表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/28

『同調圧力・集団主義』について

 同調圧力・集団主義という言葉はよく聞きますよね。この言葉自体がネガティブなイメージで用いられていますが、決して悪いことばかりではないのです。


 同調圧力・集団主義は、人間が団結して、種や社会を発展させていく上で、必要不可欠な機能なのですから。もし、この同調圧力・集団主義による同調性が人間になければ、現在の文明の幸福を享受できなかったでしょう。


 だから、同調性によって生じる苦しみは必要苦であり、文句が言いたいわけではないのです。と、どうすることもできないのだから、グダグダ言わずにそこで終了すれば綺麗なのでしょうけれど、何かと厄介な代物で代償となる弊害が大きいのも確かなので、今回は同調性に関するメカニズムだけでも突き止めて、少しは肯定できるように今回はこの厄介な同調圧力、集団主義を掘り下げてみたいと思います。


 同調圧力、集団主義とは文字通り、同調性による目に見えない空気による圧力のことです。よく聞くので、知っている人も多いでしょうけれど、日本民族は世界から見ても同調圧力・集団主義精神が強いとされていますね。


 ああ、確かにな~、と思うことがあなたにもあるのではないでしょうか。実はこの同調圧力や集団主義が起こる原因メカニズムも、脳科学や進化生物学などで説明されているのですよ。


 原始の時代、弱い人間が生き残るには、集団を作り団結して、集団行動をする必要がありました。集団の方が種全体として考えたときに生き残る確率が高かったのです。


 ですが、もし、その集団の中に和を乱し、リソースを支払わず、利己的、自己中心的な行動をするフリーライダー、異分子、異端者がいたらどうなると思います?


 そうです、集団の和が乱れてしまい、団結できません=死と直結です。和を乱す存在になる、フリーライダー・異分子をいち早く見つけ出すために、脳を進化させる必要が生じ、“裏切り者検出モジュール”という機能が人間には備えられたのだそうです(中野信子さんの『ヒトは「いじめ」をやめられない』という本の中で異分子を見つける機能を“裏切り者検出モジュール”と呼んでいるので、ここでもそう呼ばせてもらいます)。


 裏切り者検出モジュールの働きで、常に集団の調和を保ち、異分子となりえる存在をいち早く察知し、出る杭は打つように制裁サンクションを与えることで、調和を保つように進化したのです。


 つまり、自分が異分子だと思われ、制裁サンクションの対象にならないために、周りに合わせる必要が生じ、それが同調性、同調圧力が生まれるメカニズムです。


 で、日本人は、裏切り者検出モジュールの感度が他の民族よりも強い人が多いらしく、だから、同調圧力を敏感に感じ取ってしまう人が多いのだとか(その他にも、日本人は幸福ホルモンと呼ばれるセロトニン分泌量が、他の民族よりも少ないの人が多いらしく、それが自殺者数が多い原因なのではないかと私は思っています)。


 文化人類学者のルース・ベネディクトという方が書いた『菊と刀』という、外国人という客観的な立場から見た、日本人の特性が表された本があるのですが、それでも日本人の矛盾性と集団主義が語られています。


 個人主義が重視される欧米の人から見れば、日本人の同調圧力の心理は、かなり理解しずらいものになっているのでしょう。あと欧米だけに限らず、芸術の国というイメージの強い、イタリアに住むイタリア人は、みんなと同じ選択をすること、規範通りに行動する方が“恥じ”という心理になるのだとか(日本人の場合は反対に、規範から外れることの方が“恥じ”だと思う傾向が高いです)。


 つまり、イタリア人は集団行動が苦手な傾向にあり、それが原因かどうかはわかりませんが、第二次世界大戦時イタリアは弱かったといいます。逆に集団主義的なドイツや日本は結構強かったです。


 集団主義的性質を持ち、規範行動通りに行動できる日本民族は効率的な社会を形成しやすいでしょうし、戦争などになったときに強い、というのはあながち否定できませんね。


 日本がどうして鎖国解除して、わずかな年月で欧米列強に追いついたかというと、他国のサポートがあったのもありますが、天皇制絶対主義の帝国主義思想より一致団結できたからでもあると思うのですよ。


 そして現在では、学校教育が同調圧力、集団主義を助長し強化している一端を担っていると思います(怒らないでください。反日的批判じゃないです)。


 もともと、学校とは国に従順な兵士を作り出す育成機関だったのです。学ランは陸軍の、セーラー服は海軍の制服であることは有名ですよね。もし、学校などの教育機関で、森友学園問題で騒がれていた過度な愛国教育などをし始めると、戦争を気を付けた方がいいと思います。


