外にも、余りに残酷過ぎるいじめは毎月、いえ毎日のように起こっているのです。十人の未来ある加害者を助けるために、一人の未来ある罪のない被害者を犠牲にするのは正しいのでしょうか?


 最大多数を助けるために、一人くらい、いじめで死ぬのは仕方のないことなのでしょうか? いじめは必要悪、いじめの被害者は必要犠牲なのでしょうか? 最適な答えとして、必要犠牲はつきものなのだから、やはり教頭が言ったように、少数の犠牲で最大多数を助ける方が合理的なのだとは思います。


 が、その少数の犠牲に含まれてしまった人たちからしたら溜まったものではありませんよね。『進撃の巨人』のアルミンも「何も捨てることができない人には、 何も変えることはできないだろう」と言っていましたが、本当にそうだなぁ……としみじみ思いますね。


 またまた、漫画を例に出すと『鋼の錬金術師』でも言われている通り、「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには、それと同等の代価が必要になる」ですね。どちらも助けようとするのは傲慢なのですよ。


 だから、合理的に考えれば一人の犠牲で十人を助ける方が妥当だという答えになるけれど、人間は感情的判断をする非合理な生き物なのです。トロッコ問題で試されるのは、人間の倫理道徳、命の重さです。命はみんな自然界では平等だけれど、人間界では命の価値は違ってくる。


 よく、犯罪者の命は軽くなる、と言われますが(差別などのつもりで書いていないです)だったら、いじめの加害者たちの命は十分の一ほどに軽くなってしまっていたのでしょうか? そうなのだとしたら、教頭は命の重さを計り違えたのでしょうか? 十人の加害者と、一人の被害者、どちらを助けるべきだったのでしょうか?


 十分の一になっているのなら、罪のない被害者一人と罪のある加害者十人でつり合いが取れることになり、どちらを助けるかは選択者の判断にゆだねられます。けど、そのいじめ事件では、加害者の親族も絡んで来るので、教頭の判断はやはり合理的には正しいのか……?


 まあ、延々と議論していても、こんな問題に答えなどないけれど、そのようなトロッコ問題的な問題に直面したら、答えを出さなければならないのです。私は被害者一人を犠牲にするという答えを容認することはできないと言わなければなりませんが、だからと言って、加害者だけど……加害者の未来を潰すのもまた違う気がしてしまいます。


 だからこそ、そのような犯罪を犯した人や、親族を見せしめとしての差別があるのですよね。東野圭吾さんの『手紙』という小説の中でこのような言葉がありました。


「犯罪者はそのことも覚悟しなきゃならんのだよ。自分が刑務所に入れば済むという問題じゃない。罰を受けるのは自分だけではないということを認識しなきゃならんのだ」

「我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる──すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」


 差別は犯罪を未然に防ぎ、より良い社会を築いていくためには必要な悪なのです。だから、罪を犯してしまった人と、その親族は、見せしめとして、一生死ぬまで罪を償い続けなければいけないのでしょうね。それが罪を犯した者たちへの罰なのでしょう……。

 

 とまあ、トロッコ問題に関することは、そのようないじめの問題に限らず、日常生活にも応用されています。例えばAIによる自動化などです。これからAIによる自動運転などが普及し始めるのは目に見えた未来です。実際、AIによる自動運転の車はもうあるわけだし。


 その場合、AIが運転している自動運転の車が事故を起こしてしまうという場合もあります。例えば、AIが運転する車が走っていて、前方から暴走した車なりが迫って来た。AIがハンドルを切ることで、暴走した車との衝突を避けることができるが、ハンドルを切れば歩道に突っ込むことになり、運悪く歩道には沢山の罪のない人たちが歩いている。


 そのAIが運転する車に乗っているのはあなたです。あなたは自分の命を捨てて、罪のない大勢の人を犠牲にしない方がいいか、それとも自分が助かるために罪のない大勢の人が歩く歩道に突っ込むか? 最大多数を助けるために少数を犠牲にするべきなら、あなたは甘んじて自分の命を投げ出さなければならないことになってしまいます。


 そうわかっていても、犠牲になる一人が自分になると、納得がいかないのではないでしょうか。人間は自己中な生き物だから、そう思うのは仕方のないことです。自分が心を決めて自己犠牲を選ぶのなら納得できるかもしれないけれど、突然迫られて大勢の人を助けるために犠牲になれと言われれば納得できるものではないですね。


 一番自分が犠牲になる自己犠牲が最適解だとわかっていても、人間は非合理な生き物で、その場になると即決即断できません。そうです、人間は感情で動く生き物なのだから。


 けれどこれは選択しなければいけない問題で、そのような状況に遭遇したとき車に乗っている人を犠牲にするか、歩道を歩いている人を犠牲にするかのプログラムを組み込んでおかなければならないのです。


 この道徳倫理的な問題は、人間が生きていくうえで、そしてこれから社会がより良くなるために、常に選択し続けなければならない問題でもあるわけです。だから、哲学など役に立たない学問だと切り捨てるのではなく、道徳倫理などを学ばなければいけないのです。


 答えのないそのような問題を考えることで、人間力は鍛えられると思うのです。人間力には優しさも含まれていると思うから。例え綺麗ごとだとしても、上に立つ者はもちろんのこと、社会を廻しているのは人間で、一人一人の人間力が上がれば、つまり民度が上がれば、今よりは生きやすい世の中になると思います――。








 毎回、話がそれてしまいますね。要点をまとめると、このような問題を考えるのは、人間力を鍛えるためにも必要なんじゃないか、ということでした。

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