 と、話がそれましたが、多様性が叫ばれていますが、学校などでは規範が厳しいです(当然ですが)。幼少のころからいわゆる洗脳とも取れる、規範行動の強要それらすべてが少しずつ、子供たちを集団主義的に育てているとも思われます。


 社会という大きな組織として考えると、集団主義的に育ってくれた方が都合がいいので、子供たちには従順な大人に成長して欲しいですよね。


 何が言いたいかって、まだ百年、二百年、はたまた三百年くらいは無理かも知れませんが、これからの先時代、多様性を認めるのであれば学校以外の教育方法があっても良いと思うのです。


 すぐには無理だとわかっていますが、インターネットが普及し、リモートワークも普及したのですから、数百年後には学校に通いたい人は通い、学校が合わない人は別の自由度の高い多様な学びがあってもいいと思います。


 ここまでは、同調圧力、集団主義が起こるメカニズムを見てきましたので、ここからは同調圧力、集団主義が引き起こす効果みたいなのを見ていきましょう。


 山本七平さんという方が『「空気」の研究』という書を著しているのですが、人間の判断基準には『論理的判断基準』と『空気的判断基準』があると、その本では説かれています。論理的判断基準とは文字通り、論理的に物事を判断することをいい、空気的判断基準とは空気で物事を判断することをいいます。 


 誰でも経験があると思いますが、明らかに自分の言っている主張が正しいと思うけど、空気で正しさを誇示できなかったり、誘いを断りたいのに、場の空気で断れなかったり、自分の主張を場の空気で言い出せなかったり、などなど目には見えない空気で、本当の自分を押し殺してしまった経験。


 もし、自分の意見を主張しようものなら「空気を読めよ」「周りに合わせろ」「自己中」「大人になれよ」「人のことも考えろ」などなどを言われてしまうので、自分の主張を押し殺すしかありません。


 そのような経験は良心の呵責などもあり、毒のように人間の精神を蝕んでしまいます。だから、始めから同調圧力や集団主義などに疑問を持ってしまうと駄目なんですよね。疑問を持つのは、1+1はどうして2になるの? と疑問を持ってしまうようなものなのでしょう。


 だから、集団主義や同調圧力などに苦しまないようにするには、返って幼少のころから集団主義・同調圧力、いわゆる「長い物には巻かれろ」「郷に入っては郷に従え」「黒いカラスも白くなる」的な考えを植え付ける方が子供たちを、集団主義・同調圧力による抑圧に苦しまないようにできるのでは? とさえ思ってしまいます。


 世渡りの上手い人は、集団主義や同調圧力に何の疑問も不満も持たず、長い物に巻かれて、「黒いカラスも白くなる」的に器用に生きているように思うのですよ。正義感の強い人や、自分の意見や主張を持っていて、同調圧力や集団主義に疑問を持ってしまう人は苦しいですよね。


 こんなこと言ってはいけないのだと思いますが、力のない人に、強い正義感や、個人主義の大切さを植え付けても、その人は不幸になると思うのですよ。だって、同調圧力・集団主義にあらがう力がないのですから。


 それはそれで色々駄目だと思いますが、そのような疑問も正義感も捨ててしまって、何の疑問も抱かず生きられるなら、幸福の観点から言えば、そっちの方が幸せではないかと思うのです。


 自分の心が、良心が間違っていると言っているのに、生きるため集団主義に従わなければならない。良心が間違っているといっても、正しいと言わなければならない。


 これは生まれながらの気質でどうすることもできないかもしれませんが、嘘をついても、誰かが苦しんでいるのを見ても、集団主義・同調圧力に良心の呵責なく従える人間になる方が生きやすい=幸せだと思うのです(もちろん、それが正しいとは言いません)。


「誰かが苦しんでいようと、良心が咎めようと知ったことか。自分には関係ない」と疑問も不満も何も抱かない人間になれれば幸せだと思うのです。インターネットが発達して、世界中の情報を手に入れられるようになった現代社会では、「無関心」とでも言いましょうか? その無関心の能力が、良い意味でも、悪い意味でも必要になるのではないでしょうか。


 一個人の力など無力で、ニュースで取り上げられることでいちいち心を痛めていたらやっていけません。例えばですが、今回のウクライナでの戦争の件だって、酷い……悲惨だな……と思いますが、そう思うのは映画やドラマなどを観て、感情移入して泣くの対して違いがなくて、当事者でない人間からしたら、結局は助けてもあげられない。


 同情するなら金をくれ、という有名な言葉がありますが、同情するだけして、結局一般人に何がしてあげられるでしょう。このようなエッセイなどで、同情する、可哀想、酷い、など綺麗ごとは言えますが、結局、同情したって金をあげられないのです。せいぜいしてあげられるのは、少しの募金くらいなのです。


 映画やドラマの登場人物が苦しんでいて、どうにかしてあげたいと思っても、どうすることもできないのと同じで、自分はただの傍観者で、結局本当の苦しみなんて当事者でない限り真にわかるわけがないし、救ってやることもできないのです。


「いじめ」などでもそうですが、いじめを知っていて助けなかった傍観者も加害者だというふうに言われることがありますが、私はそのような傍観者を責めることができないのです。


 もし自分がその傍観者の中に入っていたって、いじめを受けている被害者を助けることなどできなかったと思うのです。もしかすると、自分がいじめられないように、いじめの加害者加わることだってあるかもしれません。力=権力にあらがえるほど強くはないのです。


 そのようなとき、長い物に巻かれても良心の呵責なくいられる人は幸せだと思うことがあるのですよ。何もできないのに、綺麗ごとばかり言っているのは青いのですよね。ただ、傍観者的な立場で、こんなことを長々と書いている私は青いのです。


 長い物には疑うことなく巻かれ、不満を持たず、ただあるがまま受け入れる、それが大人の定義だとは言いませんが、それが大人になることなのではと思うことが度々あります。弱者の思考回路と言われればそれまでですが、たぶん日本民族の三分の一くらいは、似たようなものではないでしょうか。


「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」と『攻殻機動隊』というアニメの草薙くさなぎ素子もとこというキャラが言っていました。


 その言葉を聞いて「確かにな~」と思うのです。一個人が世の中に不満を持ったって何も変わらないのです。なら自分を変えるしかない。自分を変えられないなら、耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らすしかない。


 何度も言いますが、この主張が正しいというつもりはありません。が否定もできないのです。だから、このようなテーマで不満を取り上げて、うだうだ言っている時点で、私は青いのです。大人になり切れていないのです。


 大人になるつもりなら、こんなもの書かずに、何もできないなら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせばいいのでしょうけれど、言論の自由・表現の自由があるからには、普段何もできず現実世界で耳と目を閉じ口をつぐんで暮らしている私でも、一応は発言の自由を認めらています……。 


 ネット上で差別や誹謗中傷、炎上、過激な言葉の言い合いが起こるのも、現実世界で耳と目を閉じ口をつぐんで暮らしている人たちが、匿名化によって、溜まったフラストレーションを発散できるからなのですよね、きっと。もし、ネットでの規制が厳しくなったら、こんなエッセイも小説も書けなくなってしまうでしょう。


 結局、大人になるとは何なのでしょう。何もできないのに、色々なことに疑問や不満を持って、うだうだ考えています。考えてはいけないと思っても、思考を止めることができません。考えれば不満や疑問が湧いてきます。


 大人になるとはどのようなことなのか全然わかっていませんが、文学作品などで見る、主人公は青いと評されますよね。例えば今思いついた人をパッと挙げると『人間失格』の大庭葉蔵、『異邦人』のムルソーなどでしょうか? 大庭葉蔵は人間という存在が理解できず、周りに合わせることができない人間です。


『異邦人』のムルソーも殺人の動機を、「太陽が眩しかったから」と述べ、サイコパスなどと言われることがありますが、ムルソーはサイコパスなどではなく、嘘をつくことができない“正直者”なのだと思います。


 自分の罪を軽くしようと思うなら、人情に訴える言い訳なり何なりをするはずですが、ムルソーは馬鹿正直に、自分の心を万物の尺度にして、思っていることを思っている通りに言う正直者です。


 正直者や生真面目な人、自分の良心に従って正しくあろうとする人、長い物に巻かれようとしない人、社会の不条理に疑問を持ってしまう人が「青い」と言われるのなら、何かが間違っている。人間社会で生きようと思えば、同調性のない人間、ここまで極端な正直者は人間失格のレッテルを張られるということではないでしょうか。


 もしそうなら、間違っているのは正しくあろうとする人なのかもしれません。坂口安吾が『堕落論』で語っていますが、人間は義士も聖女も堕落するのです。堕落=大人になることだとも考えられるのです。大人になるには堕落しなければならない。堕落を否定しているのではありません、堕落は良いことなのです、仕方ないことなのだと肯定します。


 ですが、堕落するには勇気と力を必要とするものです。坂口安吾も言っていますが、人間は堕落しきれるほど強くはないのですよ。堕落できない弱さ。もし、本当の意味で真に堕落できるのなら、ここまで人間は苦しまないと思うのです。


 大抵の人は器用に、臨機応変に状況に応じて対応していますが、中にはそのような臨機応変な対応ができなくて、苦しんでいる人もいるのです。だから、嘘をつくとか、正義感の強すぎる人、誰かの気持ちを推しはかり過ぎる人は、昔もですが集団主義に努めなければならない社会では生き辛いですよね……。


 それが良いことなのかはわかりませんが、正しくあろうと思わなくていいのだと思ったら少しは気が楽になります。「無関心力」を鍛えることが大人になるという一つの条件になるのではないでしょうか。そして、考え過ぎないことです(これに限ります)。


 良くも悪くも、考え過ぎ、色々な屁理屈を言うとその時点で青いと言われますね。歳をとると体力の温存を図るために、思考力が低下すると言われます。余計なことを考え過ぎない、つまり、考え方が上手くなるのでしょう。


 歳を取れば自然と、考え過ぎることも減って、生きやすくなるのだと思います。それまで待つのです。時間は過ぎます。太宰治の『女生徒』という話にこんな文章がありました。


「けれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんもうそのないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ」


 これを読んだとき、この問題に対する一つの答えが出た気がしました。山を歩くとは歳をとることで、考え過ぎてしまう若い内は激しい腹痛に耐えなければならない。同じく『女生徒』で「幸福は一夜遅れて来る」と書かれています。それまでは、腹痛を見てみぬふりをして耐える以外に方法はないのです。


 耐えるなんて何かおかしい、間違っている、と思いますが、他に思いつかないのですよ。処世術とでもいいましょうか。もちろん、力があるのなら、少しでも早く現状を良くしようと変えればいいですが、ないのならただ耐えるしかありません。


 鳴かぬなら、鳴くまで待とう時鳥です。と、こんなことを真面目に長々と書いている自分自身を「青いな……」と思いますが……。だけど、芸術家とか、文学者、科学者、何か革新をもたらしたり、誰かの心を動かすものを創作する人たちは、大人になってしまったら何もできなくなるのだと思います。


 いつまで経っても子供のような人、などと科学者や芸術家は言われている人が多いですが、子供でないと新たな発見や、革新的なことができないということなのだと思います。だから、子供でいる内は苦しいですが、子供でいることは悪いことではないと思います。


 このように、色々な疑問や不満を発信するのも子供でなければできませんし、そのようは不満を発信する人がいなければ、社会はより良くなりようがありませんからね(一周廻って、開き直ってます)。


 話しが盛大にそれましたが、比較的被害の少ない同調圧力ならまだいいですが、いじめなどの同調圧力などの他者に被害が広がる同調圧力は、いくら大人になって長い物には巻かれろといっても悪い同等圧力だと疑問を抱きますが(また、テーマで書くので、いじめのことはそれほど触れないでおきます)。


 リーダー格がいて、そのリーダー格に嫌われたら自分も制裁サンクションされるから同調して加害者側になる。見るに見かね、助けに入った勇気ある正義感の強い人が、いじめの対象になる。人間は集団になればなるほど、没個性化してしまって、倫理観がなくなってしまうらしいです。


 社会心理学者のル・ボンは著書、『群集心理』の中で、人間は群衆になると一人一人の個性が無くなることを突き止め、それを(没個性化)と名付けました。この没個性化すると、思考力が低下し楽になります。没個性化した人々は、リーダーの下に団結できるのです。


 良い方に団結すれば、科学を発展させたり、宇宙に行くことだってできますが、悪い方に団結してしまうと、例えばネットなどで、過ちを冒した芸能人や犯罪者をとことん叩いたり、誹謗中傷、差別やヘイトスピーチ、炎上という行動をとります(それも、人間が進化の過程で備えた機能なので疑問を持たず、受け入れるのが正しい在り方なのだと思いますが、疑問を持ってしまいますよね……)。


 群衆になることで、一人一人にかかる責任が軽減することで、倫理も軽減するらしく、そのような責任の分割心理を『リスキー・シフト』というらしいです。シスキー・シフトすれば、考えなくていいし、あらがわなくてもいいから楽になります。


 つまりネット上では匿名性が高まり、目には見えない同じ思想を共有する群衆が存在することで、一個人にかかる責任が分割され、没個性化することで常軌を逸した制裁という名の誹謗中傷サンクションなどが行われるとされています。


 最悪の例としてナチスのようになる可能性すらあります。スタンフォード監獄実験という、有名な実験を知っているでしょうか? スタンフォード大学の地下室に、刑務所を作り、一般人を集めて、集まった一般人を看守と囚人に分けて、その人物の役柄が心理にどのような影響を及ぼすか、ということを調べた実験です。

 

 実験の詳細はご自身で調べてもらうことにして、多少のやらせ疑惑はあるものの、看守は心身ともに看守になり、囚人は心身ともに囚人になりました。その実験で、与えられた役柄が人物の人格形成に大きな影響を及ぼしていることがわかったのです。


 今の話と、今回のテーマに何の関係があるかと言いますと、人間は周りの空気や、集団に流され、考えることを放棄し、没個性化して集団主義者になる機能が先天的に備わっていて、あなたも私もヒトラーに必ずなる可能性を秘めている、ということです(実際、考えることを放棄して没個性化できた方が幸せだと思います。それが大人になることなのでしょう)。


 その機能のため、学校だけに限らず、職場でも、どこでもこの負の同調圧力に従って、女王アリに従う、働きアリのように決められたプログラムだけをこなす集団主義者になるのです。


 またまたですが、今回のウクライナの戦争のように、ウクライナを攻めているロシア兵の中には、疑問を持っている人たちが少なからずいると思いますが、彼らも長い物には巻かれて、従わざるを得ないのです。


 何の疑問も持たず、祖国のためだとウクライナを攻撃できる人なら心も軽いでしょうに……。多分、そんな割り切れる人は少なくて、ロシア兵も苦しんでいるのでしょうね……。


 まあ、群衆を作れるのは凄い能力ですが、良くないことにも凄い力を発揮するのだから良し悪しですね。独裁主義者の人が民主主義を批判する時に、決まって言われるのは、少数の正しい判断を、集団になり没個性化した人々が数の力で押さえつける、ということです。


 論理的判断をしていれば上手くいくことでも、人間は集団の空気を読むなどの情動的な行動で、確かに過ちを冒します。確かに、集団になればなるほど、人間は過ちを冒しやすく、独裁主義者が言うように、優秀な少数の意見の方が正しい判断ができる、という主張も否定できないけれど、独裁主義より民主主義の方が、失敗を冒しても修正しやすいので、民主主義の方がいいと思います。


 なんか、同調圧力、集団主義が引き起こす負の作用ばかりに目を向けてしまっていますが、同調圧力、集団主義はちゃんといい作用も引き起こしていることを忘れてはいけません。


 同調圧力があるから、人類は発展できたし、同調圧力を読み取る能力があるから犯罪などが未然に防がれているわけです。社会脳という言葉がありますが、人間は乳児のころより、親や周りを観察し、意思疎通をすることで社会性が強化されます。


 乳児がミルクが欲しいと泣いても、ミルクをあげなければ次第に赤ちゃんは泣かなくなるらしいですね。そのような意思疎通が乏しいと、社会性の欠如した人間になってしまうらしいです。


 何が言いたいかって、そのように人間は赤ちゃんのころから、周りの大人たちの気持ちを受信し、社会性を強化してきたわけで、場の空気を読むのは人間の正常な機能で、その機能がちゃんと備わっている方が正常なのです。


 同調圧力を敏感に感じ取り、集団主義に従って行動できるのは、ちゃんと愛情をもって育てられた証拠でもあるのですよ。もし、同調性がまったくなく、周りの目を気にしないで犯罪を無意識のうちに犯してしまうようでは生きていけませんもの。


 同調圧力を読むことができなければ、そっちの方が生き辛いことになりますよ。良し悪しですね。ショーペンハウアーやニーチェは、孤独になることしか人間は幸せになれないと説いているし、以前話題になった『嫌われる勇気』でも取り上げられましたが、その本でも人から嫌われる勇気を持たなければ幸せになれないと説かれていましたね。


 けれど、そのような嫌われる勇気をみんながみんな持てるわけではないので、ちょうどいい距離感を探す方が嫌われる勇気を持つより簡単で確実だと思います。

 

 どう足掻いても、人間が生きていく上で、同調社会は変えられないのだから、できるだけ同調圧力を避けられ、制裁の対象にならず、孤独にならない程度に適度な距離感を見つけることしか、個人が幸福になる方法がないと思います。


 空気に屈せず、嫌なことは嫌だといい、自分の信念を持つ、その生き方も素晴らしいと思いますが、いばらの道です。そういう人に、なればなったで、出る杭は打たれるので制裁サンクションの対象になってしまいますから、制裁サンクションを受けないように、要領よく生きたいものですね……――。








 今回、最大文字数を九千に更新しました。書けば書くほど、本来のテーマから脱線してしまいます……。短くまとめた方がわかりやすいと思いますが、私の悪い癖で、どうしても長くなり要領を得なくなりますね……。短くまとめるのが下手なのです。読んでくださりありがとうございました。いやほんと、書けば書くほど青くなりますね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